第61話 頂点からの通達
第61話 頂点からの通達
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
BLOOD
当たり前のようにグリムから放たれた
その男を表すであろう名には
帝国の特務機関と同一の名が刻まれていた
「――通達に来た」
「グリム、皇帝からお前宛だ、聞け」
「あ、ボクなんだ」
赤い男の声は乾いていた。
湿った土の匂いも、爆炎の焦げも、粒子還元の余韻も。この乾いた声の前では、輪郭を失う。
スイは掌の水を握り直した。
目の前の男の格を、彼の体はまだ受け止め切れない。水を握る指先の震えを、指の力で抑え込んだ。
――聞かなきゃなんねえ。
絞り出した声は掠れていた。
「――なんで」
「なんでルキウスを追わなかった」
「あんたなら追えた。この場の誰の目にも判った」
赤い男の赤い瞳がスイを見た。
見られた。それだけで背中の毛が逆立った。
「――目的は通達」
男は淡々と告げた。
「殺害ではない」
「必要な消滅だけをこの場では行った」
「ベルフェゴールはその魔眼の性質上、存在ごと消しても問題ないと判断した」
「だがもう片方、嫉妬を殺す道理は俺にはない」
「――ゆえに、逃がした」
簡潔。
感情の色は無い。
事実の羅列。
――皇帝。
その一語で。
鉤爪の男の耳が動いた。
放心して立ち尽くしていたヴァルガス
彼の目の縁がその言葉に反応した。
「――皇帝、様」
男の掠れた声が震えていた。
「皇帝様の、通達……だと?」
「――お前は、皇帝様の直属なのか」
「皇帝様は、お前を知っていて、俺を、俺を四席に置いていたのか」
「――俺の知らねぇ場所で、俺より上の駒を飼っていたって事か」
彼の内で崩れかけていた「帝国最強」の残骸が更に崩れた。
崩れた底から新しい問いが湧いた。
――皇帝様は、この男の存在を知っていたのか
俺のこの鋼の腕を
俺のこの格を
この男の陰で飼っていたのか。
「――畜生……ッ」
ヴァルガスの掠れた声が木々を揺らした。
赤い男はその声を聞いていなかった。
いや、聞いてはいたかもしれない。
だが赤い男の乾いた声は、その声の上を静かに通過した。
「――帝国周りの状況を伝える」
赤い男の乾いた声が続く。
「元獣王の国は既にヴィス・ノーレンに実権を握られている」
「ヴィス・ノーレン…ッ!」
スイの脳裏にあの姿が過ぎる
「ヴィスは転移で獣王の国の周辺に飛ばされた帝国の民を見つけ次第攫っている」
「捕虜として、獣王の国の要塞に集積している」
「――市王の根源の暴走理由は」
「教皇である可能性が高い」
「――帝国の現状は既に世界各国に伝わりつつある」
「ヴィスと同様に帝国の民の捕虜化に動き出した勢力が、複数確認されている」
「同時に、皇帝の座を狙う勢力が頭角を表し始めた」
その一語で。
林の縁のレンの頭巾の下の目が大きく見開いた。
「――皇帝様の座を狙う」
頭巾の男の掠れた声が続いた。
「――誰だ」
「どこの誰が」
「――畜生、何故私が此処にいる」
「一刻も早く皇帝様の御元へ戻り、御守りせねば」
彼は地面から体を起こそうとした。
だが細い刃の断片が周囲に突き刺さった、その体の輪郭は、まだ動く事を拒んでいた。
その間も。
ヴァルガスの口は動き続けていた。
だがその口から出る言葉は既に意味を成していなかった。
「なんのために」「皇帝、様」「俺、様」「畜生」「俺は」「知らねぇ」「知らねぇんだ」
――同じ短い言葉が、順番を失って繰り返される。
スイの耳はその音を拾えなくなっていた。
拾える音は、赤い男の乾いた声、それだけ。
「――帝国の民の死者」
赤い男の乾いた声が続く。
「現段階で四万人が確認されている」
四万。
スイの水を握る掌が強く握られた。
水の粒が指の間で微かに押し出される。
四万人。
数字が彼の頭の中で朝霧村の何百倍かに換算される。換算しきれない。
「――アサナルドの使徒の装飾品、その受肉が早くなっている」
赤い男の声が続く。
「本来の想定より遥かに早い周期で、使徒の器が育っている」
「原因の特定はまだのようだ」
「――ヴィスは捕虜を含めた大人数をアサナルドに移動させている」
「その目的もまだ明確ではないが、皇帝の推測ではこの混乱に生じて捕虜を囮にして皇帝を殺し、帝国を統べるつもりだ」
「――皇帝と虚空の両名は」
「帝国の民の解放のため」
「――旧アサナルドに向かっている」
その一語で。
赤い外套の女の鞭の先端が、宙で揺れた。
グリムはその事実を、彼女なりに噛み締めた。
「――向かった、か」
彼女の呟きは乾いていた。
「あの皇帝様と、虚空ちゃんが揃って動いたって事は」
「――もう、世界はそういう段階なんだね」
赤い男の乾いた声が更に続く。
「――皇帝の動きに呼応するように」
「ヴィスを含めた皇帝の座を狙う勢力が、アサナルドの方角へ集まりつつある」
「同時に――七戒の複数人が、示し合わせたようにアサナルドの方角へ集まりつつある」
「――教皇の姿は」
「未だ視えない」
「――以上が通達だ」
その通達の途中から。
ヴァルガスは動いていた。
いつから動いていたか。スイには判らなかった。
鉤爪の男の全身の穴という穴から、汗と血を噴き出しながら。
その両手の鋼を、獣の速度で赤い男の全身へ叩き付けていた。
鋼の獄。手数の限界。彼の生涯で最も速く、最も多い乱撃。
――だが、その鋼の総てが。
その男の人生を賭けた全てが
赤い男の右手の人差し指、一本で。
全部、捌かれていた。
――キンキンキンキンキンッ!!。
人差し指の指先が鋼の一撃一撃に、僅かに触れる。触れた瞬間、鋼の軌道が僅かに逸れる。
逸れた鋼は、赤い男の外套の縁を掠める事も無い。
赤い男は乾いた声で通達を続けたまま。
視線すら、鉤爪の男に向けていない。
「――ヴァルガス」
ライの掠れた声が届いた。
「――よせ…ヴァルガス」
「テメェの鋼はあの男には届かねぇ」
「引け」
ライの左の掌の内で、雷は既に灯されていない。
彼のこの言葉は、雷を灯せなかった彼自身の諦めから絞り出されていた。
だが。
ヴァルガスの耳には届かなかった。
鋼の乱撃は続く。人差し指の捌きも続く。
赤い男の通達は既に終わっていた。
「――皇帝……ッ!」
ヴァルガスはそれだけを、掠れた声で絞り出した。
絞り出した瞬間、彼の体は既に南西の林の縁の方角へ跳ねていた。
自分が吹き飛ばされた、その方角ではない、別の方角へ。
彼の足は既に、皇帝の方角を探していた。
残されたのは、鋼の乱撃の残響と
彼の背中の細い赤い線の跡だけだった。
赤い男の赤い瞳は、その背中を見送った。
見送っただけで、追わなかった。
男はグリムとスイの方へ、静かに体を向け直した。
男の体が背中をこちらへ向けた。
その背中は、去るための背中だった。
――待て。
スイは水を握る掌を前へ伸ばした。
伸ばした指先が赤い男の背中の外套の裾に届く事は無い。届く距離ではない。だがその指先を伸ばさずにはいられなかった。
「――待てあんた」
スイの掠れた声。
「あんた、どうすんだ」
「――それだけの力があって、あんた、これからどうすんだ」
「帝国の民を助けるのか」
「それとも、見てるだけなのか」
赤い男の背中が止まった。
振り向きはしなかった。
背中のまま、乾いた声だけを返した。
「――世界の理を超えた力は」
「――過度に、世界に干渉してはならない」
男の声は、教義を読み上げるように乾いていた。
「俺は帝国の命令で動く」
「だが」
「――命令を聞いた上で、動かない事もある」
「それが俺の掟だ」
スイの水を握る指先が震えた。
――動かない事もある。
その言葉の意味を噛み締める間も無く。
赤い男の背中は既に、そこに無かった。
消えたのか。去ったのか。
この場の誰の目にも、その過程は記録されなかった。
この男は。
この男にあるのは、前と後だけ。
――そして、後だけが残った、その森の空気の色が。
既に赤くはなかった。
森の緑が緑に戻っていた。
空の青が青に戻っていた。
土の茶色が茶色に戻っていた。
視界の被膜が、剥がれていた。
スイは掌の水を握り直した。
水を握る指先の震えは、まだ残っていた。
「――あーーー、緊張した」
赤い外套の女の間延びした声。
グリムは髪を肩の後ろに緩く垂らして、深呼吸を一つ、した。
彼女の外套の縁が揺れる。
「あのねスイ君」
「ボクね、あの人と話す時、いつも心臓が五倍で鳴るんだ」
「――さっきも鳴ってた」
「今、やっと止まった」
彼女の温度は既に、いつもの中立の彼女に戻っていた。
彼女はスイの方へ体を向き直した。
「――スイ君」
「アサナルドに向かう気なんだろう?」
スイの水を握る指先が止まった。
彼女の目は既に答えを知っていた。
だから、答えは要らなかった。
「――正直に言うよ」
彼女の声が静かに続く。
「今の君達の強さじゃ」
「これからアサナルドで繰り広げられる戦いには」
「――歯が立たない」
スイの奥歯が鳴った。
彼はその事実を否定できなかった。
あの赤い男を見た後では、否定はできなかった。
「――じゃあ、どうすりゃいいんだ俺は」
スイの掠れた声。
「教えてくれ。俺は行かなきゃなんねえんだ」
「俺は守らなきゃなんねえんだよ、責任を取らなきゃならねえし、ラグナロクにもでなきゃいけない」
思い詰める彼を、シアとライはじっと見ていた
「ならこの短期間で強くなればいい」
グリムは口の端で微かに笑った。
「――君達に見せたいものがあるよ」
「時間は少ないけれど」
「――少しは間に合う」
スイは俯いた。
俯いた、その視界の下で。
水を握る掌が、まだ震えていた。
「……」
彼はしばらく返さなかった。
「――判った」
顔を上げた時、彼の目の色は微かに変わっていた。
彼はそのまま無言で林の縁の方角へ歩き出した。
シアが修道服の裾を握って、その背中を追った。
ライが右腕を垂らしたまま、掠れた声でその背中に声を掛けた。
「――我が弟、どこ行くんだ」
「――倒れてる奴を拾いに行く」
スイの掠れた声。
林の縁の木の幹の下に。
レンは仰向けから体を起こしていた。
背中の細い刃の断片が地面の土に、まだ放射状に突き刺さっている。
頭巾の下の目はまだ、赤い男の消えた方角を追っていた。
その視線の脇に。
スイが立った。
レンの頭巾の下の目がスイに向いた。
二人の視線が、束の間、交わった。
スイは口の中で言葉を選んだ。
選び切れなかった。
選び切れないまま、掠れた声で告げた。
「――お前らは」
「――ライを迎えに来たんじゃねえのか」
スイの声。
「お前は、ライの弟なんだろ」
「――義理の」
レンの頭巾の下の目が動いた。
「――違う」
彼の声は、あの朝と同じ、乾いた鉄の声だった。
「俺はあの人の弟ではない」
「――それはあの人が勝手にそう言っているだけ」
「俺とあの人の間には、血の繋がりも、義理の関係も、正式には存在しない」
スイは笑った。
「――んじゃ、俺と同じだな」
彼は掌を差し出した。
水を握っていた、その掌を開いて
レンの前に差し出した。
「――動けねぇんだろ」
レンの頭巾の下の目が、その掌を見た。
見た上で、顔を背けた。
「――結構だ、海の民」
レンの掠れた声。
「俺は帝国の人間だ」
「一度、皇帝陛下の命の下に、貴様を攻撃した人間だ」
「――立場的にも」
「――人間的にも」
「俺には、その手を掴む資格が無い」
「――退がれ」
スイの差し出した掌が、宙で止まった。
彼はその掌を引き戻さなかった。
だが、次の言葉が出て来なかった。
彼は肩越しに、ライの方を見た。
「なんとかしろ、あんたの弟だろ」――そう言いたげな顔で。
ライは掠れた声で笑った。
「――しょうがねぇな、我が弟」
彼は右腕を垂らしたまま、林の縁の木の幹の下に体を寄せた。
「――レン」
「聞け」
レンの頭巾の下の目がライの方へ向いた。
「――お前は、俺の義理の弟だ」
「勝手に俺がそう言ってる、ってお前は思ってる」
「――だが、俺はそう決めた」
「決めた側の掟だ」
「――そういう事にしろ」
「今、この場では、そういう事にしろ」
「――ライさん」
レンの声。
「俺は」
「――しろ、レン」
ライの声が遮った。
「俺の、命令だ」
「――我が弟」
「――俺の我が弟の、兄だ、お前は」
「――だから、弟の手を掴め」
「命令だ」
自分でもメチャクチャなことを言っているのは
この男が一番理解しているだろう
レンの頭巾の下の目が揺れた。
揺れた目が、スイの差し出された掌に戻った。
スイは笑った。
「――助かる」
彼は差し出した掌を、更にレンに寄せた。
「ライから、お前の話は聞いてる」
「――少しだけな」
「俺達はこれからアサナルドへ向かう」
「守りたいんだろ、帝国を」
「――なら、来い」
「動けねぇなら、俺が引っ張る」
レンの頭巾の下の目が揺れた。
だが、まだ掴めない。
「――一度、剣を向けた相手の」
「――囲おうとした相手の」
「――情けを、受けるなど」
彼の掠れた声は震えていた。
スイの差し出していた掌の、逆の手が。
パチィッ!
レンの頬に平手を鳴らした。
乾いた平手の音が、林の縁の空気を揺らした。
レンの頭巾の下の目が、大きく見開いた。
スイの声。
「――お前は俺を一度、斬った」
「――俺もお前を一度、殴った」
「――おあいこだな」
スイの目が、真剣になった。
「――聞き方を変える」
彼の声が低くなった。
「――やるのか」
「――やらねえのか」
レンは動かなかった。
彼の頭巾の下の目がスイの目を、真っ直ぐに視返した。
視返した、その視線の中で
彼は自分の内側の天秤を、傾けた。
「――やる」
彼の掠れた声。
彼の手が、スイの差し出された掌を掴んだ。
その掴んだ手の脇で。
赤い外套の女が、口の端で笑った。
「――じゃあ、君もついてくるといい」
グリムは淡々と告げる
レンは彼女に、頭巾の下から会釈を返した。
会釈を返した、その顔で、彼はスイに口を開いた。
「――あの朝」
「――貴様の脇に、赤髪の二刀の剣士がいた」
「――あの女は」
「――今、どこに」
スイは口の中で息を飲んだ。
「――転移の時に、はぐれた」
「――生きてるはずだ」
「――探してる途中だ」
レンの頭巾の下の目が、安堵の色を灯した。
「――そうか」
「――良かった」
「――あの女は、様子はおかしかったが…俺が今まで視た剣士の中で」
「――最も激しい剣を振る女だった」
スイは口の端で笑った。
彼の中のリアの顔が、蘇った。
「――だな」
その後、レンはライと言葉を交わした。
あの逃げ場のない朝で血を交えた男同士の短い会話だった。
シアがその脇で修道服の裾を握って、二人を見ていた。
その脇で。
赤い外套の女が腕を宙で振った。
振った瞬間、森の中央の抉れた地のその上に。
結界の輪郭が、静かに立ち上がった。
黄金の縁飾り。空気の内側の屈折した光。
根源結界。彼女の心象風景の投影。
その中央に、塔が立った。
――言の葉の塔。
あの失われたはずの塔。
彼女の根源結界の中で、彼女の心象として、再びこの森の中央に立った。
レンの頭巾の下の目が、大きく見開いた。
「――これは」
「――塔、なのか」
「――此処に塔が」
彼の記憶の中には、この塔の情報は無い。
ブラッドの内部のどの資料にも、記録されていない、はずだ。
この場で、初めて彼はその塔を視た。
グリムは口の端で笑った。
「――綺麗だろう?」
「ボクの家だよ」
「――皆、入って」
彼女の先導で、五人は塔の扉を潜った。
塔の内側は、外の森の空気とは違う
静かな温度だった。
螺旋の階段。書棚の並び。塔の主のいつもの風景。
だがグリムは、その書棚の脇を静かに通り過ぎた。
書棚のある階を越えて、更に上へ。
螺旋の途中の一つの扉の前で、彼女は止まった。
「――着いたよ」
彼女の声。
彼女が扉を開けた。
扉の奥。
――何も、無かった。
部屋と呼ぶには、あまりにも広い空間。
壁の輪郭も、床の輪郭も不明瞭。
書棚も、机も、椅子も無い。
本一つ無い。
あるのは、白と灰の中間の静かな空気だけ。
スイの水を握る指先が、止まった。
「――何もねぇじゃねぇか、グリム」
彼の掠れた声。
「あんた、俺達に何を見せたいんだ」
グリムは口の端で笑った。
彼女はその反応を待っていた、という顔で笑った。
「――見ててね」
彼女は扉の脇に立った。
「――ボクが今から君達を連れて行く場所は」
「――ボクの父の恩人が関わっている場所だよ」
「――アマミという名の」
「――世界の理の、外側の存在」
スイの記憶の中で、何かが鳴った。
――アマミ。
――YAMAMANI。
剣の里での修行の最中
リアとの焚き火の脇。
彼女の膝の上に、古い紙の束。
水のアルケーを扱った者の、御伽噺
――YAMAMANI。
里ではそれを、歴史の棚ではなく
子供に聞かせる話の棚に置いていた。
その一夜、彼女はスイに、タレスという者の一言も、教えてくれた。
――万物の根源は、水である。
スイは、口の中で、その言葉を繰り返した。
あの夜と同じ、意味の判らないまま、胸の奥が、動いた。
――YAMAMANIの中に
アマミって奴がいた気がする
御伽の中の存在、それと同一の名
問いは彼の内で輪郭を結ばなかった。
結ばないまま彼はグリムを視た。
グリムはその反応を見た。
見ただけで、詳しくは語らなかった。
「――今は、聞かないで」
「――向こう側で、判るから」
彼女は目を閉じた。
右手を宙に上げた。
彼女の唇が動いた。
「――"座標変更"」
――第61話 完。




