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第63話 存在しないはずの

第63話 存在しないはずの

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】


 グリムを待つ間、俺は本を見つけた。


 本棚の一番下の段。

その隅に収まった一冊。


 懐かしい色をしていた。

故郷を感じさせる色だった。

朝の白い光。濡れた砂。古い舟の木。

その全部を混ぜたような背表紙。


 手に取って、題名を見た。


           


 『スイ・ガレン』


           


 そこには今ここに生きているはずの

俺の名が刻まれていた。


           


 しばらく呆然とした後、頭を巡らせた。


 グリムの説明が間違っていたのか。

死んだ者にしか本は現れないと彼女は言った。

あれが思い違いだったのか。


 それとも同姓同名の別人なのか。

この広い世界だ。

俺と同じ名の男が、他にいてもおかしくはない。

いや、それは違う


 それとも。

絶対にありえないが俺はもう死んでいるのか。


           


 考えても仕方がない。すぐにそう気づいた。


 この本を開けば、全ての謎が解けるのだから。この一冊の中に、答えが全部書かれているのだから。


           


 そして妙な確信があった。


 この本は俺自身だ。


 根拠は無い。だが胸の奥が熱くなる。

故郷で魚を獲り、陸に上がってきた時の感覚によく似た熱だった。


           


 俺はその本を開こうとした。


           


 開かない。


           


 硬く閉ざされていた。まるで自分自身を拒むように、がっしりと封じられていた。


 指を表紙の縁にかけて、力を込めた。

俺の膂力でも、びくともしない。


           


 どうしても中身が気になった。


 俺の本だ。俺の生涯だ。

それが目の前にあるのに、俺には開けない。


 この本に認められていないという事なのか。


 自分の本に、自分が認められない。

そんな馬鹿な話があるか。


           


 その時。


           


 本が勝手に開いた。


           


 一瞬だった。俺の意思ではない。

本の方がひとりでに頁を開いた。

まるで、一部だけを見せつけるように。


 俺の意識が、その中へ飛ばされた。


           


           


 目の前に映ったのは、帝国だった。


           


 あの、全てが転移したはずの帝国。


 それが、とてつもない勢いで燃えていた。


           


 空が赤かった。炎の赤だ。

黒い煙が、帝都の尖塔を舐めて

天まで昇っていた。


 俺は崖の上に立っていた。


 崖の下では、争いが起きていた。

見たこともない種族まで混じっていた。

人も、魔族も、俺の知らない姿の者も。

ありとあらゆる民族が、入り乱れて殺し合っていた。


 怒号。悲鳴。鉄のぶつかる音。

何かが崩れ落ちる音。


           


 見たことのない光景だった。

見たくもない光景だった。


 帝国が消えた以上、これから先も

見ることはないはずの光景。


           


 グリムの言葉を思い出した。


『この世界における、事象、歴史、あらゆる可能性。

その全てが、ここでは本として閲覧できる』


 この本には、もしもの可能性も書かれている、と。


           


 ――この本は。


           


 世界側の、何かしらの手違いで現れてしまった、別の俺の歴史なのかもしれない。


 帝国が転移しなかった、もう一つの道。

そこに立つ、もう一人のスイ・ガレン。


           


 燃える帝国を、俺は崖の上からただ見ていた。


 いや、俺ではない。この崖に立つ別の俺が。


 その背中に、何を背負っているのか。

何を失った後なのか。自分の目線からは

読み取れなかった。


           


           


 その時。


           


 俺の後ろから、声が聞こえた。


           


 聞いたことのあるような、ないような細い声。


           


 男か女かも判らない。遠いのか、近いのかも

判らない。


 ただ、その声を聞いた瞬間

俺の背筋の奥が、冷たくなった。


           


 そして、その声の正体を知る前に。


           


 俺は、あの図書館へ戻っていた。


           


           


 眼前に、グリムが佇んでいた。


           


 彼女は、俺の手の中の本を見た。

『スイ・ガレン』の背表紙を見た。


 とても興味深そうな顔をした。


「――へえ」


 彼女の声。


「死んでいないはずの存在の本が、この世界に既にある」


           


 グリムは俺の目を覗き込んだ。


 彼女の左目が微かに光る。観測の魔眼。

俺の見たものを思った事を、そのまま読み取ったらしい。


「――なるほどね」


 彼女は小さく頷いた。


           


 そして、一つ話を切り出した。


「――かなり前にね」


 彼女の声は静かだった。


「本来なら存在しないはずの根源石が見つかったんだ」


「掘り出されたのに、その石には既に持ち主の名が刻まれていた」


「驚いた発掘者がその人物を探した。そうしたら、その人物は既に同じ根源石を持っていたんだ」


           


 俺は息を飲んだ。


「――同じ石が、二つか」


「そう。一つは発掘されたもの。もう一つは本人が最初から持っていたもの。同じ石が二つ、この世界に存在した」


           


 グリムは夜空を見上げた。


「この世界が繰り返されているんじゃないかという仮説がね。かつてアサナルドで、議論された事があったんだ」


「繰り返しの中で前の何かが、稀に、今に紛れ込む。石とか、記憶とか。――本とか」


           


 ――繰り返し。


           


 俺はその言葉を、口の中で転がした。


 背筋が冷えた。


 さっき聞いた、あの細い声が

耳の奥でまだ鳴っていた。


           


           


 グリムは、その冷えを見て取ったのか。


 ふと、何かを思い出したように、手に持っていた本を、俺に差し出した。


「それ以外にも…この世界が枝分かれのように分岐していて、その根源石はそこからきたものって説もあるし――考えていても、仕方ないよ」


 彼女の声。


「とりあえず目的を果たそう。これを見せたくて、ボクは君をここに連れて来たんだから」


           


 俺は差し出された本を受け取った。


 『スイ・ガレン』の本は、いつの間にか俺の手から離れていた


           


 受け取った本の、背表紙を見た。


           


 『ワイアット・バーグ』


           


 俺は不思議そうに、その本を眺めた。


「――誰だこれ?」


           


 グリムは少しだけきょとんとした。


 それから合点がいったように、口の端で笑った。


「――ああ、そうか」


「君にはこっちの名前の方が伝わりやすいかな」


           


 俺は首を傾げた。


「――?」


           


 グリムは、確かにこう口にした。


           


「――獣王」


           


 ――第63話 完。

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