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第65話 使徒

第65話 使徒

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】


 獣王の本は消えた。


 なのに獣王は、まだ俺の中にいる。


 あの金の瞳。泥の中の痩せた子供。

力だけを信じた生涯。最期に言えなかった言葉。

消えたはずの本の中身が、俺の頭の中で何度も巡っていた。


           


 ――俺はあいつを憎んでいる。憎んでいた


           


 王。俺を三度叩いた王。それは変わらない。なのに今は憎しみの置き場所が分からなくなっていた。


 あいつは底辺から這い上がった。

俺がそいつを折る寸前まで運んだ。


           


 ――まともじゃない順番。


           


 バルドさんの言葉が腹の底で重く沈んでいた。


 強いから悪じゃない。弱いから善でもない。

獣王はただ価値で世界を測るしかできなかった男だ。そう生きるしかなかった男だ。それを俺は。


           


 ――考えても答えは出ねえ。


           


 分かっているのに頭が止まらない。

一人の男の生涯を丸ごと覗いてしまった。

その重さが簡単には消えない。


           


「――難しい顔をしてるね」


           


 グリムの声。


 俺は顔を上げた。夜空の図書館。

無数の本棚。赤い外套の女が少し離れて立っていた。


「獣王のこと?」


「……ああ」


 グリムはそれ以上聞かなかった。俺もうまく言葉にできなかった。だから話を変えた。


「なあグリム。あんたさっきから自分のことボクって言ってるよな。最初会った時と違わねえか」


           


 グリムはふと笑った。


「ここに来ると父の夢を見る。何度も父になる。――うつったのさ、一人称が」


「……ふうん」


「父の一人称がワシだったらワシだったろうね」


           


 それだけだった。


 彼女は宙を漂う本を一冊、指先で撫でた。それから話を続けた。


「スイ君。ライ君とレン君のことだけどね」


           


 二人は俺より先に目を覚まして、どこかへ行ったとグリムは言っていた。


「あの二人が起きてた時に、レン君がボクに聞いてきたんだ」


「何を」


「さっきの戦いに乱入してきた、あの赤い男のこと」


           


 ――赤い男。


           


 黒衣のフード。垂れた赤い前髪。赤い瞳。

七戒二人を片手ずつに提げて

何の前触れもなく現れた男。


「レン君も、ヴァルガスも、あいつが誰なのか分からなかったらしい。帝国の兵のはずなのに、自分たちの誰でもない」


「俺も聞きたかった」


 俺は言った。


「あれは、何なんだ」


           


 グリムは少し黙った。それから静かに口を開いた。


「スイ君が寝てる間にボクが二人に答えたことだけど。もう一度、君にも話すよ」


           


 彼女は夜空を見上げた。


「あれは――BLOOD。帝国が持つ本当の戦力だ」


           


 ――BLOOD。


           


「帝国には特務機関ブラッドってのがあるだろう。レン君やライ君がいるところ」


「ああ」


「あれはね。本当は、たった一人の男を隠すために作られた組織なんだ」


           


 ――1人の男を隠すため。


           


「レン君も、ライ君も、ヴァルガスも、みんな強い。帝国戦力の大半を担うくらいにはね。でも、あの五人は看板なんだ。その裏にいる本物を隠すための」


           


 グリムの声が低くなった。


「その本物がBLOOD。名前もそのまま、血を意味する」


「何代か前の皇帝の頃から、ずっと帝国にいる。異様に長く生きている男だ」


           


 ――何代か前の皇帝から。


           


 皇帝が何人も代替わりするあいだ、ずっと同じ男が帝国にいる。人の寿命じゃない。


「帝国すら、あの男の実態を把握しきれていない。どこから来たのか。何なのか。どれだけ生きているのか。誰も知らない。飼っているはずの帝国が、あの男のことを分かっていない」


「あの男は名目上は帝国の戦力でも、おそらく帝国や世界が滅ぶ状況になっても動くことはないだろうしね」


 俺は森での光景を思い出した。


七戒二人を片手ずつ。

レンの剣を一瞬で断片に。

ヴァルガスをデコピンで。

五千の投擲を手刀で。


「強さは、どれくらいなんだ」


           


 グリムは俺を見た。


「スイ君。これはよく聞いて。あの男の前では――帝国の戦力が全部、戦力じゃなくなる」


           


 ――戦力じゃなくなる。


           


「十王も、特務機関ブラッドも、何万の帝国の兵も。あの男の前に出たら全部ただの人だ。数えても意味がない。あの男が一人いれば、他の戦力の数字が全部ゼロみたいなものになる」


           


 俺は言葉を失った。あの赤い男がいるだけで、帝国の全部の力が意味をなさなくなる。


 そんな化け物が、たった一人。


「レン君はそれを聞いて黙り込んでた。ヴァルガスは自分が帝国最強だと思ってた。でも、あの男を見てそれが崩れた。ライ君は察してたみたいだ。顔には出さなかったけど」


           


           


 俺は拳を握った。考えずにはいられなかった。


「なあグリム。俺たちはこれからアサナルドに行くんだろ」


「そうだね」


「そこに七戒が集まってるってBLOODが言ってた。何のためだ」


           


 グリムは少し首を傾げた。


「それはボクにもはっきりとは分からない。皇帝をどうにかしようとしてるのかもしれない。帝国そのものを狙ってね」


「あるいは――アサナルドで、暴食の使徒の装飾品が受肉を始めてるからかもしれない」


           


 ――受肉。


           


 その言葉に、俺の頭の奥がちり、と痛んだ。


 ――どこかで聞いた。


           


 記憶を手繰る。アサナルド。受肉。使徒の装飾品。


 ――ああ。


           


 十王会議だ。あの潜り込んだ会議の場。

誰かがほんの一瞬、口にしていた。

アサナルドで何かが動き出していると。

使徒の装飾品がひとりでに肉を持ち始めていると。


 一瞬すぎて聞き流していた。

だが確かに、あの場で出ていた。


「……思い出した。十王会議でちらっと出てた話か」


      


「そう。アサナルドで、暴食の使徒の装飾品が、着け手もいないのに勝手に受肉を始めてる。放っておけば、自我のない巨大な化物に育つ」


「教皇はそれを回収したいのかもしれない。暴食の七戒、その席を埋めるために」


           


 グリムの声が低くなった。


「皇帝狙いか、使徒の回収か。どちらにせよ、ろくな話じゃない」


           


           


 俺はずっと引っかかっていたことを口にした。


「グリム。正直に聞く。七戒ってのは、俺たちが勝てる相手なのか」


           


 グリムはすぐには答えなかった。


 代わりに静かにこう聞き返した。


「スイ君。君は二人の七戒と戦ったね。ルキウスとベルフェゴール」


「ああ」


「どうだった。あいつらは」


           


 ――どうだった。


           


 俺は思い出した。


 ベルフェゴールは指一本動かさなかった。

それなのに森中の無機物が独りでに襲ってきた。

五百。五千。あいつが座ったまま、世界そのものが俺たちに牙を剥いた。


           

 ルキウスはもっと分からなかった。ライの雷の技を見ただけでそっくり奪った。ライよりも濃く、ライよりも速く、同じ技を返してきた。


 ――あれもただの強さじゃない。


あの赤い男の存在で霞んでいた七戒という格の高さ

それを思い知った


           


「……あいつらの力は」


 俺はゆっくり言った。


「俺の水とは違った。身体が強いとか、技が鋭いとか、そういうんじゃねえ」


「怠惰の奴は座ったまま世界を動かした。嫉妬の奴は他人の技を丸ごと奪った」


           


 ――まるで。


           


「まるで、世界のルールを捻じ曲げてるみたいだった」


           


 グリムは頷いた。


「それが七戒だ。あいつらのアルケーは、もはや概念に近い。君が肌で感じた通りだよ」


「ただの力比べじゃない。世界の理の一部を書き換える。そういう領域の連中だ」


           


 ――概念。


           


 俺が戦って思い知ったことに、グリムの言葉が輪郭を与えた。


 あれは。そういうものだったのか。


           


「それにスイ君。もう一つ気づいたことがあるだろう」


 グリムは言った。


「あいつらを傷つけた時のことだ」


           


 ――傷つけた時。


           


 俺は思い出した。ライの雷がルキウスの腕を焼き切った。肘から先が落ちた。


 だが。


 ――戻った。


           


 湯気を立てて。十秒もしないうちに。

新しい腕が生えてきた。焼いても、斬っても、潰しても、次の瞬間には元通り。


「……あいつら、いくら傷つけても、すぐ治りやがった」


           


「そう」


 グリムは頷いた。


「回復の根源石があるだろう」


「ああ」


「あれの数十倍の速度で、七戒は常に回復し続けてる」


           


 ――数十倍。


           


「戦いながら回復の根源石を無限に使い続けてる。そう思えばいい。どれだけ傷つけても、削っても削っても終わらない」


           


 俺は奥歯を噛んだ。


 概念に近いアルケー。無限の回復。

あれが七つ。


 ――俺はその二体を相手に、手負いだったとはいえライとグリムの力を借りて、やっと一歩も引かずに済んだ。それが精一杯だった。


           


「なあグリム」


 俺は声を絞り出した。


「終焉派ってのは虚空たちより数も多いんだろ。層も厚い。そんな化け物を七体も抱えてる」


「――勝てるのか。そっちに」


           


 グリムは少しの間黙った。


 それからふ、と笑った。意外にも余裕のある笑みだった。


「スイ君。虚空を甘く見ちゃいけないよ」


           


 ――虚空。


           


「ボクの妹だ。あいつは強い。桁外れにね。

終焉派が数で来るなら、虚空は質で返す」


「あいつ一人で七戒の何体かと渡り合える。

それくらいの化け物だ」


           


 グリムの赤い瞳に確信があった。


「それに虚空の側にいるのは原初派だけじゃない。二つの勢力と手を組んでる」


「一つは――『灰色機関』」


           


 ――灰色機関。初めて聞く名前だ


           


「魔族を殲滅することを掲げてる連中だ。魔族ってのは終焉派と相性がいい。終わらせる神の側のものだからね」


「だから灰色機関は終焉派と敵対してる。魔族を狩る連中が虚空の側についた」


           


「もう一つは」


 グリムは続けた。


「『境理会』。第三天理から発足した宗教だ」


           


 ――境理会。第三天理。これも初めて聞く


           

「原初神でも終焉神でもない。第三天理を戴く宗教だ。終焉派のやり方に反発してる。虚空はその二つと手を組んだ」


「原初派、灰色機関、境理会。三つの勢力で終焉派に対抗してる」


           


 俺は少しだけ息を吐いた。


「じゃあ勝ち目は、あるのか」


「あるさ。簡単じゃないけどね」


 グリムは笑った。


「向こうが数と層で来るなら、こっちは虚空の質と三つの勢力で返す。――そういう戦いになる」


           


           


 俺は少し落ち着いた。


 だがグリムの話はまだ終わっていなかった。


 彼女は宙の本をまた一冊撫でた。

それから話を変えた。


「スイ君。ボクの弟の話をしたこと、あったかな」


「……?2人姉妹じゃないのか」


「いや、実は一人弟がいる」


           


 ――グリムの弟。


           


「そう、ボクには弟がいたんだ。」


 グリムは少し遠い目をした。


         

 ――弟。


           


 虚空の話は聞いたことがあった。

だが弟の話は初めてだった。


「ボクが姉。虚空が妹。そして弟。三人兄妹だ」


「その弟は、今どこに」


           


 グリムは答えなかった。


 代わりに静かにこう言った。


「弟の血はね。――たぶん今も、この世界に流れてる」


           


 ――血が流れてる。


           


 弟本人の話じゃなかった。血。

弟の血を継いだ、誰か。


「誰に」


「……シアちゃんだよ、一回血は繋がってるって言ったでしょ」



 グリムの赤い瞳がわずかに揺れた。


「そういやそうだったな…それでグリム」


 俺はもう一つ、ずっと気になっていたことを聞いた。


「あんたはベルフェゴールに襲われてたよな。なんであいつはあんたを襲った」


           


 グリムの飄々とした顔が少しだけ翳った。


「気づいてたかい、スイ君。ボクの塔が本当はどこにも存在しないってこと」


「あ?どういう意味だよ」


           


「言の葉の塔は物理的な建物じゃない。ボクが周りに根源力を満たして結界を張り、その中に建物だった頃の塔を、ボクの心象として映してるだけ」


「世誓で管理人を一人に絞ってる。だから塔は、この世界のどこにも存在しない」


           


 ――結界…どこにも存在しない塔。


           


「ずっとそうやって隠れてきた。中立者として、どの勢力にも与さずにね。世界がボクの塔を見つけられなかったのは、そもそも物理的にどこにも無いからだ」


「なのにベルフェゴールは来た」


           


 グリムの指先が宙で止まった。


「どこにも存在しないはずのボクの心象の塔に、あいつは辿り着いた」


           


 俺は息を呑んだ。


「どうやって」


「七戒は互いに検知し合えるんだ」


 グリムは言った。


「使徒の装飾品を持つ者同士。あれは同じ根っこのものだからね。探ろうと思えば、互いの在処が分かる」


           


「でも普段は誰もやらない。七戒なんて変わり者ばかりだ。他人に興味のある奴がいない。ベルフェゴールなんて特にね。自分から誰かを探すなんて、死んでもやらない男だ」


           


 ――じゃあ、なんで。


           


「教皇の命令があったからだよ」


 グリムは静かに言った。


「ベルフェゴールはあれで極度の面倒くさがりだ。自分からボクの塔を探すなんて絶対にしない。でも教皇に命じられた。だから渋々、重い腰を上げて、ボクの在処を探って塔まで来た、いや厳密には来ていないかな」


           


 俺はあの間延びした男を思い出した。動きたくない、とずっと言っていた。あの男がわざわざ動いた。


……ん?来ていない?


「来てないってどういうことだ」


俺は興味本位でその言葉を返す


「その言葉の通りだよ、BLOODが彼を殺す時に言っていただろう、"魔眼"の性質上殺しても問題がないと」


「"ベルフェゴールは生きている"、あれは"分身の魔眼"だ、自分と全く同じ存在を複製して遠隔で動かすことができる、この目で見たから間違いない」


あの強さで、分身?

ベルフェゴールは生きている?


情報量が多い、頭がこんがらがる


「言っただろう、七戒は世界を捻じ曲げるほどの力の持ち主だと」


確かにそうだ、ルキウスがあれほど出鱈目な能力ならば、ベルフェゴールもそうなのだろう


俺は気持ちを切り替え、気になっていたことを聞くことにした


「教皇はなんで、あんたを狙った」


           


 グリムは少し間を置いた。


「ボクが明らかに終焉派じゃないからだ」


           


 ――終焉派じゃない。


           


「教皇から見れば、ボクは邪魔な異物だ。

だから始末しようとした。始末して、ボクの持ってるあるものを回収して、別の七戒候補に渡すためにね」


           


 ――あるもの。


           


「あんたが持ってる何かを、狙ってたのか」


「そう」


 グリムは頷いた。そして自分の胸に手を当てた。


「スイ君。使徒の話をしようか」


「使徒」


「七体の使徒がいる。大昔に封印された、七体の化け物だ」


           


 グリムの声の重さで、それがとてつもなく大きなものだと分かった。


「原初神がその七体を一体ずつ、装飾品に封じた。耳飾り、腕輪、そういう装身具にね」


           


 ――装飾品。


           


 ベルフェゴールの耳飾り。ルキウスの腕輪。あれが使徒の封印。


「教皇はね。七戒をこう定義したんだ」


           


「群を抜いて強い者か、使徒の装飾品に選ばれた者。そのどちらかを七戒とする、ってね」


           


 ――群を抜いて強い者か、装飾品に選ばれた者。


           


「でも七体のうち一体だけ、装飾品に封じられなかった使徒がいる」


「スイ君、ボクの話を聞いて違和感は感じなかったかな?"七戒は七戒同士検知しあえる"って」


 グリムの指先が、自分の胸を軽く叩いた。


「色欲の使徒」


この言い方的に、グリムは


 ――色欲、色欲の


           


「色欲の使徒は人に限りなく近い存在だった。だから原初神は彼女を装飾品じゃなくて――本に同化させた」


「言の葉の塔の本。父が最初に世界の歴史を記そうとした、あの本に。色欲の使徒は同化した。本そのものになった」


           


 俺の頭の中で、何かが繋がりかけた。


「じゃあ、その本が」


「そう。ベルフェゴールが狙ったのは、おそらくそれだ」


           


 グリムは自分の胸に手を当てたまま微笑んだ。


 その微笑みの奥に、何千年分の孤独があった。


「ある意味でボクは」


           


「――色欲七戒なんだ」


           


 俺は息を呑んだ。


「そして」


           


 グリムの赤い瞳が、まっすぐ俺を見た。


           


「ボクの母はその──」


           


           


「「色欲の使徒だよ」」


           

知らない声が、重なった

           


 ――第65話 完。

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