第69話『夢境問答』
第69話『夢境問答』
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
夜だった。
帝国が地図から消えて数週間になる。
馬車の列が、暗い平原を進んでいた。
轍の軋み。
馬の鼻息。
松明が隊列の背を赤く舐めて流れていく。
先頭と殿を兵が固めていた。
数十人。
かつて世界の主導権を握っていた国家
残っているのはこれだけだった。
皇帝アルド・グラインは、揺れる車内で目を閉じていた。
回廊が暴走したのは、十王会議だ。
帝都が城が、なによりも民がねじれた空間にさらわれていった。
俺はアルケーを使った。
自身の周辺だけを、流れていく世界から引き留めた。
それだけのために。
力で均した国は、力で均されて終わる。
だから俺は頭だけで国を回してきた。
数字と、人の欲と、差配だけで。
その信条を破ったのは、後にも先にも
あの一度きりだ。
向かいの席で、虚空が外を見ていた。
グリムの妹。
勇者と魔王の時代から数えて、何度この夜を見たのかもわからぬ眼が、暗い窓に映っている。
窓の外で、馬蹄が一つ隊列に寄った。
「皇帝様。この速さなら夜明け前にはアサナルドの外縁が見えます」
ガウェン・ドルツ。
ブラッド第一席。
長い間アルドの隣で刃だった老兵だ。
白髪交じりの頭に、古傷が一本走っている。
「捕虜の件、兵が気にしております」
ガウェンは声を低めた。
「帝国の捕虜を、なぜわざわざアサナルドまで運ぶのか。牢ならどこにでもあったものを」
反対の窓に、もう一騎が付いた。
「理由を考えるのは、着いてからで十分です」
ノエル・ハイン。
第二席。
鋭い眼をした女で、隊の進退を一息で決める。
「今はただ、アサナルドへ向かう。それが先です」
――その答えに、半分だけ、虚空が頷かなかった。
「流れが、変わっている」
女の視線は、暗い平原のずっと先、一点へ吸い込まれていた。
「近づくほどはっきりする。この一帯の根源力がひとつ所へ傾いている。アサナルドだ」
虚空は窓から目を離さない。
「だから回廊が繋がらん。回廊のアルケーは、流れに逆らって錨を打つ櫓だ。流れそのものが片側へ雪崩れている今、櫓はどこにも下ろせん」
アルドは、目を開けなかった。
――それで、市王が来られないのか。
市王ルミエルの回廊なら、人も物も一息に運べたはずだ。
十王の中でも、真っ先に駆けつけられる手札だった。
その回廊すら、今は錨を下ろせない。
すぐ来られる者から順に、来る道を失っていく。
虚空は、しばらく黙っていた。
それから、低く言った。
「……わかってしまった」
初めて、その声に温度があった。
「捕虜を運ぶ理由だ。根源力を吸わせて、受肉を早めるためだ」
「生きた人間は、根源石の比ではない。器のままに濃い根源力を抱えている」
「そして根源は感情で膨れる。とりわけ――
恐怖で」
車内の空気が、沈んだ。
「殺して焚べるのではない。生かして、怯えさせたまま近くへ寄せる。怯える数が多いほど、使徒は早く、強く肉を得る」
「捕虜を運ぶのは、兵站だ。恐怖という名の、薪のな」
「アサナルドに連れて来れれば、皇帝も殺せるチャンスができ、受肉も早めれる、合理的だ」
「ヴィス・ノーレンという男は実に厄介だぞ、皇帝」
アルドの瞼が、ゆっくりと上がった。
黒い眼が、暗い車内でやけに静かに据わっている。
「死者は」
「数日前に四万と数えました」
ノエルの声。
「今朝で、六万を超えています。災厄が広がる端から人が死んでいる。そのうえにあの捕虜です」
ガヴェンの手綱を握る手が強く引き締まる
アルドは、短く指示を落とした。
「境理会へ。各地に行方不明者の張り紙と、死亡者の名簿を貼り出させろ。生きている者とさらわれた者と、死んだ者を分けろ。混乱の中で、誰がどこにいるのかすら今は誰も掴めていない」
「灰色機関へは、虚空名義で話を通してくれ。帝国の名では動かん連中だが、使徒が相手なら話は別だ」
「受肉のことを伝え力を借りる。――アサナルドまで、数日あれば二つの勢力も届く」
「御意」
ガウェンとノエルが、同時に頭を下げる気配がした。
虚空だけが、小さく息を吐いた。
馬車が轍を踏む。
アルドは一つだけ、腑に落ちないものを転がしていた。
――装飾品だ。
なぜ、もう人のいないアサナルドで、暴食の装飾品が受肉を始めている。
アサナルドは数年前、帝国のあの戦力に一夜で潰された技術大国だ。
死者による今なお残る残留した根源力は、目を見張るものがある。
受肉には、これ以上ない土地だった。
だが、場所だけでは足りない。
あの国を潰したあと、人工使徒の素材だった暴食の装飾品は、確かに回収した。
それが、いつの間にか盗まれた。
厳重に管理をしていて、抜かりはなかったはずだ
帝国の総力で捜しても、影も掴めなかった。
その装飾品が今、アサナルドで受肉を始めている。
――盗んだ者が、そこへ戻した。
偶然ではこうはならない。
誰かが意図して、残留根源力の最も濃い古巣へ装飾品を据え直した。
なら、それをやれる者は限られる。
アサナルドの生き残り。
それも、使徒と根源を知り尽くした研究者の類だ。
アサナルドの知を、アルドは軽く見ていない。
爆弾を作り、拳銃を作り、根源石に頼らぬ技術をいくつも生んだ国だ。
だがその知の矛先は、根源そのものにも向いていた。
新たな概念が、新たな根源を生む。
あの国の学者が立てた仮説だ。
そして原初神という、かつて生きていた存在。
その恩恵が根源だというなら、根源そのものにも自我が宿りうる――自立根源論。
膨れ上がった根源に、器が耐えきれず瓦解する。
あるいは、根源のほうが器を内側から乗っ取る。
机上の遊びだと、誰もが笑った説だ。
それが今、平原の向こうで肉になりかけている。
――そんな国の生き残りが。
一夜で故郷を焼かれてなお生き延び、今まさに使徒を受肉させ、世界を壊そうとしている者がいるなら。
それは確実に、脅威だ。
埃の匂いがした。
アルドは、帝国図書館の椅子に腰かけていた。
高い天井。
螺旋の書架が、見上げても果ての見えぬほど昇っている。
午後の光が、埃を金色に泳がせていた。
国を獲る前から、通った場所だ。
「ああ、やっと落ち着いた。腰を据えてくれる相手は助かるよ。立ち話は手続きが散らかっていけない」
声は、書架の陰から来た。
男が一人、台車を押して現れる。
小柄で骨張っていて、糊のききすぎた事務服を着ていた。
台車には、空の木箱がいくつも積まれている。
「いい書庫だね。段の高さも光の入り方も悪くない。こういうのもいずれ僕が差配する分かと思うと、今のうちに目録を取っておきたくなるな。ああ違う違う、別にこれは欲じゃないよ、管理の話だ。放っておくと傷むからね」
男は、アルドの正面まで台車を転がしてきた。
「それにしても君の頭の中、ずいぶん物持ちがいい。要るものと要らないものが棚卸しもされないまま、ぜんぶ仕舞い込んである。もったいない。実にもったいない。こういうのを滞留在庫っていうんだ。僕はね、散らかったものを見ると放っておけない性分でね、あるべき台帳にあるべき数だけきちんと計上してあげたくなる」
男は、木箱の蓋を一つ開けた。
「安心していい。手荒なことはしないよ。痛めつけて壊すなんていちばんの無駄だろう。君はただ、僕の質問に正直に答えてくれればいい。どうせいずれ、ぜんぶ僕のところへ流れてくるものだ。君の国も、君の手駒も、君が後生大事に抱えている数字も。なら今ここで受け取っておくほうが手続きとして早い。そうだろう?」
「まず帝国の戦力だ。残っている力と他の勢力との繋がり。順に出してくれるかな」
アルドは、答えなかった。
男の言葉は、半分も耳に入っていない。
代わりに、頭の中で、別の勘定が回りはじめていた。
――最後に覚えているのは、馬車の中だ。
ノエルの声。
轍の軋み。
装飾品の推理。
そこまでは、鮮明にある。
その続きが、無い。
眠った覚えがない。
瞼を閉じた一拍も、意識の途切れた感覚も、どこにも無い。
そして、この場所だ。
帝国図書館はもう無い。
あの日、城ごとさらわれた。
無いはずの建物の埃を俺は今吸っている。
答えは、一つだった。
――これは夢だ。
記憶に切れ目のない者は自分が眠った瞬間を指させない。
夢の中の人間はたいてい、それを夢だと思わない。
だから違和感を数え上げて辿り着いたこの一線こそが、裏を返せば、ここが夢である何よりの証だった。
そして、この男。
夢だと知らずに眠っている俺から、何かを抜き取りに来た手合いだ。
アルドは、その一語を奥歯の裏に伏せた。
気づいたと悟らせてはならない。
知らぬふりをした俺が"こぼす"ものを、こいつは本物だと信じる。
「特務機関ブラッドのうち三人は、死んだ」
アルドは口を開いた。
声に淀みはなかった。
「ライ・マックス。」
「レン。」
「ヴァルガス・レイン。」
「あの転移のあと、死亡が確認された。帝国の牙はもう無い」
――あれで死ぬようなタマではない。
三人ともどこかで生きている。
それは確信に近い。
確信しているからこそ死んだと言い切る。
生きた牙を"探す価値のある獲物"として渡すより、まとめて墓に入れて見せたほうが手間が省ける。
「兵器も九割が消えた。城と一緒に備蓄のほとんどが流れていった。今の帝国に振るえる刃はほとんど残っていない」
――実際は、六割の消失で済んでいる。
四割は地下の階層ごと無事だった。
だがそれは伏せる。
牙も折れ、丸腰も同然――そう思わせておけば、この男の背後にいる連中は、潰したつもりで油断する。
「手を貸す勢力も無い。帝国は力で黙らせてきた国だ。その力が消えた今、襲いかかるものはいても助ける物好きはいない。残ったのはこの数十人の兵だけだ」
――灰色機関とも、境理会とも、連絡はついている。
味方はいる。
だが一つも渡さない。
ブラッドの一席と二席のことは、口にしなかった。
今この行軍にいる以上、向こうはもう掴んでいるだろう。
わざわざ数え直してやる必要はない。
「ふうん。ふうん」
男は、木箱に何かを放り込む仕草をした。
ことり、と、ありもしない音がした。
「牙なし丸腰味方なし。回収不能としてきれいに計上。……ずいぶん気前よく手放すんだね。惜しくないのかい」
「国が消えた」
アルドは言った。
「将の生き死にを惜しむ段はとうに過ぎた」
「いいね。実にいい心がけだ。手放してくれる分には、こちらの手間が減る。僕は無駄が嫌いだからね」
男は、台車の縁に浅く腰を預けた。
「最後に一つ。これはわからないかもしれないけど――海の民。あれが今どこにいるか知らないかな。教皇がずいぶん知りたがっているんだ」
――教皇…おそらく眼前の男は七戒か
海の民
その名を、この男は教皇の用だと言った。
探している。
まだ手に入れていないから、探している。
この一問が、そっくりそのまま
向こうの手札の欠けを教えていた。
アルドは、ほんの少し目を伏せてみせた。
「死んだ」
「死んだ。そうかそうか対象外だ。死人を欲しがるのは無駄でしかない。言っておくが僕は無駄が嫌いなだけだよ。強欲とはむしろ逆の性質でね」
強欲…やはり七戒、それも強欲か
男は台車の木箱を満足げに見渡した。
どの箱にもありもしない中身がきちんと詰まっている、という顔だった。
「うん。いい棚卸しだった。そろそろ時間だ。この夢にも僕にも、持ち時間というものがあってね」
男は台車を押して、背を向けかけた。
「本当は、ここで君を片付けてしまいたいんだけどね。そのほうが後々の手間がずっと省ける。……残念ながら、夢の中では人は殺せない。君が起きた後の出来事をしばらく僕は知ることはできない、僕にもできないことくらいはある、覚えておくといい」
それから、思い出したように、振り返った。
「申し遅れたね。僕はオーヴ・カスティロ。
強欲の七戒、なんて大層な名で呼ばれている。心外だよまったく。僕ほど無駄を嫌って慎ましく生きている人間もいないのに」
「じきにそちらで会おう。僕もアサナルドへ向かっている一人でね。その時は君の残りも丁寧に受け取るよ。――さて」
アルドは、そこで。
水の底から今しがた浮かび上がったように、ゆっくりと瞬きをした。
虚ろだった眼に、焦点が戻っていく。
――わざと、だ。
さて、仕上げといこう
「……ああ。これは夢か」
男の足が、止まった。
それから、喉の奥でくつくつと笑った。
「おや。今ごろ気づいたのかい。構わないよ、もう要るものはぜんぶ箱に入った。君が目を覚ませばこの夢は畳まれる。それだけのことさ。無害だよ、何もかもね」
「むしろ礼を言いたいくらいだ。こんなに気前よく棚を開けてくれる相手は、滅多にいないんだ」
――それでいい。
眠ったまま洗いざらい吐いた男が、今しがた我に返った。
その筋書きでいる限り、こいつは俺の言葉を疑わない。
持ち帰る荷が、一箱残らず偽物だとは
露ほども思わない。
渡したもの。
もう存在しない帝国の死体の目録。
守ったもの。
三人の命と、四割の牙と、二つの勢力。
海の民の、居場所。
悪くない商いだ。
残飯を数えて生き延びた路地の頃から
俺のやることは何ひとつ変わっていない。
「……ああ。アサナルドでな」
たどたどしく濁した声の、その底までは、男には聞き取れない。
満足げにオーヴ・カスティロが背を向けた。
その瞬間に帝国図書館が、音もなく罅割れはじめた。
書架の文字が。
埃っぽい金色の光が。
見上げても果てのなかった天井が。
端から剥がれて、黒へと散っていく。
夢が役目を終えて、畳まれていく。
崩れる景色の中で、男の姿もほどけて消えた。
最後の最後まで――何ひとつ、疑わぬまま。
目が覚めた。
馬車は、停まっていた。
幌の隙間から、灰色の光が差している。
夜明けだ。
埃の匂いは、もう無い。
潮と、焦げた何かの匂いが混じっていた。
アルドが幌を払って降りるより早く。
土を蹴る音が、凄まじい速さで近づいてきた。
夢を整理する間もなく
一人の男が、転げるように駆けてくる。
血相を変えて。
何かから逃げるのでも、何かを追うのでもなく、ただアルドの前へ回り込もうと、必死の形相で。
特務機関ブラッドの第四席
ヴァルガス・レイン。
死んだと。
つい今しがた夢の中で、アルド自身が墓に入れたばかりの男だった。
両の目は、充血しきって赤い。
脚は、膝から下が血と泥でぼろぼろに崩れている。
それでも止まらず、最後の数歩を這うように詰めてきた。
アサナルドの方角へ
アルドはまだ目を向けていない。
ヴァルガスの掠れた声だけが、夜明けの空気を裂いた。
「皇帝様」
「"アレ"はどういうことだ」
──────────第69話『夢境問答』完




