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第67話 天理の領域

第67話 天理の領域

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】


 頭上に、天の川が流れている。


     


 その光の正体は、無数の本の背表紙だ。

 どこかで生まれ、どこかで息絶えた者たちの一生が、ここでは一冊ずつ、音もなく積み上げられている。

 めくれば、その生涯が丸ごと流れ込んでくる。


     


 アカシック・バベル。

 死者の書庫の底。


     


 朝も夜もない。

 風もない。

 時間さえ淀んで、動かない。


     


 ――その淀みの底で、スイたちだけが、生きて、動いていた。


     


 天の川の光が届かない一画に、ぽっかりと空いた円い場所がある。


     


 本の一冊もない、ただの空き地。

 グリムが「稽古場」と呼ぶ場所だ。

 本に囲まれたこの空間で、思い切り暴れられるのは、ここだけだった。


     


 外では、まだ数時間。

 ここでは、もう1週間。

 グリムの言った通り、淀んだ時間は、有り余るほどの猶予をくれていた。


スイは修行の件を受けた後、ライやレン

そしてシアと合流し今後の事、そして

修行の事も話した


アズライは数日間を書庫を見る時間に費やすことに専念しろと言っていた


皆は試練を受けながら本を見て、自身の武や考えを広げていった


そしてそれが終わるといつも通りの修行に移る


 ライは空き地の隅で、来る日も来る日も拳を振り込んでいる。

 振り抜くたび、腕を走る雷が、床に青白い影を落とした。


     


 レンはそこから少し離れて、黙々と剣を研いでいた。

 塔の上で、あれほど殺気を漲らせていた男だ。

 刃の鋭さは変わらない。

 なのに纏う棘だけが、この1週間で、いくらか和らいでいた。


     


 スイの傷だけが、まだ塞がりきっていなかった。


     


 ここ数度の戦いの時のものだ。

 身体のあちこちが悲鳴を上げ

 動かすたび、傷の奥が鈍く痛む。

 時間をかければ、この淀みがいずれ塞ぐ。

 そういう傷の、はずだった。


     


 だが、その「いずれ」を、横から奪った奴がいた。


「はい、じっとしてなよ」


 声と同時に、細い指がスイの腕を取る。

 顔を上げれば、アズライが屈み込んでいた。

 その手に、淡く光る石が一つ。


 ――根源石。


 どこで手に入れたのかも言わないまま、アズライはその石を、スイの傷口にそっと押し当てた。

 回復のアルケーを封じた石だ。


 光が、傷に染みる。

 抉れた縁が盛り上がり、裂けた皮膚が閉じていく。

 数週間かけて塞ぐはずの傷が、ほんの数十秒で元に戻った。


     


 スイは腕を握って、開いて、確かめる。

 痛みはもう、どこにもない。


「……助かった。ありがとな」


「いいっていいって。あるものは使うでしょ」


 アズライは、へらっと笑って石を懐へ放り込んだ。

 立ち上がり、スイから数歩、後ろへ下がる。


「じゃ。治ったとこで――約束通り、稽古といこっか」


     


「あ。先に言っとくね。私、アルケーは使わないから」


 スイは眉を寄せた。


「なんでだよ」


「だってさ」


 アズライは、楽しそうに首を傾けた。


「君ら3人まとめてかかってきても――素手で十分だもん」


     


 3人、と言った。


 隅で拳を止めていたライが、ぎちりと牙を剥く。


「はっ。聞いたか我が弟。天理サマは俺たち三人まとめて素手で捌くとよ」


 レンが無言で立ち上がった。

 研いだばかりの刃を鞘から抜く。

 その細い音が、淀んだ空気を縦に裂いた。

 退く気配は、ない。


「剣を使うのは?」


「もちろんいいよ、自由に使いなよ」


     

 挑発じゃない。

 ただの事実として、アズライは言っている。


 この女が天理だってことは

ここに入ってきてる異次元さで納得している

 人の及ぶ理の、さらに外側。

 その力をまるごと置いて、なお

「アルケーを使わなくて十分」と言い切る。

 それが、天理とスイたちを隔てる距離だった。


 ――それでも。


 この数週間で覚えた技が、どこまで通じる。

 確かめずに終われるかよ。


     


 三方から、囲む。

 正面にスイ。右にライ。左にレン。

 間合いは、どれも5歩。


 アズライは、真ん中で両手を下げたまま立っている。

 構えもない。


 誰も、動かない。

 淀んだ空気が、ぴんと張りつめた。


     


 先に動いたのは、ライだった。


 地を蹴る。

 5歩が、一歩で消えた。

 雷をまとった拳が、アズライの顔へ真っ直ぐ飛ぶ。


 アズライは、半身をずらした。

 拳は、頬のすぐ横をすり抜ける。

 行き場をなくした雷が、何もない闇で弾けた。


「いい踏み込み。力も本物だ」


 すれ違いざまに、ライの脇腹に指を添えながらアズライが言う。


「でも雷の子、全部に乗せすぎ。外したら次の一発が遅れるよ」




 その崩れた横から、レンが入った。


 無言のまま、床を滑るように踏み込む。

 剣の先が、アズライの首へ伸びる。

 速い。

 ライの重い拳とは、まるで違う。

 細くてまっすぐな、一突き。


 アズライは、顎を引いた。

 刃は、鼻先のすぐ前を通り過ぎる。

 その刀身を指先で軽く叩き、横へ逸らした。


「剣の子は逆だね。速いし綺麗」


 指一本で刃を流したまま、こともなげに続ける。


「でも綺麗すぎて、次が読めちゃう。もう半拍崩してごらん」


     


 二人の攻めが、アズライをわずかにスイの正面へ押し出す。


 ――今だ。


     


 だが、後に動いたはずなのに先に届いたのは、またアズライだった。


 囲みを割るように、その掌がスイの胸へ突き出される。


 スイは受けた。

 掌に湧かせた水の膜で、その一撃を止める。

 受けて――止めてしまった。

 返そうと、力を溜める。


 その一拍で、もう遅い。


 アズライの掌は、スイの水に預けたまま。

 体だけが、すっと退いていた。

 退きながら、ライの追撃を肘で払い、レンの二撃目を、見もせずに避けている。

 溜めた力は返す相手を失って

掌の中で死んだ。


「はい、一本」


「君はね。受けてから返すまでに、一回"止まって"るでしょ」


「受けて、止めて、よし返そう――その"よし"の一拍。そこで力が死ぬの」


「受けたら、止めない。受けた線を切らずに、そのまま返す」


     


 ――受けて止めず、そのまま。


 その言葉が、頭の奥で、あの光景とつながった。


 獣王の記憶の底で、一度だけ見た受け技。

 逆光の中の、茶色い外套の男。

 顔は知らない。

 けれど、同じ海の民。


 掌で受けて、回して、水に閉じ込めて、もう片方の拳へ流す。

 相手の力を、そっくり奪って倍にして返す。

 あの、水の使い方。


 見ただけのはずの動きが、不思議と、指の先まで馴染んでいた。


     


 ライが吼えて、両の拳を続けざまに叩き込む。

 レンが、その拳の間を縫って刺突を重ねる。

 アズライは、二人をいなす。

 その体が、ほんの一瞬、スイの側へ開いた。


 そこへ、崩しの肘が、スイを払いに来る。


 ――来た。


 スイは、受ける。

 水が、肘を包む。

 止めない。

 腰で、体ごと回す。

 包んだ力が、空いた左の拳へ移っていく。


 ――回った。

 だが、遅い。

 アズライは、もう次の位置へ動き始めている。

 このままじゃ、また空を切る。


     


 ――その時。


 耳が、魂が、何かを拾った。


 剣の風切る音でも、自分の鼓動でもない。

 もっと遠く深いところから響く、微かな音。


 レンと斬り合った、あの一瞬に聞いたのと、同じ音だ。


何よりも静かで、何よりも熱い音


 その音の中で、アズライの"次"が、うっすら聞こえた。


 踏む足。開く肩。退く、その先。


 スイの左が、その"次"へ、吸い込まれる。


    カッ


 倍に膨らんだ拳が、アズライの脇腹を、浅く掠めた。


     


 アズライの足が、止まった。


 掠められた脇腹に、指を一本当てる。

 布が、薄く裂けていた。


「……へえ」


 初めて、その声から、軽さが抜けた。


「今の、聞こえたでしょ。――世界の音」


 スイには、何を言われたのか分からない。

 もう、あの音は消えていた。

 掴もうとした端から、指の間を零れていく。


「でもね」


 アズライは、もういつもの顔に戻っていた。


「それでも、掠っただけ。――私が"境界"を本気で使えば、君らは受けることも、視ることもできないよ」


     


 スイは、息を呑んだ。

 隣でライが、少し離れてレンが、そろって肩で息をしている。


 三人がかりだ。

しかも相手はアルケーを一度も使っていない。

 最後の最後に、あの"音"まで手繰って

ようやく布の端を掠めただけ。

 それが、精一杯だった。


 背筋が、冷えた。


 ――素手で、これだ。

 力を解き放ったこいつが、どこまで遠いのか。

 俺にはまだ、その底も見えねえ。


     


 ライが荒い息のまま、肩を回して笑った。


「はは……化けもんだな、ありゃあ」


 それから、ふと真顔になって、アズライを見た。


「なあ。アルケーも使わずに、これだろ。――使ったら、どんくらいなんだ?」


     


 アズライは、きょとんとした。

 それから、にっと笑う。


「見たい?」


 軽く、手を前に突き出す

 掌を天に掲げ、人差し指と中指を天に突き立つように上げる

 ただ、それだけの構え。


     


 その、瞬間だった。


 空気が、裂けた。

 いや――空間そのものがだ。


 アズライを中心に、見えない線が走る。

 床に、宙に、何もない闇に。

 まるで、誰かが定規で、世界に境界線を引いていくように。


 線に沿って、空間がぱきりと割れた。

 割れ目から、本が噴き出す。

 天の川を作っていた無数の書が、棚からもぎ取られ、凄まじい勢いで宙へ舞い上がっていく。


 スイは、立っていられなかった。

 足元の"床"という確かさが、割れ目の向こうで、ぐにゃりと溶けている。


     


「――アズ」


 グリムの声が、鋭く飛んだ。


「ここではやめてくれるかな」


「あ。ごめんごめん」


     


 アズライが、曲げていた指を、すっと戻した。


 裂けた線が、音もなく閉じていく。

 舞い上がった本が、ゆっくりと棚へ戻る。

 割れていた床が、何事もなかったように、元に戻った。


 アズライは、てへ、と舌を出す。


「危ない危ない。……ごめんね、下手すると、宇宙ごと消えちゃうからね」


 誰も、何も言えなかった。


     


 水が尽きた頃、稽古は終わった。


「みんなお疲れ様〜次は3時間後だよ」


 汗を拭っていると、天の川の光の下から、小さな影がひとつ、こちらへ走ってくる。

 白い髪。

 赤い眼。

 修道服の裾を床に引きずるようにして、シアが走って近づいてきた。


「さっきの何!?」


 この1週間、シアも同じ淀みの中で過ごしていた。

 だがこの時だけはいつもより焦っているような、何かを恐れているような雰囲気だった


何かを察したのか、スイは答える


「戦いの影響でちょっとな、驚かせてすまねえ」


シアは安堵したような顔を浮かべ、スイの傷だった所に目を配る


「…あんな酷い怪我だったのに治ってる…良かったけど誰かが治してくれたの?」


シアは問う、基本的に怪我をした時に治療をしてくれるのはシアだからだ


「ああ、ここ最近はずっと回復の根源石に頼りっぱなしだ」


「……ふうん。そう」


 と、すぐ脇から、弾んだ声が割り込んできた。


「ねえねえ、その子だあれ?」


 アズライが身軽に駆け寄って、シアの顔を覗き込む。

 見るなり、ぱっと目を輝かせた。


「わ、グリムにそっくり。白い髪も赤い目も。――でもグリムより、ずっとちっちゃくて可愛い――!」


 シアが、露骨に顔をしかめた。


「……何よ、この人」


     


 暗がりの奥から、グリムが歩いてくる。


「紹介が、まだだったね。アズって言ってね――私の、古い知り合いだよ」


 アズライが、シアの周りをくるりと回る。


「グリム。こんな可愛い子がそばにいるなら先に教えてよ!」


 ジトっとした目になったグリムが、自分の胸を指でさした。


「……ボクは?」


 アズライが振り返って、へらっと笑う。


「グリムも可愛いよ」


 スイは半眼で、そのやり取りを眺めていた。


 ――天理ってのは、もっとこう、厳かなもんじゃねえのか。


     


 稽古は、それからも続いた。


 外の1日が、ここでは3週間にもなる。

 その長い時間の中で、スイはあの受け技を、少しずつ体に馴染ませていった。

 受けて、水に預けて、回して、倍にして返す。


 まだ、当たらない。

 だが確かに、手が覚え始めていた。


     


 ――同じ頃。バベルの外。


 市王ルミエルの商団は獣王の国の道中のとある山奥にいた


その山には二人暮らしの老夫婦が住んでいて、市王達は次の日まで世話になる事になったのだ


老夫婦は転移してきた人を多く保護してくれていた


 そしてその老夫婦が暮らす山奥の軒先に

私達はいた。


転移した建物や人を救出しながら、夜になればグランは他の商人達と共に市王に教わる


そんな日々が続いていた、まさに今もだ


 グランは宿の中で、商人たちと卓を囲んでいる。

 リアは一人表に出て、星のない夜空を見上げていた。

 膝の上には、研ぎ上げたばかりの剣。

 剣の里ルヴァンの、今代の刃だ。


     


 この旅に出た理由を

あの男は、グランは、そしてスイは

半分も知らない。


 表向きの理由ならある。


 里の人間は二十歳までに一度、里の外へ出る。

 父が、そういう決まりだと言った。


 でも父ですら、本当の目的は知らない。

けれど、察してはいるのかもしれない

察した上で、私を送り出してくれたのかもしれない


 私がこの旅で、本当に探しているものを。

見つけなければならないものを


 リアは、刃に映る自分の目を見据えた。

宝石のような黄色で、ちらりと写る紅の髪


母にそっくりな、その外見


母から継いだ、その二刀を扱う流派


私は…私はまだ言えていない


 ――剣のためでも、里のためでもない。


 この旅の、本当の行き先は。

 まだ、誰にも――。


 第67話 完

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