第64話 獣王
第64話 獣王
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
『ワイアット・バーグ』
背表紙に刻まれた知らない名。
グリムは、それを「獣王」と呼んだ。
俺は、その本を両手で持っていた。
「――開くのかい」
グリムの声。
「その本は、君を拒まないみたいだね。獣王が、君に見せる気があるんだ」
「殺した相手にしか開かない本もある。
でも君は、獣王を殺しちゃいない。なのに開く」
「――よほど君に見せたいんだろうね。この男は」
俺は表紙に指をかけた。
あの時、俺を三度叩き
俺が三度目で倒した王。
憎い相手だったはずだ。
なのに、指が止まらなかった。
俺は、本を開いた。
意識が落ちていく。
夜空の図書館が遠ざかる。
墨のような暗がりが俺を呑んだ。
――気づくと、泥の中にいた。
俺の体はない。ただ視ている。
一人の男の生涯を。
いや、視ているだけじゃなかった。
その男の考えが、俺の中に流れ込んでくる。
価値。汚点。測る。
この男が世界をどう見ているか、その思考が、俺自身の思考と同時に頭を流れる。
初めての感覚だ
――気持ちが悪い。
俺の考えなのか、こいつの考えなのか。
境目が溶けていく。
俺は俺のままなのに、こいつの物差しが
俺の内側に重なってくる。
こんな感覚は、生まれて初めてだった。
国の名も無い、地図にも載らない、国境の外。どこの国にも属さない無法の土地。
そこに、その子供がいた。
痩せた、小さな子供だった。
あばらが浮いている。
手首が枯れ枝みたいに細い。
泥の中で膝を抱えて、売られるのを待っている。
――誰だ、こいつは。
俺は戸惑った。
グリムは、この本を「獣王」と言った。
だが俺の知る獣王は、石に座るだけで兵が半歩下がる男だ。
グランより三倍はでかい、あの巨体だ。
それが、この泥の中の、痩せた子供か。
――本を、間違えたか。
一瞬そう思った。だが違う。
この子供の金色の瞳。
それだけは、あの王の瞳と同じだった。
忘れるものか。俺を三度見下ろした
あの金の瞳。
――こいつが、獣王。
こんなに小さかったのか。
この土地では、人は二種類に分けられた。
買う者と、買われる者。
こいつは買われる側だった。
誰も、こいつを数えなかった。
一人、二人、と数える時
流民の子はその数に入らなかった。
――汚点。
買い手の一人がそう呼んだ。
帳面を付けながら、流民の子らを指して。
「掃いても掃いても湧いてくる。土地の汚点だな」
痩せた子供は、その言葉を覚えた。
自分を指す最初の言葉として。
その言葉が、俺の頭にも刻まれる。
こいつの記憶として。
俺自身がそう呼ばれたかのように。
痩せた子供は、泥の中で考えていた。
汚点でない者は、何だ。
答えはすぐ出た。
――価値のある者だ。
買う側。数える側。価値があるから上にいる。価値がないから下にいる。
この世は価値でできている。
幼いそいつはそう理解した。
それがこいつが世界を理解した
最初で最後の物差しになった。
――力が目覚めたのは、飢えの底だった。
売られた先の鉱山。
食わせてもらえず、幾日も過ぎた。
隣で、名も知らない流民の子が死んだ。
監督が、その骸を穴へ蹴り落とした。
「汚点が、一つ減った」
その時。
痩せた子供の体が鳴った。
骨が伸びた。皮膚が裂けた。
下から別の皮膚が出てきた。指が爪に変わった。
――獣のアルケー。
それがよりにもよって
この汚点と呼ばれた子に宿っていた。
獣になった子供は鉱山の監督を鞭を持つ者を、一人残らず引き裂いた。
だが。
引き裂いた後、その体が崩れた。
獣化が解けた子供の体から血が噴いた。
口から、鼻から、裂けた皮膚の縫い目から。
膝が折れ、泥の上に倒れた。
――耐えてない。
俺はそれを見て気づいた。
こいつの体は痩せすぎている。
飢えすぎている。
この器では、獣のアルケーの力に耐えきれない。
力を振るうたびに、こいつ自身が内側から軋んでいく。出すほどに壊れていく。
痩せた子供は、血を吐きながら
それでも笑っていた。
初めて誰かが自分を恐れていた。
初めて自分が数える側に立っていた。
体が軋むことなど
こいつにはどうでもよかった。
――これが、価値か。
力こそが価値だ。
力があれば汚点は汚点でなくなる。
幼い日の物差しが答えを出した。
子供はその日から、力だけを信じた。
壊れる体のまま、力だけを信じ続けた。
――だが、その代償は重かった。
まだ器のできていない体で、耐えきれない力を幾度も振るった。そのたびに、こいつの体の奥の何かが、少しずつ削れていった。
――俺は、腹の底に冷たいものを感じていた。
こいつは、こんな泥の底から来たのか。
俺も浜に一人で置かれた。
だが俺にはバルドさんがいた。
ネラ婆さんがいた。トゥエがいた。
ミルがいた。俺を数えてくれる者がいた。
こいつにはいなかった。誰にも数えられず
壊れる体で、力だけを掴んだ。
――同情じゃねえ。
こいつの陣は、潰すつもりで俺の村に来た。
それは変わらねえ。
なのに、目が離せなかった。
子供は育った。喰って、喰って
体を大きくした。器を作るように。
力に耐えられる器を。痩せた子供は少しずつ、あの山みたいな巨体に近づいていった。
男は這い上がった。
力で。ただ力だけで。
気づけば無法の土地の頂点に立っていた。
だが頂点から見えたのは、まだ泥だった。
無法の土地の頂点など、他の国から見れば泥の王に過ぎない。
だから、そいつは国境を越えた。
海沿いに、古い王朝があった。
その国は前の王の代から、武を重んじる国だった。強い者が上に立つ。
そういう気風の国だった。
ワイアットはそこに、傭兵として買われた。
流民の出は安い兵力だ。
――また、買われる側だった。
だがこいつは強かった。
戦のたびに頭角を現した。武を重んじる国だ。
強さは隠せなかった。
ある日、その王朝の王が筋の通らない命令を下した。
隣村を見せしめに焼けと。取り分は一銭も増えない焼き討ちだった。
ワイアットは意見した。
「焼いても、王の得にはなりません」
王は笑った。
「流民の分際で、王に口を利くか。お前は駒だ。駒が盤を読むな」
――駒。
まただ。汚点、駒。
数えられない側。どれだけ登っても
この世界はこいつを同じ場所に置こうとする。
その時、ワイアットの中で何かが静かに決まった。怒りではなく計算だった。
――この王に、価値はない。
力のある駒を駒としか見ない。
この王は盤の、一番価値のない駒だ。なら。
ワイアットは、その王朝を引き裂いた。
王も、将も、一人残らず。
だが兵は。
――付いてきた。
武を重んじる国だ。
最も強い者が、王を力で倒した。
ならば、その強い者に従う。
それが、この国の気風だった。
王を引き裂いたワイアットに
多くの兵が膝を折った。恐れからでもあり
その気風からでもあった。
ワイアットは、玉座に座った。
――だが、国の名を、付けなかった。
前の王朝の名は、引き裂いた時に捨てた。
新しい名は付けなかった。
付け方を、知らなかったのかもしれない。
付ける意味を、感じなかったのかもしれない。
人々は、その国を、こう呼ぶしかなかった。
――獣王の国と
名の無い流民が、名の無い国の、王になった。国の名すらこいつは、自分の力の呼び名で、代えた。
――だが、玉座に座って
そいつは初めて知った。
国を奪うのは力でできる。
国を回すのは力ではできない。
付いてきたのは、武を敬う兵だ。
国を回す官僚の知恵ではない。
引き裂いた王朝の仕組みを知る者はもういない。
残ったのは、力と、力に従う者だけ。
仕組みが残らなかった。
流民のそいつは、組織の動かし方を知らない。人心の掴み方を知らない。
だから全部、力で押さえた。
玉座はこいつのものになった。
だが国は本当にはこいつのものにならなかった。
――年月が過ぎたある日。
獣王は、遠征先の森にいた。
陣を離れ、一人で歩いていた時
森の奥に、気配があった。
一人の男が、獣を狩っていた。
ボロボロの身なりだった。
髪は伸び切って、顔の半分を覆っている。
浮浪者だ。どこの国にも属さない
流れ者の匂いがした。
だが。
その男の体躯が、獣王の目を引いた。
浮浪者のなりをしているのに、その背は高く、肩は厚い。鍛えたのではない。
生まれ持った、器の大きさだった。
そしてその男は、獣を狩る時、姿を消した。
――透けた。
景色に溶けて、獣の背後を取り、仕留める。
――力だ。
獣王の物差しが傾いた。
この浮浪者には価値がある。
透ける力。強さを基盤にできる、体躯。
力こそ価値だと信じるこの男にとって。
ボロ布をまとったこの大男は、磨けば光る
上等な駒に見えた。
獣王は、男に声をかけた。
「食わせてやる」
それが条件だった。
「俺の下に来い。飢えは、二度と味わわせん」
男は、しばらく獣王を見ていた。
それから、短く頷いた。
飢えた者に、食わせる。
ただ、それだけで、男は膝を折った。
――その男の名を、俺は知っている。
グラン・ボルク。
――グラン。
俺の仲間だ。坊主、坊主と俺を呼ぶあの大男。
こんな出会い方をしていたのか。獣王と。
グランは獣王の下で戦力になった。
透ける力で、数多くの命令をこなした。
だが。
――暗殺の命令にだけは、従わなかった。
どれだけ命じても、グランは、暗殺系の仕事にだけは首を縦に振らなかった。
理由は言わなかった。ただやらなかった。
獣王は、それを測った。
この男は貴重な戦力だ。
従わない仕事が一つあるくらいで
斬るには惜しい。
だから、殺さずに置いた。
――王になっても。
獣王は泥の底と、同じだった。
たった一人。誰もこいつと対等ではない。
見上げる者か見下す者か、どちらかしかいない。グランですら、飯で繋いだ駒だった。
対等に、隣に立つ者が、一人もいない。
――頼む、というのは、対等な人間が使う言葉だ。
後にこいつが俺に言った言葉。
今、その意味が分かった。
こいつの思考が俺の中に流れているから
嫌というほど分かった。
この男は、生涯で一度も、誰かに「頼む」と言われたことがなかったんだ。
誰もこいつと対等じゃなかったから。
――そして、国が大きくなった。
力で奪い、力で広げ、力で押さえた国は。
いつしか、無視できない大きさになっていた。
帝国がそれに番号を振った。
十王、十位。
獣王は、その椅子に座った。
国の大きさ。従える兵。
そして、こいつ自身の力。
その総合でこいつは、世界の十指に数えられた。
――数えられた。
かつて、一人、二人、と数える時
その数に入らなかった、流民の子が。
今世界の十の指の一本に、数えられている。
獣王はその椅子の上で一度だけ笑った。
汚点と呼ばれた男が
ついに、世界に数えられた。
――それが、こいつの価値の、頂点だった。
――そして、そいつの生涯でただ一度。
測れないものが、現れた。
獣王の国の沿岸。一団の民が流れ着いた。
教会の壁に、紙があった。
――人ならざる肉を持つ。人ならざる力を持つ。見つけたら、近づくな。報せろ。
その紙の通りに、報せが上がった。
海の民だ、と。
獣王はその力を測りに、出向いた。
人ならざる力。使えるなら戦力になる。
こいつの価値の計算だった。
浜に二人の男がいた。
一人は、分厚い茶色の外套。
逆光だった。朝の光が男の背後から差して
顔を塗り潰していた。輪郭しか見えない。
外套の裾が、潮風に揺れている。
――海の民だ。
獣王の目が、そう測った。
――海の民。
俺は、その輪郭を視ていた。
俺と同じ海の民。黒衣のあの男を除けば。
俺が生まれて初めて見る、同族だった。
もう一人は。
流木の丸太に腰かけていた。
海の民ではなかった。だが茶色の外套の男と、対等に親しげに話していた。
海の民が、丸太の男に言った。
「イゼル。だいぶやられたな」
――イゼル。
丸太の男は、海を見たまま、短く答えた。
「ああ。海の民も、随分減ったな」
茶色の外套の男は答えなかった。
ただ、海を見ていた。
――俺はその会話を、聞いていた。
海の民が減っている。やられている。
誰に。何に。虚空の言っていた教皇か
獣王の記憶はそこまでは教えてくれなかった。獣王自身がそれを、知らなかったから。
獣王は、軍を進めた。
イゼルと呼ばれた男は動かなかった。腰かけたまま、ただ見ていた。
茶色の外套の男が、一歩前に出た。
――ここは、俺がやる。
獣王の兵が先に仕掛けた。
先頭の一人が槍を茶色の外套の男の胸へ
突き込む。
男は、避けなかった。
――掌を出した。
槍の穂先が男の掌に触れる。
突きの勢いが掌の上で円を描いた。
男が、その勢いのまま体ごと回る。
穂先の力が、逸れる。
だが、消えてはいない。
――水の中に、閉じ込めた。
男の掌の上で、薄い水の膜が、
槍の突きの威力を、丸ごと呑み込んでいた。
逸らしたのではない。預かったのだ。
相手の力を、水の中にそっくり封じたまま。
男の掌の水が回りながらもう片方の腕へ、
流れていく。
腕を伝い肘を越え、拳へ。
封じ込めた威力ごと、水が男の拳に収まった。
回転の終わり。
その拳が槍を突いた兵の胸へ、叩き込まれた。
――兵の突いた力が。
――兵自身に、返る。
ドッ。
鈍い音。だが殺す気はない
兵の体が、後ろの兵を数人巻き込んで
吹き飛んだ。
自分が突き込んだ力に男の拳の力が上乗せされて。倍の威力が自分に返ってきたのだ。
――なんだ、今の。
俺は、息を呑んだ。
受けて回して、水に封じて
もう片方の手に移して、殴り返す。
相手の攻撃の威力をそっくり奪って
倍にして返す。
――カウンター。
こんな、水の使い方があるのか。
俺は、水打を覚えた。
水の壁を覚えた。水無月を覚えた。
だが、こんな――相手の力を、水に預かって、回して返す技は。
見たことが、なかった。
――これも、海の民の水か。
俺の中でまた一つ。盗むべきものが増えた。
だが兵は止まらなかった。
数が違う。一人を返しても十人が来る。
茶色の外套の男は、カウンターをやめた。
――掌を、上げた。
掌の中に、水が集まった。
量ではない。密度だった。
空気から絞り、地から吸い、圧し潰し
また圧し潰す。
拳が色を失っていく。
深海の色ですらない。光を返さない
ただの黒。
――あ。
俺の口から、声が漏れた。
――それは。
俺があの王に打ち込んだ。
茶色の外套の男が、それを放った。
獣王の軍勢の半分が
音もなく内側から吹き飛び崩れた。
村ごと消えるはずの一撃。
獣王はその水の底を見た。
――そして。
その獣王が、「勝てないかもしれない」と思った。生まれて初めて。
――嘘だろ。
俺は戦慄した。
この時の獣王すら、あの時と比べて
底を測れない。上か下かすら分からない。
――茶色の外套の、海の民。
こいつは一体、どれだけ強いんだ。
だが。
茶色の外套の男は。軍勢の残り半分を消す力を持ちながら。
――戦わなかった。
掌の黒を解いた。
ただの飛沫に戻して、浜の砂に落とした。
そして、獣王に背を向けた。
――勝てるのに。
この男は獣王の軍を全部消せる。
獣王そのものも喰える。
この国を丸ごと奪える。
なのに奪わない。背を向ける。
獣王は理解できなかった。
力の頂点に立てる者が、頂点を取りに来ない。勝ちを価値に換えない。
獣王の物差しではありえない。
勝てば奪う。それが価値だ。
それがこいつの世界の全てだった。
「――待て」
獣王の声。
「なぜ去る。お前は勝てる。俺を喰える。この国を奪える。なぜ去る」
茶色の外套の男は、背を向けたまま答えた。
「――奪って、どうする?」
静かな声だった。顔は見えない。
――奪って、どうする。
その一言を聞いた時。俺は思った。
教会の紙には海の民は人ならざる肉を持つ化け物のように書いてある。
人を襲い、人を喰う、恐ろしい民だと。
世界中のどこでもそう教えられている。
だが。
――この男の、どこにそんな姿がある。
勝てる軍を前に奪わず、喰わず
ただ「奪って、どうする」と、静かに問う。
この茶色の外套の男から。
紙に書かれたあの化け物の姿なんて。
俺には想像もできなかった。
茶色の外套の男は、続けた。
「"俺達は運ぶ"、そして"継ぐ"。次へ"渡す"。それが俺達のやり方だ」
「お前の力は本物だ。だが」
継ぐ、その言葉が妙に耳に残る
男はそこで一度だけ、獣王を振り返った。
逆光で顔は見えなかった。
「測るだけの男に、継ぐものは残らない」
「価値で量った国は、――いつか、価値で量り返されて終わる」
それだけ言って、茶色の外套の男は去った。
イゼルも腰を上げ、その後に続いた。
最後まで、一度も戦わなかった。
獣王は追わなかった。追えなかったのか。
追う意味を見失ったのか。
自分でも分からなかった。
――ここで、俺は思った。
グリムは、これを見せたかったのかもしれない。
この茶色の外套の海の民を。
俺と同じ水を使う、この世界にもういないはずの海の民を。
俺が盗むべき、水を。
――いや。
それだけじゃない。
グリムはきっと、この男の生涯も。
獣王という一人の男の生き様も俺に見せたかったんだ。
そんな気がした。
――勝てるのに、奪わない。
獣王には、それが最後まで理解できなかった。
力は価値だ。勝ちは奪う権利だ。
その物差しで生きてきた男に、「奪わず去る」は測れない。
だから、棘のように刺さって、抜けなかった。
こいつの中に刺さった、その棘の痛みまで、俺の中に流れてくる。
――あの水を、盗む。
俺は、その黒い水から、目を逸らさなかった。カウンターの手の回し方も。密度の作り方も。
獣王の記憶越しに、何度も見返した。
空気から絞る。地から吸う。圧し潰す。また圧し潰す。光が消えるまで。
水無月よりも圧縮されたその水を
掴めそうで掴めない。
だが確かに、俺の中で、何かが一つ繋がりかけた。
――年月が、過ぎた。
獣王は、玉座に座り続けた。
だが、その頃には。
幼い日の無理が、こいつの体を蝕み始めていた。
全盛は過ぎていた。
まだ器のできていない体で、耐えきれない力を幾度も振るった。
その代償が、今になってこいつの力を少しずつ削っていた。
茶色の外套の海の民と対峙した
あの頃の力はもう無い。
――だが、他の十王は、それを知らない。
こいつらが知る獣王は、全盛を過ぎた、衰えた獣王だ。だから侮った。
――国と部下で成り立った大したことのない、十位。
もし、こいつらが全盛の獣王を見ていたら。
その評価はまるで違っていただろう。
侮られても、こいつは玉座を降りなかった。
降りれば、また泥に戻る。汚点に戻る。
力で掴んだこの椅子だけが
こいつが数えられる側にいる、唯一の証だった。
――だが、玉座は寒かった。
こいつの隣には、誰もいなかった。
対等がいない。頼む者もいない。
測れる者ばかりが周りにいて、測れない者は
一人もいなかった。
あの、茶色の外套の海の民を除いて。
獣王は、あの水を忘れられずにいた。
あれこそ、世界の形を決める戦いに値する力だと。
あの「なぜ去る」の答えをまだ理解できていないと。
――そして、戦が来た。
ラグナロク。世界の形を決める史上初の戦。
獣王の陣に一人の男がいた。特徴のない男。
背は高くない。痩せてもいない。
渾名の、つかなかった男。
――ヴィス・ノーレン。
こいつが、獣王の耳元で囁いていた。
「王よ。ラグナロクに出ましょう。あなたの国には価値がある。勝てます。あなたなら」
――嘘だ。
俺には分かった。
この男は獣王を勝たせる気など、無い。
ヴィスは、勝つ側へ移り続ける男だ。
獣王の陣を、自分が次に乗り換えるまでの踏み台にしている。
衰えた獣王を、勝ち馬に見せかけて、焚きつけているだけだ。
獣王も本当は分かっていた。
衰えた自分が総取りを狙うのが、無謀だと。
だが。
ヴィスが、こう続けた。
「それに王よ。海の民が見つかりました」
「海沿いの、名もない村に。――あなたが、ずっと探していた海の民が」
獣王の金の瞳が、動いた。
――海の民。
忘れられなかった、あの水。
あの「なぜ去る」の意味。
ラグナロクに出すなら
戦力は海の民一択だった。
こいつにとって世界の形を決める戦いに値する力は、あれしか無かったから。
近くにいる、とヴィスが言うなら、尚更。
獣王は立ち上がった。
――本当は、あの村での戦いをしなくてよかったのかもしれない。
俺はそれを視ながら思った。
ヴィスが仕組んだ。ヴィスが獣王を動かした。
だが獣王には、獣王の目的があった。
長い年月、抱え続けた、たった一つの渇き。
あの水を、もう一度。あの答えを知りたい。
それだけは、ヴィスの仕込みでも嘘でもなかった。
――だから、こいつは使いを出した。
そして、俺の村で「見つけた」と微笑んだのは。獣王ではなく、このヴィスだった。
――そして獣王が、俺の村へと陣を組んだ
その時。
獣王は、妙なものに気づいた。
村へ兵を進めようとした時。
見えない膜があった。
――結界だ。
村の周囲を丸ごと覆う結界。
それも、並のものではない。
魔族も魔獣も寄せ付けない。
この一帯にだけ、化け物が一匹も近づけない。
獣王の十王の格の肌が、それを感じ取った。
――こんなもの、いつから。
獣王の記憶を辿る。
この結界はずっと前から、ここにある。
少なくとも20年。いや、25年近く。
そんな昔から、この名もない漁村だけが
見えない力で守られ続けていた。
――誰がこんなものを。
こんなものを、こんな辺境の、なぜ名もない村に。
獣王は分からなかった。
だから気に留めなかった。
目的は海の民だ。
結界の主が誰かなど、どうでもよかった。
――だが、今の俺は。
あの村がずっと守られていた。
ずっと前から。魔族も魔獣も寄せ付けない力で。
誰が何のために。
――俺が生まれる前から。
――ここから先は、俺の知っている話だ。
だが俺はそれを、獣王の側から視た。
こいつの思考と俺の思考が、重なったまま。
グランが意見した。あの村を焼く必要はない、と。
獣王は、喜んだ。
――筋の通った話だ。久しく聞いていない、筋の通った話。
こいつはそれを愛した。
だから全部言えと命じた。
かつて飯で繋いだ、あの浮浪者が。
長い年月を経て、自分に筋の通った話をする。
獣王はそれが、満更でもなかった。
だが、グランがそれを言うのに三日悩んだと知った時。
獣王の内側で、あの古い物差しが傾いた。
――悩んだ。という事は。
この男は俺が間違えると思った。
俺の判断を、測った。
流民の子を「駒が盤を読むな」と殴った、あの王と。同じ構図が、今度は獣王の側にあった。
獣王はグランを殴った。
かつて、自分が殴られたのと、同じ理由で。
――そして、俺が来た。
村を焼くのをやめてくれ、と。
獣王は俺を見下ろした。
――グランは、得の話をした。
この小僧は、得の話をしない。
「頼む、というのは、対等な人間が使う言葉だ。お前は、俺と対等のつもりか」
――違う、と俺は言った。
――では、なんだ、と獣王は問うた。
――頼むしか、やり方を知らねえんだよ、と。俺はそう答えた。
――今その言葉を、獣王の側から聞いて、俺は。
初めて知った。
獣王の金の瞳が、あの時わずかに揺れていたことを。
――頼むしか、やり方を知らねえ。
それは、獣王が生涯
誰にも言われたことのない言葉だった。
対等でない者が、対等を求めず
ただ頼む。見返りもなく。
得の話もなく。
他の何も目に付かなくなるほどに
獣王の物差しでは、測れない言葉だった。
だから揺れた。
こいつの瞳があの時、確かに揺れたのが、俺の中に流れてくる。
――そして。
俺が丘の上で獣王を下し、目が覚めたその時。
獣王の金の瞳が、丘の下の村を捉えた。
村が燃えていた。だがその火が
村のある一線から先へ、進んでいなかった。
――獣王の視界の、端。
村の一角の空気が、わずかに歪んでいた。
獣王はそれを気に留めなかった。
俺にはそれが何なのか分からなかった。
――村が燃えた。
俺は、二度目に獣王の前に立った。
水のない、灰の中で。
そして、獣王は言った。
――俺は焼けと言っていない、と。
――ああ。
あの時も、俺は薄々分かっていた。
村を焼いたのは、獣王じゃない。
後で港で、ヴィスが指一本で獣王を量り殺すのを見た。
あの男だ。獣王の陣が崩れた、その価値の傾きを見てヴィスが焼いた。
獣王は、国を本当には掌握していなかった。
力で押さえていただけ。
だから、部下の暴走を止められなかった。
――王になっても。
この男は最後まで本当には何も手に入れていなかった。
――そして、港。
三度目。俺は万全の獣王に勝った。
獣王は倒れた。だが死ななかった。
また死ななかった。
倒れた巨体が指を動かした。
金の瞳が、俺を捉えた。
「――聞け。焼いたのは――」
価値で全てを測ってきた男が。
自分に勝てる相手にしか興味を示さなかった男が。
死の間際に。倒した相手に。
たった一つ、計算ではない言葉を渡そうとした。
――これが。
あの茶色の外套の海の民が言った。
測るだけの男に、継ぐものは残らないと。
だが獣王は最期に。俺に何かを渡そうとした。計算では割り切れない、たった一つの真実を。
それは、この男の生涯で、初めての継承だったのかもしれない。
だが。
トン、
軽い音がした。誰かが王の背に指を置いた。
ヴィス・ノーレン。
「――ああ、傾いた。王よ。あなたは、今、生涯で、最も、軽い」
指一本。
折れる寸前のものを折れる方向へ押す。
それだけで、足りた。
獣王の金の瞳から、光が消えていく。
――最期の言葉は。
永遠に言えなかった。
「焼いたのは――」の、その先を。
獣王は、渡せなかった。
測る男に、量り殺された。
――価値で量った国は。
いつか、価値で量り返されて終わる。
あの、茶色の外套の海の民の言葉が。
この瞬間に成就した。
獣王は最後まで、それに気付かず。
測る男に、測られて、落ちた。
「なぜ去る」の答えも知れないままに
――本が、閉じる。
意識が浮上する。墨の暗がりが晴れていく。
夜空の図書館が戻ってくる。
獣王の思考が俺の中から引いていく。
重なっていた物差しが、剥がれていく。
俺は、俺だけに戻る。
俺は、『ワイアット・バーグ』の本を
両手で持ったまま、立っていた。
頬が濡れていた。
――なんでだ。
こいつは、俺の村に来た、陣の王だ。
村を叩き、潰そうとした男だ。
憎い相手だったはずだ。
なのに。こいつの生涯を
こいつの内側から見てしまった後では。
俺はこいつをただ憎むことが、できなくなっていた。
――そして、気づいた。
夢の中で、バルドさんが言っていた。
人は、年寄りから順に死ぬ。それがまともな順番だ、と。まともじゃない順番もある、と。
俺はあの言葉を、こう思っていた。
悪い奴が善い奴を殺す。
そういう、理不尽な死のことだと。
――違った。
獣王は底辺から這い上がった男だ。
汚点と呼ばれ、泥の中から、力だけで
世界の十指に、数えられるまで登った男だ。
そいつを、折れる寸前まで運んだのは。
――俺だ。
とどめはヴィスが奪った。
だが、あの男を追い込んだのは、俺だ。
俺は底辺から這い上がった一人の男の、生を。摘む側に回っていた。
――これが、まともじゃない順番なのか。
バルドさんが言いたかったのは。
悪い奴が善い奴を殺す、なんて、単純な話じゃなかった。
俺自身が。這い上がろうとする者を
下へ叩き落とす側に。
いつの間にか、立っている。
その順番の、狂いのことだったんだ。
俺は拳を握った。
獣王を憎めなくなった。
それと同時に。俺が何をしたのかを。
初めて、こいつの側から思い知った。
――その時。
俺の手の中で。
『ワイアット・バーグ』の本が。
音もなく、崩れた。
砂のように。光の粒になって。
俺の指の間から、夜空へ溶けて、消えた。
――え。
俺の手にはもう何も、残っていなかった。
「――消えた……?」
グリムの声。
振り返ると、グリムが目を見開いていた。
いつもの飄々とした顔が、消えていた。
「――おかしい」
彼女の声が、わずかに硬い。
「本が消えるなんて。そんなこと、ボクは見たことがない」
「アカシック・バベルの本は、閲覧されても消えない。ずっと、そこにある。――ずっと、あり続けるものなんだ」
グリムは俺の空っぽの手を、見つめた。
「それが消えた。――獣王の本が、この空間から消えた」
彼女の赤い瞳が、細くなった。
「スイ君。君は一体何を受け取ったのかな」
俺は答えられなかった。
答えなかった
ただ、空っぽの掌を、見下ろした。
――なぜ、去る。
獣王が最後まで聞けなかった答え。
勝てるのに奪わない。その生き方の正体。
獣王はそれを知りたがっていた。
だが、知る前に落ちた。
そして今、その問いだけが。
獣王の消えた本の後に、俺の中に残っている。
――第64話 完。




