第62話 座標変更・アカシック・バベル
第62話 座標変更・アカシック・バベル
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
夢を見ている。
夢だと判るのは、体が勝手に動くからだ。
俺は動こうと思っていない。なのに手が伸びる。
足が歩く。口が言葉を紡ぐ。
俺の意思の外側で、体が勝手に動いていく。
だが、その動きに覚えがあった。
――これは昔、確かに俺がやった動きだ。
交わした言葉だ。
俺は今、記憶の中の自分を後ろから覗いている。
もう一度、なぞらされている。
塩の匂いがした。
浜だ。俺の生まれ育った浜。
名前の無い村。地図に載らない村。
獣王の国の、最も辺境の砂と丸太と古い舟の村。
――もう、どこにも無い村。
俺がもう帰れない場所だった
最初の場面は、俺がまだ小さい頃だった。
背が低い、手が小さい。
見上げる視線が、地面に近い。
その小さな体が勝手に浜を駆けた。
俺の意思ではない。
だが確かに、あの頃の俺はこう走った。
丸太の上にバルドさんがいた。
今より腰がまだ伸びていた。煙管をふかしている。
「バルドのおっちゃん、見て、貝、こんなにとった」
幼い俺の口が、勝手にそう言った。掌いっぱいの貝を、差し出していた。
「おう。多いな」
「食える?」
「食える。だが全部は食うな。半分は海に返せ」
「なんで」
「全部とったら、来年無くなる。半分残せば来年もある」
幼い俺は、不満げな顔で
それでも半分の貝を、波打ち際に戻した。
バルドさんは、それを見て、少しだけ笑った。
場面が移る。
俺の目線の高さが、少し伸びていた。
浜を歩く歩幅が、さっきより広い。
この頃にはもう、村の子供達の中で一番
足が速かった。
そのとき子供の中では一番足の早かったミルという少女に大差をつけれるほどに
魚を捌く小屋にネラ婆さんがいた。
まだ、背筋がしゃんとしていた。
「婆さん、腹減った」
「さっき食ったろうが」
「また減った」
「育ち盛りは、際限がないねえ」
そう言いながら、ネラ婆さんは、干した魚を一枚、俺に投げてよこした。
俺はそれを、噛んだ。硬くて、塩辛くて、旨かった。
「婆さん、この魚、なんて名前だ」
「知らないよ。名前なんぞ腹に入れば、皆おんなじさ」
ネラ婆さんは、そう言って、また魚を捌いた。
舟の傍に、筋肉質な男、トゥエがいた。
トゥエはまだ若かった。舟を直す手つきも
今より危なっかしかった。
「スイ、そこ持ってろ」
「重いんだよ、これ」
「男が、それくらいで音を上げるな」
俺は舟の縁を、両手で支えた。
この頃は、まだ普通の子供の力だった。
海の民の体が、目立つほど力を持ち始める前。
トゥエは、俺の隣で木を削りながら言った。
「スイ。おれはいつか、この村で一番でかい舟を作る」
「でかい舟作ってどうすんだ」
「妹と遠くまで行く。ミルと、この浜から見えない海の向こうまで」
トゥエの目は、その時、遠くを見ていた。
場面はまた移る。
その日は、村が静かだった。
俺の背は、もう今に近かった。
ネラ婆さんの小屋の前に、村の人間が集まっていた。
婆さんが、眠るように亡くなっていた。
老衰だった。苦しんだ様子はなかった。
ただ、朝起きてこなかった。それだけだった。
俺は、その死に顔を見た。
いつも口が悪くて、いつも飯を多く盛ってくれた
婆さんの顔は、皺の一本一本まで、穏やかだった。
「婆さん」
俺の口が、勝手にそう呼んだ。返事はなかった。
当たり前だ。死んでいるのだから。
なのに、俺は、もう一度呼んだ。
「婆さん」
誰も、何も言わなかった。
長い夢だ
その夜。俺は浜に出た。
バルドさんが、丸太の上にいた。煙管をふかしていた。
「バルドさん」
「……ネラか」
「ああ」
「あいつは、大往生だ。悲しむこたぁない」
「悲しんでねえよ」
「顔が悲しんどる」
バルドさんは、海を見たまま、煙を吐いた。
「スイ。人は死ぬ。年寄りから順にな。それがまともな順番だ」
「まともじゃねえ順番も、あるのか」
バルドさんは、少し、黙った。
「……ある」
それだけ、言った。
俺はその時、その言葉の意味を深く考えなかった。
――後で、嫌というほど、思い知る事になるのに。
場面が、また移る。
この頃には、もう俺の体は
明らかに村の他の人間と違っていた。
潜れば、誰よりも深く潜れた。
息は長かった。腕の力は大人の漁師を
遥かに超えていた。
そして、あの日。
俺が初めて、自分の力を自覚した日。
荒れた海だった。
潜っていた俺の足に、岩の間の古い網が絡んだ。
海の民の体でも、水中で足を縛られれば話が違う。
息が切れかけた。
その時。俺の掌の中で水が勝手に動いた。
掌の周りの海水が渦を巻いて
絡んだ網を内側から弾いた。
網が千切れた。俺は浮上した。
浜に上がって俺は自分の掌を見た。
掌の上で海水の玉が、俺の意思で形を変えた。
伸びたり、丸まったり、俺の思う通りに。
その日の夜。俺はバルドさんにそれを見せた。
掌の上の水を、蛇のようにくねらせて見せた。
バルドさんはしばらく、それを黙って見ていた。
煙管を、口から離したまま。
「バルドさん、これなんだ。俺はなんかおかしくなったのか」
バルドさんはすぐには答えなかった。長く海を見て、それから静かに口を開いた。
「――アルケーだ」
「アルケー?」
「そう呼ぶ。この世界の一部の人間だけが使うことのできる力だ。万物の根源に触れる力」
「お前のは水。水を意のままに操る力だ」
バルドさんは、煙管を砂に置いた。
「バルドさんも使えんのか?」
「ああ、今まで沢山使ってきたよ」
「いいかスイ。水のアルケーってのはな、この世界で、海の民しか使わん」
「他の力を持つ奴はそこそこいる。火だの雷だの、土だの。だが水だけは海の民だけの力だ」
「だから、な」
バルドさんの声が、低くなった。
「水を操る奴を見たら、それは海の民だと誰でも判る。海の民だと判れば、狙われる」
「――他の国は、海の民を危険視しとる」
俺は、掌の水を見た。
「なんで、そんなに危険がられるんだ」
「昔、何かがあったんだろうな。俺も詳しくは知らん」
そういい、一瞬だけ遠くを見た
そういえばまだ
俺を見て助けを呼ばれる様な事は起きていない
「だが、教会の壁の紙を思い出せ。
人ならざる肉、人ならざる力。あれは海の民の事だ」
「あの紙は、基本的な国なら、どこにでも貼ってある。子供でも諳んじられるようにな」
バルドさんは、両手を俺の肩に置いた。
バルドさんが俺の肩に手を置いたのは
その時が初めてだった。
「だから、この力は隠せ。人前で使うな」
バルドさんの目は、真剣だった。
いつもの飄々とした目では、なかった。
「それにアルケーってのは厄介でな。ただ生きてるだけでも、少しずつ大きくなる」
「これは経験談だが、嬉しい時も悲しい時も怒った時も。一際感情が大きく揺れると、それに合わせて、アルケーも一時的に大きくなる事がある」
「使い続ければ、大きな武器になる。
お前を守る力になる。――だが」
バルドさんの手に、力がこもった。
「使い方を誤れば、――人すら殺しちまう事も、ある」
俺は掌の水を見た。
さっきまでただの遊び道具に見えたその水が。
急に、重く見えた。
「スイ。力ってのはな大きさじゃない。使い方だ」
バルドさんの声は、低いまま続いた。
「でかい力を、でかいまま振り回す奴はいつか自分の力に、自分が潰される。本当に強い奴ってのは、でかい力を、必要なだけ、必要な形にして使える奴だ」
「魚を獲る時、お前は海ごと持ち上げるか。今はできないし、できるようになってもしないだろう。魚一匹分の水を、動かすだけだ。――力は、そういう風に使え」
俺はその時、意味を半分も判っていなかった。
だが、バルドさんの目があんまり真剣だったから
頷いた。
「――判った、バルドさん」
「それとな、スイ」
バルドさんは、少しだけ声を柔らかくした。
「いつかどうしても、この力を使わなきゃならん日が来る。誰かを守るためにな」
「その時には迷うな。俺の言葉なんざ無視しろ、守りたいと思った、その気持ちがお前の水を一番強くする」
「感情で大きくなる力なら、――一番でかくなるのは、誰かを守りたいと思った時だ。それは、お前の弱点じゃない。お前の、一番の武器だ」
バルドさんは、俺の肩から手を離した。煙管をまた口に咥えた。いつもの飄々とした声に戻っていた。
「……もっとも。お前がその力で、誰かを殺すような奴なら、俺は最初からお前を代わりに育てとらんがな」
バルドさんはそう言って、煙を吐いた。
海風がそれを、攫っていった。
あの日以降
たびたびアルケーの使い方について教わっていた記憶が蘇る
――バルドさん。
夢の底で、俺は動かない口で呼びかけた。
いや、口も勝手には動かない
この呼びかけは、記憶の再生ではない。
今の俺が、夢の中から、あんたに向けた声だ。
あんたの言った通りになったよ。
俺はこの力を使った。誰かを守るために。
そして誰かを、殺しもした。
でもな、バルドさん。
あんたの言葉は、今も俺の中で生きてる。
海ごと持ち上げるな、魚一匹分の水を動かせ。
あの言葉が、俺の水を少しずつ、細く、鋭くした。
深海の圧を、膜一枚に。掌の中の十二粒に。
あんたが教えてくれた「必要なだけ、必要な形に」が、俺の技の、芯になった。
守りたいと思った時が、一番でかくなる。あの言葉に、俺は何度も救われた。
あの日の村でも
剣の里でも、渓谷でもソルグでも朝霧村でも
みんなを守る時。
俺が、そして俺の水が一番強くなるのは
いつも、そういう時だった。
あんたはいない。みんなはもういない
斜めに登っていく煙を見たその瞬間から
それは理解してる
だけどあんたの教えだけはまだ、俺の手の中にある。
――俺は今、遠くまで来た。
剣の里を見て、帝国で話を聞いて、七戒と戦って、天理級の男を見た。
この世界が、大きな戦いに向かっている事も知った。
あんたと同じ凪も見たよ
ラグナロクという世界を賭けた戦いに
俺は出るつもりだ。自分の水で、自分の手で
この世界をなんとかしたいと思っている。
これ以上、誰もあの日の俺みたいにしないために。
未来の事を…考えているんだ、俺は。
――なのに。
この身も、心も。いまだに
あの村という過去に、囚われている。
目を閉じれば、浜が浮かぶ。
バルドさんの煙管の匂いがする。
ネラ婆さんの盛った魚の味がする。
トゥエの、あの、遠くを見る目が浮かぶ。
俺を慕ってくれた子供も、魚を分けてくれた大人達も
前へ進もうとするたびに、足が、あの砂浜に沈む。
俺は未来をなんとかしたいと言いながら
過去の浜から、一歩も動けていないのかもしれない。
夢の底で、俺の体の目尻から、何かが伝った。
――あぁ
俺は泣いている。
今度は、勝手にではない。
今の俺自身が、この記憶の重さに泣いている。
その熱を自覚した瞬間。
目が覚めた。
最初に目に入ったのは、本だった。
一冊の古い本が俺の顔のすぐ上を
静かに漂っていた。支えも糸も無い。
ただ宙に浮いている。
俺は体を起こした。起こせた。
今度は、俺の意思で動いたし、夢は終わっていた。
周りを見た。
床は白い。
立てている。座れている
次は上を見た
夜空だった。
頭の上に無数の星が瞬いていた。
黒と藍の深い闇。その中に白い銀の光の粒。
俺は夜空の上に立っていた。
頭上にも夜空。足元は白く
ここが一体何処なのか、判らない。
その夜空のあらゆる場所に、本棚があった。
無数の本棚。天まで届く本棚。
あるいは天そのものが本棚。
その棚という棚に、本が詰まっていた。
数える事ができない。
億か、兆か。あるいはそれ以上か。
その無数の本のいくつかが、棚を離れて
夜空の中をゆっくりと泳ぐように移動していた。
「起きたね、スイ君」
声の方を見た。
赤い外套の女が、夜空の上に立っていた。
彼女の背後にも、無数の本棚が聳えていた。
「ここは。なんだここは」
俺の掠れた声。
グリムは口の端で微かに笑った。
「アカシック・バベル」
彼女の声が、夜空の中で静かに響いた。
「ボク達が今、立っている、この場所の名前だよ」
「どこにあるんだ、こんな場所」
グリムは宙を漂う本を一冊、指先でそっと撫でた。撫でられた本は彼女の指を避けるように、また夜空の中へ泳いでいった。
「それはボクにも判らない。ボク達のいるこの世界の
どこかなのかもしれない。あるいはアマミと同じで、世界の理の外側、なのかもしれない」
俺は自分の目尻に触れた。まだ湿っていた。
「さっき、俺は夢を見てた。村の夢を」
グリムは頷いた。
「ここに入る時に、見るんだ。この場所に出入りする時、よく起きる。過去の夢を見る。ボクは父の夢を、そして人生の記憶を」
「それにここに入ったそれ以降も、他の場所で意識が無くなっている時に、同じ夢を見る事があるかもしれない。そういう場所なんだ、ここは」
俺は周りの無数の本を見渡した。
「そもそも、ここはなんなんだ。この本は全部なんだ」
グリムは夜空の上を、ゆっくりと歩いた。
「この世界における、事象、歴史、あらゆる可能性。
その全てが、ここでは本として閲覧できる」
俺は息を飲んだ。
「全部か。この世界の全部なのか」
「そう。でもね。その大部分は、人一人の本なんだ」
彼女は宙を漂う一冊を指した。
「この世界で、その人物が死ぬと、一冊の本が発生する。その人の生涯の全てが記された本が。
だからこの無数の本の大部分は、死んだ人一人一人の、生涯なんだ」
俺は夜空を見た。その星の一つ一つが
死んだ誰かの生涯の光に見えた。
「もしかしたら、完全に他の世界とも繋がれる場所が、どこかにあるのかもしれない。でもそれは、まだボクにも判らない」
彼女は宙を漂う本の群れを見上げた。
「この本はね、勝手に移動する。棚を離れて泳ぐ。そして入ってきた、しかるべき人のところへ、いつの間にかあったりする。でも、開けない本の方が多い。一部だけ見れる本もある」
俺は顔の上に漂う、あの一冊に手を伸ばした。伸ばした指が本の背に触れる寸前、本は俺の指を避けて、夜空の中へ泳いでいった。
「見るには条件がある。その人を殺した張本人。
あるいは、その人に認められた者。
または、本そのものに認められた者だけが見れる」
「試練を受けて、本に認められる事もできる。
本に認められる条件は、大抵試練だよ」
彼女は口の端で微かに笑った。
「そして場合によっては、その世界そのものに、行く事もできる」
「行くって。本の中にか」
「そう。その本のページの部分だけを、追体験できたり、場合によっては第二天理のように、時間ごと超越したりもする。それに、本の中のものを持って帰ってこれたりもするんだ」
聞き覚えのない第二天理という言葉
そしてそれ以上に異質なこの空間に俺は言葉を失った。
この場所の規模が、俺の想像の外側にあった。
「どうやって、ここに来るんだ、普通」
「ボクは塔を経由した。ボクの根源結界の塔を通って、座標を変えた。でも塔を経由せずに、自分の力だけで、この空間に辿り着く者もいるらしい。第三天理のようにね」
彼女は夜空を見上げた。
「だからボクにも、この空間の事は、よく判らないんだ」
彼女の声には、いつもの中立の温度の底に、微かな畏れの色が混じっていた。
俺は、周りを見渡した。ライとレンの姿が、無かった。
「グリム。ライとレンは、どこだ」
グリムは、寸だけ肩をすくめた。
「二人はね、スイ君より先に、目覚めたんだ。レン君がまだ酷く焦っててね。一刻も早く動けるようになって、皇帝様のところへ行かなくては、って。あの子、体もまだ本調子じゃないのに、立ち上がろうとして」
彼女は口の端で、微かに笑った。
「そしたら、ライ君が、あの子の首根っこを掴んでね。"焦って動ける傷じゃねぇ。まず治せ"、って。そう言って連れて行ったよ」
俺は寸だけ、口の端で笑った。
あの乾いた義兄弟の背中が、目に浮かんだ。
「そうか。あいつらしいな」
「うん。二人は、この空間の別の場所で、休んでる。
レン君の傷が落ち着くまではね。ライ君が付いてるから、心配ないよ」
「でも」
彼女は俺の方へ向き直った。
「スイ君に、見せたい本があるんだ。
探してくる。少し、待ってて」
彼女はそう言って、夜空の中を歩いていった。無数の本棚の間へ。彼女の赤い外套が、星の中に溶けていった。
俺は、一人になった。
いや。
後ろに、気配があった。
振り返った。
シアがいた。
今起きたのだろうか
修道服の少女が、白の上に立っていた。
その赤い瞳から、涙が流れていた。
無言で。声も立てず。
ただ目から、静かに涙を流していた。
俺は驚いた。
「どうした。何かあったのか」
シアは俺の声に、寸だけ肩を揺らした。揺らして、自分の頬の涙に、初めて気づいたように指で触れた。
「なんでもない」
少女の声は、いつもの棘を残したまま。
だがその棘の先が、微かに湿っていた。
「なんでもないったら」
彼女は俺から顔を背けた。背けた横顔の涙を拭って。
「私、ここを見て回る。一人にして」
彼女はそう言って、夜空の中を
俺とは逆の方へ歩いていった。
修道服の裾が、星の中で揺れた。
俺はその背中を追わなかった。
追ってはいけない気がした。
なんでもない、か。嘘だ、と思った。
根拠は無い。
だがこの場所に入る際の昔の記憶で
彼女が何かを見たのだとしたら。それは
俺が踏み込んでいい場所では、ない気がした。
グリムを待つ間、俺は周りの本を掴んだりした。
宙を漂う本は、俺の指を避けた。
だが本棚に収まっている本は、手に取る事ができた。殆どは開けなかった。背表紙に触れても
表紙が鉛のように重くて開かない。
だがいくつかは開けた。
一冊は、三千年前に生きたただの農夫の本だった。名前も知らない男。どこかの国の、どこかの村で。
畑を耕して、妻を娶って、子を育てて、病で死んだ。英雄でも王でも無い。
ただの農夫の生涯。それが一冊の本になって
三千年、この夜空の棚に収まっていた。
俺はその農夫の生涯を少しだけ読んで、本を閉じた。
歴史って、こういうもんなのか。
王の名前でも、戦の年号でも無く。名も無い農夫の一日一日の積み重ねが、この夜空を埋めている。
――死んだ者、一人に、一冊。
グリムは、そう言っていた。
この夜空の本は、その人物が死んで初めて発生する。
生きている人間の本は、この場所には無い。
まだ書き終わっていないからだ。
生涯が、閉じていないからだ。
つまり、この棚に並ぶ本は、全部
既に死んだ者の記録。
俺はその事を、掌の中の農夫の本の重さで、理解した。
そして。
一冊の本が、俺の目に止まった。
宙に浮く一冊。
色が。
その本の色が。
さっき夢で見たばかりの、俺の故郷の浜の色に
よく似ていた。
朝の白い光の色。濡れた砂の色。
古い舟の木の色。その全部を混ぜたような
懐かしい色の背表紙。
俺は、その本を手に取りたくなった。理由は無い。ただ、手が伸びた。
本を、手に取った。
宙を漂う本は俺の指を避けたのに
この本は避けなかった。
まるで、俺の手に収まる事を待っていたように。
―待て。
俺の頭の芯が冷えた。
この夜空の本は死んだ者一人に一冊。
生きている人間の本は、ここには無い。
まだ、生涯が閉じていないから。
本来、ここにあるはずの無いもの。
死んだ者にしか現れない本。
それが、生きているはずの名で
この隅に静かに収まっていた。
まるで、もう死んでいるかのように。
俺は、その表紙の題名を見た。
俺は、目を見開いた。
そこには。
『スイ・ガレン』
俺の名が、刻まれていたのだから
――第62話 完。




