第60話 BLOOD
第60話 BLOOD
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
男は何も語らない。語る必要がない。
彼にとって言葉とは弱者の発明であり
強者とは行動で全てを語るものだった。
この場にいるすべての存在の目の前に、その男が佇んでいた。
――何かが狂った。
スイは瞬きの中でそれを感じた。
森の緑が緑ではない。
空の青が青ではない。
土の茶色が茶色ではない。
視界の総てに薄い被膜が張っている。
――赤い。
鈍い、深い赤。
乾いた血のような、あるいは乾いていない血のような。
視界の中心にその男が立ってから
この森の色がひとつ残らず赤の側に寄っている。
目を擦った。指の腹に血は付かない。
錯覚だ。だが視界の赤は擦っても消えない。
鉤爪の男の全身の穴という穴から汗が噴いていた。
背中の細い赤い線の上を、その汗が滑り落ちる。汗と血が混ざり、湿った鉄の匂いが鼻の奥を刺す。
ヴァルガスは自分の掌を視た。
鋼の指先が震えている。
歴戦の自分が
この二本の腕。七戒すら怯まずに縫い上げに来た
この掌が震えている。
――俺は帝国最強、だった。
過去形。
それが自分の内で口を利いた事に彼自身が驚いた。
俺は俺こそが帝国最強のはずだった。
だから俺は七戒二人をこの鋼で伏せに来た。
それが皇帝への俺の答えだった。
――だが。
俺が押しても押しても倒せなかった、あの二人が。
俺の視認できない速度で。
俺が視認できなかった過程で。
――俺の隣に立つのに
相応しくない男がそこにいる。
いや、違う。
――俺の方がこの男の隣に立つに相応しくないのだ。
いやそれも、違う。
――俺はこの男と同じ世界にいていいのか。
その問いが彼の内で初めて生まれた。
全身の汗は止まらない。
それが目の前の男に対する恐怖なのか。
それとも自分の内で崩れ落ちていく「帝国最強」という自負の残骸を弔う失望なのか。
――今のヴァルガスにはその区別すら付かなかった。
――ぼたり。
湿った音が森の土に落ちた。
赤い男の右手から目の下の深いクマの男の上半身が湿った土の上に落ちた。
二度跳ねて上を向いた。
目の下のクマの底が瞬きをした。
「――あ──── 」
ベルフェゴールの間延びした声。
視線が腰から下を探す。腰から下が無い。
視線が南東の切り株の方角へ跳ねる。切り株の背後に自分の腰から下の二本の脚だけが立っていた。
「――あぁ、そう、いうこと、か──── 」
ベルフェゴールの上半身が湿った土の上で呟いた。
「俺様いつの間に寝てた──── 」
「起きたら脚が無ぇ──── 」
男の首の切断面から湯気が立ち始めていた。
同じ頃、北の水の膜の上でも。
青髪の男の頭を欠いた体が傾いて崩れかけていた。
その体の首の切断面から、赤い男の左手の指の間で下がっていた首が、湯気を立てて既に繋がりを探し始めていた。
嫉妬の腕輪の超再生。
首と体は繋がっていなくとも互いの位置を探る。
繋がらずとも、嫉妬はその魔眼を開く
開いた瞬間、青髪の男の左目が既に光を灯した。
――知見の魔眼。
彼が生きた時、視損じた対象は基本的に無い。
人間、魔獣、七戒同士
そして塔の主のような世界の理の外側に近い存在ですら、視た瞬間にその情報の骨格を左目の内側に複製できた。
その左目が。
いま初めて。
――何も映さない。
「あれ……あれ?」
首だけになった青髪の男の口から声が漏れた。
貴族の優雅も粘りけもそこには無い。純粋な困惑。
「――視えないな。おかしいな」
「僕の目が悪くなったのかな」
「――いや、そんな筈は」
男の左目が赤い男の輪郭を追う。
追った瞬間、視界がブレる。
視界に直接、赤いものが入ったかのように。
情報が赤に隠される。
目を擦ろうにも手が無い。首だけの身体では手が無い。
「――アルケー、だろうか」
男の首の口が独り言のように呟いた。
「いや、アルケーの型ではない。僕の目はアルケーの構造なら視える」
「では、無常の類だろうか」
「いやいや、無常でも僕の目は掴む」
「――ならば」
男の首の口が、その先の言葉を飲み込んだ。
――そもそも、僕の目でこの男を測ろうとする
その前提が間違いなのでは。
「――……」
男は笑うことも、できなかった。
その笑えなかった首の脇に。
赤い外套の女が、鞭を垂らしたまま静かに告げた。
「――無駄だよ、ルキウス君」
グリムの声はいつもの中立の温度より少しだけ低かった。
「君じゃ見えない」
「――その目が悪いんじゃない。この人がそういう存在だって、それだけの話だよ」
彼女の視線が北の三人へ向いた。
視線の中に微かな笑みが混じる。
「――スイ君、ライ君、シア君」
「見えているかな」
「今から僕達が目撃するのは」
「――"天理級"の戦闘だよ」
――天理級。
その言葉を聞いた瞬間
ライの左の掌の内で雷が揺れる
揺れの原因は、単なる驚愕ではない。
――思い当たった。
ライは特務機関ブラッドで生きた歳月の中で
この世界の頂点の名前を殆ど記憶している。
十王の序列も、原初教の中核も、他国の隠し玉も
皇帝の書庫の裏の名簿ですら、彼の頭の中には写しがある。
だがその写しの、どの頁をめくっても。
――この男の顔は、無い。
十王にはいない。
ブラッドの中にいない。
教皇の側にもいない。他大陸の頂点にもいない。
――知らない。
しかしその「知らない」の中に、たった一つ、思い当たる影があった。
――アサナルド。
技術大国、アサナルド。
ある時一晩で滅んだ。
街ひとつではない。国そのものが。
夜が明けた時
アサナルドは地図の上から消えていた。
国境の内側の王城も市街も田畑も
その原形を留めなかった。
あの時、他国や帝国民の中で囁かれた一つの通説があった。
――帝国がやった。
しかし、帝国のどの軍が動いたか。
どの部隊が命令を受けたか。
どの将官が指揮を執ったか。
その答えは、ブラッドの内部にも無かった。
特務機関ブラッド、五席の中で
あの晩に動いた者はいなかった。
皇帝に近い立場の存在も動いていない。
七戒も動いていない。魔獣の軍も動いていない。
なのに、アサナルドは滅んだ。
――勢力じゃなかったのか。
ライの掠れた声が雷の脇で鳴った。
「――アサナルドが滅んだのは……勢力じゃねぇ」
「――個人、だったのかあれは」
「――お前なのか」
その問いは赤い男へ届いた。
届いた事はなんとなく理解した
だが赤い男は答えなかった。
――否定も、肯定もしなかった。
その、答えない沈黙自体が
ライにとっての答えだった。
――俺達が勝てる格じゃねぇ。
ライの左の掌の雷が静かに掌の内側で萎んだ。
萎んだ雷を、彼は無理には灯し直さなかった。
この場で雷を灯すことが意味を成さない。
それが判った。
最初に動いたのはレンだった。
ヴァルガスの目の縁が寸だけ開いた。
――俺じゃねぇのかよ
最初に動けたのは俺じゃない。
俺はこの森で最初に動ける男のはずだった。
俺が動く。俺が開ける。俺が決める。
それが俺の鋼の意味だった。
その最初の一手を、俺じゃない男が
俺より格下のはずの男が――俺より先に踏み出した。
もはや今の俺は帝国最強ですらないのかもしれない。
鳴った瞬間、彼の内の何かがまた小さく崩れた。
レンは頭巾の下で歯を食いしばっていた。
同じ服を着た、味方のはずの男。
その男の赤い瞳を
頭巾の下から真っ直ぐに視ていた。
瞳の中に恐怖が確かに灯っていた。
だが彼はその恐怖を歯の裏で押し留めていた。
――逝く。
彼の右手の細い刃が鞘の内で既に抜かれていた。
抜かれた瞬間の残像は視えない。
彼が動いた瞬間
この森の空気は彼の意思ではなく
彼の刃が動いた事だけを記録した。
――秘
彼の口の中で奥義の名が鳴った。
名を外へ出す余裕は無かった。
これまで生きた十余年、レンが記憶する限りこの速度で刃を振ったのは初めての事だった。
――閃。
空気が細く裂けた。
その裂け目が赤い男の首の寸手前まで届いた。
届いた、その瞬間。
――赤い男の目が動いた。
目が動いた。それだけ。
レンの視線と赤い瞳が交わった。
交わった、その寸に。
男の右手の指が寸、動いた。
――ヂリヂリヂリヂリッ!
まるで料理人が葱を微塵に刻んだかのように。
レンの細い刃が鋒から柄まで無数の細かい断片になった。
断片が宙で静止した。次の瞬間
その静止した断片ごと
レンの体自体がはるか後方の地面へ。
どしゃぁッ!
……。
30メートル以上後方の地面の上で、レンは仰向けに倒れていた。
背中の林の縁の木の幹に
細い刃の断片が放射状に突き刺さっていた。
彼の体の輪郭を、断片が囲んで突き刺さっていた。
少しでもズレていれば
彼の体自体がその断片の一つとして幹に突き刺さっていた。
――生かされた。
レンの頭巾の下で
その事実が静かに口を開いた。
彼は体を寸だけ起こした。
肩の関節が鈍く痛む。
だが動く。骨は折れていない。
冷静さを取り戻す。
――取り戻せた事実自体が、彼に答えを教えた。
彼は放心して立ち尽くしている鉤爪の男の背中に、掠れた声で叫んだ。
「――ヴァルガスさん!」
「状況は全く飲み込めておりませんが!!」
「彼に我々を殺すつもりはありません!」
「引いて下さい、ヴァルガスさん!」
「これは我々の戦いではありません!」
その叫びはヴァルガスの耳に届いた。
届いた上で。
彼は鋼の両手を腰の脇で綴じた。
――俺は聞かねぇ。
彼の目は既に目の前の赤い男しか視ていなかった。
怒りか。恐れか。焦りか。
どれとも取れる、そのどれでもない貌。
「――俺の、俺だけの称号ッ!」
鉤爪の男の掠れた低い声。
彼は両手の鋼を腰の脇から外へ開いた。
開いた鋼の十本の指先が赤い男の周囲の空間に目にも留まらぬ速度で円を描いた。
円が幾重にも赤い男を囲う。
彼の奥義。
鋼の風圧の極限。360度逃げ場の無い鋼の獄。
その同時。
北の水の膜の上で、青髪の首が静かに口を動かした。
「――僕も乗せて頂きますよ」
男の首は既に体と繋がってあった。
首をくっつけたのか、生やしたのかは見てはいない
繋がった右腕が宙で細い黒い線を無数に描く。
これまで彼がこの身体で視て
模倣してきた様々な技の断片。
道化の紳士の絵の型。
ライの雷の型。
塔の主の黄金の鞭の型。
海の子の水の型。
断片が宙で絡み合い、一つの名の無い奥義に化ける。
同じ同時。
南東の切り株の背後で、腰から上を欠いた男の脚だけが動いた。
脚の膝が寸、震える。同時に切断された上半身の口が湿った土の上で静かに呟いた。
「――俺様の寝床、汚した奴には──── 」
「――5000、御見舞い申し上げる──── 」
森の中の地の総てが応えた。
抉れた土砂、折れた木、根、石、塔の骸、林の縁の岩、木の幹の破片。
これまでの500とは桁の違う量。5000を遥かに越える。
この森の地表の総てが鈍く宙に浮き上がった。
浮き上がった総てが赤い男の一点へ殺到する。
――三人同時の奥義。
鋼の獄。
嫉妬の名の無い混成の奥義。
怠惰の五千を超える投擲の雨。
この森の空間の総てが、その一点へ収束するはずだった。
赤い男は右手を上げた。
上げた右手を手刀の形に揃えた。
名前も告げなかった。
――そして手刀が振れた。
振れた回数は誰にも数えられなかった。
一撃、一撃、一撃、一撃、一撃、一撃、一撃。
五千を超える投擲の総てに、赤い男の手刀が
真正面から、力任せに、一つ残らず叩き込まれた。
速度は誰の網膜も追いつかない。
手刀の残像だけが、赤い男の周囲の空間に
放射状に幾百も、幾千も、灯った。
これはアルケーではない。
これは奥義ではない。
――ただの手刀。
そのただの手刀が
五千を超える投擲の一撃一撃を真正面から
迎え撃ち真正面から
圧倒的な速度と手数で叩き斬った。
――ドドドドドド!!!
葉を切るあの細い音が、五千連続で、森の空気を、真っ二つに、埋めた。
叩き斬られた投擲の一つ一つは、粒子ですら残らなかった。
――だが。
叩き斬られた、その一撃一撃の。
残った、衝撃だけが。
投擲の軌道の、真後ろへ、抜けた。
投擲の軌道の、真後ろに、誰がいたか。
――ベルフェゴールの、湿った土の上の、上半身。
ドゴゴゴゴ!!
湿った土の上の上半身に、目に見えない衝撃が、次々に、穴を開けた。
目の下のクマの底が、大きく、見開いた。
「――は──── 」
男の胸に穴が開いた。腹に穴が開いた。首の付け根に穴が開いた。頬に穴が開いた。額に穴が開いた。
開いた穴の一つ一つから、湯気の再生が慌てて始まる。
だが穴が開く速度の方が、再生の速度より、遥かに、速い。
ドドドドドドドドドドドド!!!!!!!
湿った土の上の上半身が宙に、跳ね上がる。
衝撃で跳ね上がる。
跳ね上がった上半身に
次から次へと、新しい穴が開く。
これはベルフェゴール自身が撒いた、投擲の残響。
自分が撒いた、五千。
その五千の総てが、叩き斬られた後の残った衝撃として、投擲の軌道の真後ろにいた、彼自身に、返っている。
「――は────」
「――は────」
「――は────」
目の下のクマの底が、掠れた三音を、間延びして繰り返した。
男の顔の輪郭が、既に、原形を留めなくなっていた。
――そして。
その同時に。
赤い男の左手の親指と中指が、触れ合った。
――デコピン。
――ぱちん。
ヴァルガスの体が、南西の方角の林の縁を超えて消えた。
どがしゃぁぁぁッ!!!
林の縁の木々が、五本、六本、七本。
鉤爪の男の体が抜けた軌道の上の木の幹が
次々に根元から折れて倒れた。
最後に、遥か遠くの山の斜面の岩肌に
鈍い衝突の音。
その、同時に。
青髪の男の名の無い混成の奥義が
赤い男の正面から着弾した。
ドォォォォンッ!!!
激しい爆発。
爆炎が森の中央の円形の抉れた地の上に立ち上る。黒煙と火の粉と爆風。
北の三人の頬に爆風の熱が当たる。
シアの前でスイが掌の水の壁を慌てて張った。
爆炎の中から、声が返った。
「――……七戒、もういいな」
抑揚の無い乾いた声。
爆炎の中から赤い男が歩み出た。
黒衣の外套の縫い目の一つ一つに。
――埃一つ、付いていなかった。
同じ爆炎の脇に
湿った土の上の穴だらけの上半身が
まだ、跳ねていた。
跳ね続けている間に、赤い男の赤い瞳が、その上半身を視た。
次の瞬間。
その穴だらけの上半身の、隣に。
赤い男が、既に立っていた。
瞬きの、寸すらも、無かった。
彼が爆炎の中を歩み出た、その次の一呼吸。
三十メートル先の南東の湿った土の脇に
「…そういう魔眼か」
そう呟き、彼は立っていた。
「――は────? 」
目の下のクマの底の穴だらけの上半身が、間延びした一音を漏らした。
その一音の途中で。
赤い男の右手が振れた。
振れた回数は、外からは一回に視えた。
だが赤い男の右手の残像は、目の下のクマの底の周囲の空間に、数えきれないほど。
――ズドドドドドドッ‼️‼️
目の下のクマの底の上半身の輪郭が、湿った土の上で、粒子に還った。
跡形も無く。
同時に切り株の背後で
宙に浮いていた腰から下の二本の脚も
同じ粒子に還った。
――再生する余地すら無かった。
怠惰七戒、ベルフェゴール・フォン・エデン。
七戒が1人、なんの遺言もなく世界から消滅した
その消滅の湿った土の上に。
青髪の男の首が、静かに、大きく息を吐いた。
「――いや、」
男の首の口が、初めて貴族の優雅の仮面を外した。
「こんなの、どうやって勝てって言うんですか」
男の回復が完全に完了する。
完了した瞬間、その身体は既に後方の林の縁へ跳ねていた。
全力の逃亡。
塔の外で見せた優雅な貴族の歩みは
そこには無い。
あるのは獣が捕食者から後ろも見ずに逃げる
その純粋な後退。
赤い男は、その逃亡を視ていた。
視ていたが。
追わなかった。
明らかに追える。
この場の誰の目にも、明らかに追える。
だが赤い男の赤い瞳は
青髪の逃亡の背中を視送っただけで。
――その場に止まった。
止まった、その赤い瞳が。
ゆっくりと。
スイ達の方へ振り向いた。
「――……」
沈黙。
スイは声が出なかった。
あまりにも一瞬すぎた。あまりにも一方的すぎた。
あの鉤爪の男の格。あの二人の七戒の格。
この森で拮抗をしていた三方。
その拮抗の総てを――1人の男が、たった数呼吸で拭った。
彼の水を握る掌が震えていた。
その震えの脇で、シアが修道服の裾を握り締めていた。少女の赤い瞳の中に、ヴァルガスと似たあの汗の匂いの恐怖の色が、微かに灯っていた。
スイの内でライの掠れた声が、まだ鳴っていた。
――アサナルドを、一晩で。
勢力ですら、無く。
個人で。
――そんな男が、たった今、この森に居る。
その事実の重さを
彼の水の掌はまだ受け止め切れていなかった。
その沈黙を。
北の三人の脇から。
赤い外套の女が、鞭を垂らしたまま静かに告げた。
「――久しぶりだね」
「――"BLOOD"」
赤い男の赤い瞳が、赤い外套の女を視た。
男の口が開いた。
「――……通達に来た」
――第60話 完。




