第66話 私が直々に
第66話 私が直々に
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
「ボクの母は──」
「「色欲の使徒だよ」」
二つの声が重なった。
スイの背筋が強張った。
一つはグリムの声だ。目の前の赤い外套の女。
それは分かる。だがもう一つ、グリムの声にぴたりと重なった別の声があった。
少し高くて軽くて、どこか人を食ったような女の声だった。
――誰だ。
スイは周りを見た。夜空の図書館。無数の本棚。
この場所に女はグリムとシアしかいないはずだった。シアはさっきどこかへ行ったきりだ。
「……誰だ」
スイは掠れた声でそう言った。
そしてそのまま、重なってきた声の方を見た。
――いつの間に。
本棚の縁に一人の女が腰かけていた。
オレンジ色の長い髪。毛先にいくほど色が抜けて金色に透けている。スタイルは良い
灰色を基調にした見慣れない意匠の服。
足をぶらぶらさせながら、退屈そうに宙を漂う本を一冊、指で突いて遊んでいた。
女がいつからそこにいたのか、スイには分からなかった。どうやってこの場所に入ったのかも分からない。
ここはグリムが連れてこなければ辿り着けない場所のはずだった。塔を経由して座標を変えて、やっと来られる。招かれた者しか訪れられない。グリムはそう言っていた。
なのに、女はそこにいた。
「――あんた、誰だ」
スイは水を握った。
「どうやってここに入った」
女は突いていた本から指を離した。水と、そして
スイの方を見て、にこ、と笑った。
「わ。海の民じゃん。噂の」
軽い声だった。
「やっぱり藍色なんだね目。昂ると光るんでしょ。また見たいなあれ」
スイは面食らった。
警戒していた。なのに女はいつの間にか目の前にいて、まるで市場で珍しい魚でも見つけたような顔でこちらを覗き込んでくる。
「……質問に答えろ。どうやってここに入った」
警戒は解かない
「あー、ごめんごめん。えっとね」
女は本棚の縁からひょいと飛び降りた。
音がしなかった。白い床に足が触れたはずなのに、音ひとつ立たない。
「勝手に入り込んでるんだよね、私。グリムがいない間にさ」
女はけろりと言った。
「週に一度か二度は来てるかな。暇だから」
その時、グリムが大きくため息をついた。
スイが振り返ると、グリムは額に手を当てていた。さっきまで母の正体を打ち明けた張り詰めた顔が、どこかへ消えている。代わりにあるのは呆れ果てた顔だった。
「……君はいつもいきなり来るね、アズ」
「やっほ〜、グリム」
女――アズはひらひらと手を振った。
「いきなり来ちゃってごめんね。でもなんか面白そうな話してたから、つい」
――アズ。
知り合いなのか、この二人は。スイは二人を交互に見た。
「グリム。こいつ誰だ」
「"アズライ・ソーングレイ"……ボクの古い知り合いだよ」
グリムはまだ額に手を当てたまま言った。
「ボクが留守にしてると、勝手にここに上がり込んでる女でね」
「ここって君の家じゃないでしょ」
アズが口を挟んだ。
「塔の中ならまだしもさ。ここはグリムの管轄ってだけで、別に君んちってわけじゃないじゃん。だったら私が来たっていいでしょ。減るものでもないんだからさ」
「……屁理屈だよ、それは」
スイは話についていけなかった。
それより気になることがあった。
この女はさっき確かにグリムと声を重ねた。
「おい。あんた」
スイはアズを見た。
「グリムの古い知り合いって、グリムは数千年生きてるんだろ?いつ頃からの仲なんだ?」
アズはへらへらした顔のまま口を開く
「とにかく長いね、あんまり乙女同士の秘密を探るとモテないぞ〜」
「モテなくていい、教えてくれ」
「長いって、どれくらいだ」
「んー……」
アズは宙を見上げて指を折った。折って、折って、折りきれなくなってやめた。
「忘れちゃった。でもグリムよりはちょっと後輩かな、私」
――グリムより、後輩。
グリムは勇者と魔王の頃から生きている。
そのグリムを基準に、このへらへらした女は"少し"後輩だと言っている。
スイの背中を冷たいものが這った。
「……あんた、本当に何者だ。古い知り合いのはわかった、でもここに入れる理由にはならねえ」
アズはきょとんとした。それから当たり前のことを言うみたいに、あっさりと答えた。
「だって私、境界を司る"第三天理"だもん」
「――天理?」
スイは息を止めた。
――天理。
聞いたことがある。虚空やグリムの口から。
力の階級に天理というものがあると。神技のさらに上。
この長い歴史の世界に5人しか存在しない神域
その言葉を、この女は自分のことだと言った。
駄菓子でも買いに来たような顔で。
当たり前のように
「……天理って」
スイの声が掠れた。
「あのBLOODとか、そういうのと同じってことか」
「んー、まあ層としては近いかもね」
アズは頭の後ろで手を組んだ。
「あいつも天理級だし。私は天理そのものだけど
あいつとはたまに一緒にご飯に行くけどさ、あいつはちょっと私でも何なのかよくわかんないかな、無口だし」
あの得体の知れない男と食事…
目の前の女が、急に底の知れないものに見えた。
へらへらした顔の奥が、まるで覗き込めない。
だがアズはスイの警戒などどこ吹く風で、ぐっと伸びをした。
「まあまあ、そんな固くならないでよ。取って食ったりしないからさ」
それからふと思い出したように言った。
「あ、そうだ。海の民君さ、時間気にしてるでしょ」
「……時間?それと俺は海の民じゃなくてスイだ」
「ごめんごめん、スイ君ね!覚えた」
「あと君はさ、アサナルドとか外のこととかさ。
急がなきゃって顔してる」
スイは何も言わなかった。図星だった。
なぜこの女がその事を知っているのかはわからないが
天理ともなれば何でもありなのだろう
七戒がアサナルドに集まっている。
ヴィスも向かっているし、皇帝を狙う戦力も集っている
皇帝がどうなるか分からない。
帝国の民が四万人死んでいる。
こんな所でのんびりしている場合じゃない。
「気にしなくていいよ、それ」
アズはあっさり言った。
「ここさ、あっちの世界より時間がゆっくり流れてるから」
――時間がゆっくり。
「……どういう意味だ」
「そのまんまだよ。この空間の中で三週間過ごしても、外じゃ一日しか経ってないの」
「三週間で一日?」
「そ。だからあんまり時間を気にする必要もないのがいいんだよね〜、ここ」
スイは言葉を失った。
この夜空の図書館。死んだ者の本が億も兆も漂うこの場所。ここでは時間が外の二十倍以上ゆっくり流れている。初めて知った事実だった。
スイが呆然としていると、グリムが静かに口を開いた。
「スイ君。それを言おうと思ってたんだ」
「……グリム」
「ボクが君達をここに連れてきた理由。本を見せたかったのもある。でもそれ以上に」
グリムは夜空を見上げた。
「この時間の差を使ってほしかったんだ」
――時間の差。
「君達は傷だらけだった。七戒二人を相手に満身創痍だったろう」
「外の世界なら治すのに何週間もかかる。でもその何週間もの間、アサナルドは待ってくれない」
グリムの声は穏やかだった。
「でもここでなら。外の一日で中の三週間。傷を治す時間も取れる」
スイは自分の右腕を見た。
水打・無月で根こそぎ使い切った体。
その状態で更に使ったアルケー
ルークとの戦いからまだ数日、七戒との戦いはまだ数時間しか経っていない。本当ならまだ動くのもやっとのはずだった。
――ここにいる間に、治せる。
「それだけじゃない」
グリムは続けた。
「この空間でなら、修行する時間も取れる」
「……修行」
「本のある場所だけじゃない。この奥には本の何もない、ただ広いだけの空間もある。そこでなら思い切り体を動かせる」
スイの頭の中で、茶色の外套の男のあの水が蘇った。
受けて回して、水に封じて、もう片方の手に移して倍にして返す。あのカウンター。
獣王の記憶越しに見た技だった。
――盗めるかもしれない。ここでなら時間がある。
「ライ君とレン君には、もう伝えてあるよ」
グリムは言った。
「レン君は焦ってたけど、時間の差を話したら少し落ち着いたみたいだ」
「三週間。それだけあれば万全の体でアサナルドに向かえる。焦って半端な体で突っ込むよりもずっといい」
スイはゆっくりと息を吐いた。張り詰めていた何かが、少しだけ緩んだ。
――そうか。ここでなら。
ずっと足りないと思っていた。強さが。
時間が。あの赤い男を見て、七戒二人と戦って思い知った。今の自分では届かない。
だがここでなら、その足りないものを埋める時間がある。
アズが、そんなスイをじっと見ていた。
へらへらした顔の、その奥の底の知れない目で。
やがて、にっと笑って両手を広げた。
「よーし。じゃあ決まりだね」
アズの軽い声が夜空の図書館に響いた。
「スイ君、修行するんでしょ。だったらさ」
女は自分の胸を親指で差した。
「天理直々に、見てあげよっか」
――第66話 完。




