第55話 矛盾
第55話 矛盾
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
スイが目を開けた。
板張りの天井が見えた。
天井の縁から光が差している。
少し橙に寄った、昼過ぎの光。
彼は宿の一室にいた。
誰かの家の二階の寝台の上。
――生きている。
その事実がじわりと頭の芯に染みた。
スイは右腕を動かそうとした。
動いた。
指先まで感覚が戻っている。
抉れた肉の縁はまだ塞がりきってはいない。
白い布が幾重にも巻かれて、その下で赤黒く固まっている。
左太腿の裂けた傷も白い布で丁寧に巻かれていた。
全快には程遠い。
だが体は動く。
スイは寝台の上で、体の中を静かに探った。
掌の内側で水を湧かせようとした。
そして水が湧いた。
だが湧いた量は彼の予想を超えていた。
湧かせる時の、腹の奥の”引き出し”の重さが違う。
あの披露宴の前の彼なら、この量を湧かせるのに腹の底で二呼吸分の力を要した。
今は一呼吸分
湧いた水の密度も以前より確かに濃い。
――水打・無月の影響か。
あの、体の底までを絞り出した一撃。
水無月の圧縮と水打の圧を掌の上で重ねた、あの型。
あれを一度通したことで、体の中の”器”が少しだけ広がった。
根源力の総量と出力の上限。
その両方が以前より確実に上がっている。
――削り切って、なお生き延びた分だけ、体が次の限界を押し広げた。
部屋の外から音が聞こえた。
太鼓の音。
囃子の笛の音。
子供の駆け回る足音。
女たちの笑い声。
宿の一階の広間で大きな鍋が湯気を立てているらしい。
スイは寝台の縁に腰を掛けた。
階段を降りると広間に女将がいた。
女将はスイを見て口の端を強く結んだ。
何か言おうとして言葉が喉で止まった。
代わりに目の縁が濡れた。
「――スイさん」
「……起き、ましたか」
スイは頷いた。
声を出す前に、女将が彼の肩に手を置いた。
女将の指先は微かに震えていた。
「今日はあんたの目覚めを祈る祭りの準備の日です」
「……あんた達がこの村を助けてくれてから五日になります」
五日。
水打・無月を撃った日から五日、スイの意識は落ちていた。
「シアちゃんが、ずっと看てくれてました」
「あの子、この五日、宿の一階の寝台で寝てました。二階のあんたの様子を、階段の下から気配で聞いてたんです」
「深く寝ちゃうと、あんたの寝返り一つ聞き逃すからって」
スイはそれを聞いて、口の中で息を詰めた。
「ライさんは、外の魔獣を全部あの雷で片付けてから、あんたの部屋の廊下の椅子で三日、寝ないで座ってました」
「用心棒さんは、道化の男を縛った後、あの小屋の前で寝ずの番。夜の間ずっと」
「みんなであんたを看てたんです」
スイは頷いた。
声が出なかった。
女将は少し笑って続けた。
「傷の手当ての根源石、あれはライさんが提供してくれたんです」
「『昔、少しだけ蓄えがあってな』と、それだけ」
「小さい石でしたが、村の薬師の婆さんが大事に少しずつ使ってくれました」
スイはまた頷いた。
――ライ。
スイはあの男の素性を、まだ全部は聞かされていない。
――ありがとよ、と、後で言おう。
「あとは、貴方の体の元々の回復力ね」
女将はスイの顔を見て少し笑った。
広間の隅からパン屋の親父がスイに気付いて声を上げた。
「スイさん、目ぇ覚めたのか!」
その声で他の連中がばらばらと集まってきた。
八百屋の親父は両手にパンの籠を抱えたまま、スイの脇へ来た。
「――昨日、あんたが好きそうな豆を仕入れといたぞ」
「起きたら食えって、女将に言ってあった」
噴水の縁の老人の一人は杖を支えにスイの正面に立った。
老人はしばらくスイの顔をじっと見た。
やがて口を開いた。
「――婆さんが、あんたのことを毎晩祈ってた」
「あんたの目が開くまで、飯を1人分多く作ってな」
「一人分はあんたの分だ、って」
老人はそれだけ言ってスイの肩を一度叩いた。
叩いた掌は乾いて、皺だらけで、温かかった。
囃し方の子供たちはスイの脇に集まって、袖を引いた。
「スイお兄ちゃん! 俺、あんたが起きたら見せる、って決めてた技があるんだ!」
あの日用心棒に怒られていたあの子供だ
子供は両手を頭の上に上げてぐるぐる回した。
それが何の技かはスイには分からなかった。
だが子供の顔は笑っていた。
スイも少しだけ笑って頷いた。
その時、村の一人がスイの袖を静かに引いた。
初めて見る顔の、四十半ばの男だった。
顔に深い皺が三本。
目の縁が赤い。
「――スイさん」
「……その、ちょっと来て頂けますか」
男は名乗らなかった。
だがスイは、その男の目に、あの披露宴の外周の椅子に座っていた人達の中の一人と同じ光を見た。
連れて行かれたのは村の外れの石造りの小屋だった。
昔は倉庫として使われていた、と男は説明した。
今は村の集会の予備室として使われている。
中は薄暗く、窓は小さく、外からの光は細く一本だけ差し込んでいる。
その光の中にルークがいた。
紳士は床に座らされていた。
両手両足は頑丈な縄で縛られていた。
首にも金属の輪。
輪は壁の鎖に繋がれていた。
用心棒の傭兵時代の縛り方、その完成形。
紳士の頬のドーランは既に落ちていた。
素顔が剥き出しになっていた。
頬骨の高い細面の男。
年齢は四十半ば。
目尻の細い皺の内側には、まだあの青い炎が静かに燻っていた。
紳士はスイを見て口の端を僅かに動かした。
「……お目覚めですか、スイ様」
声は掠れていた。
だが口調はあの日と同じだった。
案内した男がスイの脇で静かに言った。
「……俺の女房が、あの披露宴で椅子の一番奥に座らされてました」
「俺はその隣で」
「俺は女房を助けられなかった」
「あんた達が来なかったら、みんなあの日死んでた」
男の目から涙が一筋、頬を伝った。
「俺はこの男を殺そうとしました」
「昨日、この小屋の縄を外から解いて、この男の首をここで絞めようとした」
「――でも、ライさんが止めました」
スイはライの姿を頭の中に描いた。
青い雷を操るあの男。
外の魔獣を全部片付けて、ヴェルナを軽くひねって、この五日、廊下の椅子で寝ずに三日座っていたあの男。
その男が、村人にルークを殺させなかった。
「ライさんはこう言いました」
「『この男をこの場で殺したら、あんたはこの男と同じになる』と」
「『あんたの女房は、笑って死ぬはずだったのを生きて助かった。生きた女房とこれからどれだけの時間を積み上げるかは、あんた次第だ。ここでこの男を殺すことに、あんたの残りの時間を使うな』と」
村人はそれを繰り返し頭の中で反芻した、という顔で話した。
「――俺、その言葉で手を止めました」
「『こいつは帝国のしかるべき場所へ送るべきだ』と、ライさんは続けました」
スイはライの言葉を反芻した。
「……帝国のしかるべき場所」
その言葉にスイは引っかかった。
帝都で大転移があった。
何万人もが消えた。
この人たちが知ってる人も建物もたぶんいくつも消えている。
帝国の管轄の監獄も、たぶん――。
スイは口を開きかけて、閉じた。
これを言ったら、この村の連中は、また眠れなくなる。
やっと息が抜けたばかりのこの村に、更なる不安の種を放り込むところだった。
――言うな。
スイは口を噤んだ。
小屋の入り口の陰から、声が返った。
「――大丈夫だ、我が弟」
ライが立っていた。
腕を組んで壁にもたれて。
スイが村人と話す間、ずっとそこにいたらしい。
スイの一瞬の詰まりを、ライは拾ってくれた。
「世界規模の監獄は帝都の中にはない」
「帝国の外の海底深くに建設されている」
「海底の岩盤の中に埋め込まれた要塞だ」
「地上の異変では揺らがん」
「そこに送れば、こいつは二度と外に出られん」
ライは村人の男の方を静かに見て続けた。
「安心しな。あんたの女房と、この村の連中の眠りは、俺が保証する」
村人の男はライの言葉に深く頷いた。
スイはライの横顔を少し見た。
この男は俺の一瞬の詰まりを見て、その中身まで察してくれた。
「…いろいろありがとな」
スイはルークに視線を戻した。
紳士はスイをじっと見ていた。
素顔の目尻の青い炎はまだ燻っていた。
だがあの披露宴の時の生き生きとした狂気は、今は静かに沈んでいた。
「――道化さん」
「あんたに言っておくことがある」
紳士は静かにスイを見上げた。
「あの日、俺はあんたの思想を否定した」
「他人の幸せの形を指先で決めるなと言った」
「今もその考えは変わらねえ」
紳士は口の端で少し笑った。
「――ええ、スイ様。私もあなたのお考えを覚えて御座います」
「ですが私は、考えを変える気は御座いません」
スイは頷いた。
驚きはなかった。
この男があの披露宴の後で易々と「はい、改めます」と言う男でないことは、あの目尻の青い炎がまだ燻っていることで既に分かっていた。
「――これは私が持って生まれた性で御座います」
「私という人間の根源で御座います」
「五歳の時両親を笑顔にした、あの瞬間から私の中に既にあったもので御座います」
「――私はこれを悪いとは思っておりません」
「この考えを悪だとも思っておりません」
「あなたが私の思想を否定なさる、それはあなたの自由で御座います」
「ですが私が私の思想を抱き続けることも、私の自由で御座います」
紳士はそこで静かに目を伏せた。
スイはしばらくその紳士の顔を見ていた。
――そうか。
スイの中で、一つの矛盾が静かに立ち上がった。
あの披露宴の終盤、彼はこう啖呵を切った。
俺の道は俺が決める。
俺の行動も考えも、誰にも決めさせない。
黒衣の男への返答として、彼はそう言った。
だが、彼はその同じ舞台の上で、目の前のこの男の思想を真っ向から否定した。
「他人の幸せの形を指先で決めるな」と、この男の思想の根に掌底を通した。
――俺は俺の在り方を誰にも決めさせないと言いながら。
この男の在り方は、否定した。
“矛盾している”
少なくとも字面の上では確かにそうだった。
だがスイは頷かなかった。
この男の思想は、他人の生涯をこの男の指先で締めきる。
放っておけば、この男はまた279人目を笑顔にする。
この男の在り方を俺が肯定するのは、その次の一人の生涯を俺が黙認するのと同じことだった。
だからスイは否定した。
矛盾していると承知の上で、それでも否定した。
――俺の在り方は誰にも決めさせねえ。
だがお前の在り方は、俺が否定する。
俺はその矛盾を、抱いて生きる。
抱いて生きる責任は、俺が自分で背負う。
「――道化さん」
「あんたが自分の思想を捨てないのは、あんたの自由だ」
「俺があんたの思想を否定するのも、俺の自由だ」
「――俺はその矛盾を抱いていく」
「だから、一つだけ頼む」
「――罪を、償ってくれ」
「あんたが殺した278人分」
「何十年でも何百年でも、その事実の重さを背負い続けてくれ」
「あんたが自分の思想を捨てないなら、それは仕方ねえ」
「だがあんたのやったことは、絶対に許されることじゃねえ」
「そのことだけは忘れるな」
紳士はしばらくスイを見ていた。
やがて掠れた声で笑った。
「……ふ、ふ、ふ……」
「……スイ様、あなたは本当に面白い方ですね」
「ご自身の矛盾を承知の上で、私を否定なさる」
「――承知致しました」
「私、あなたの言葉を忘れません」
「私の性が私の根源であるのと同じく」
「私が殺した278人分の重さも、私の根源に刻まれて御座います」
「――背負って逝きます、もし私が誰かに殺されるのならば、その時は貴方がいい」
スイは頷いた。
頷いて小屋を出た。
背中越しに紳士の掠れた笑いが、まだ聞こえていた。
小屋の外で、女房を助けられた男がスイに一枚の紙を差し出した。
「……スイさん」
「……その、これを見て頂きたいんです」
紙は教会の様式で刷られていた。
――曰く、人ならざる肉を持つ。
――曰く、人ならざる力を持つ。
――曰く、見つけたら近づくな。報せろ。
海を持つ国であれば、辺境の教会にも同じ紙が貼られている。
子供でも諳んじられるように書かれている。
――手配書。
スイは口の中でそれを噛んだ。
この紙を、彼は既に見ていた。
浜の村の教会の壁。
彼が物心つく前から、あそこに貼ってあったはずの一枚。
だが、彼が育つ頃には既にそれは破られていた。
村の全員が知っていた。
そして全員が忘れていた。
村のみんながあの紙を剥がして破って捨てた。
村の全員がそれを見なかったことにして、彼を育てた。
「三日前、教会から村の集会所に届きました」
「ほぼ全部の村と町に配られているそうです」
「人を食う種族とも噂される……海の民の事を書いてあります」
「この種族以外扱えないはずの水を扱うあんたのことが村中で噂になっていました、ですが」
男はその紙をスイの目の前で両手で掴んだ。
ビリ、と裂けた。
紙が二つになった。
二つの紙が更に四つに、八つに。
男はその紙片を、小屋の脇の風の吹く場所へ投げた。
紙片が風に乗って散っていった。
「私達が見たのは、水を扱う英雄です」
スイは、その言葉に少しだけ笑いそうになった。
――ああ。
スイの中で、あの浜の村と、今この朝霧村が、重なった。
海の民は世界にとって都合が悪い、と教会は書く。
だがその海の民を、目の前で命懸けで動く一人の人間として見た村人達は、教会の紙より目の前の一人を選ぶ。
浜の村がそうだった。
朝霧村もそうだった。
村というものは、そういうものだった。
――バルドさん。
スイは、口の中で、静かにその名前を呼んだ。
――今度は、ちゃんと守れたよ。
あの浜の村は、俺が世界を返すと言ったあの浜だった。
だが俺は結局、あの村を守れなかった。
バルドさんは村で凪を保ったまま動かなくなった。
村は、焼かれた。
俺は、あの浜で何一つ守れなかった。
だが、今日この村では。
女将の煮込みの湯気は、まだ立っている。
八百屋の親父の豆の籠は、まだ、ここにある。
囃し方の子供は、まだ技を練習している。
目の前のこの男の女房は、まだ生きている。
――バルドさん、今度は、ちゃんと守れたよ。
スイは、頷けなかった。
その代わりに、深く深く、頭を下げた。
夜。
村の広場では目覚めを祝う祭りが賑やかに始まっていた。
太鼓の音、笛の音、囃し方の子供たちの手拍子。
松明の光が広場の四方で揺れていた。
焼いた魚の匂い、煮込みの湯気、酒の香り。
全部が村の空気に混ざり合っていた。
村人達の顔は皆笑っていた。
数日前に道化の指先の五寸下で震えていた、あの顔と同じ顔とは思えないほど緩んでいた。
スイは広場の縁でその空気の中に立っていた。
その時、スイの手が静かに引かれた。
振り返るとシアが彼の手を握っていた。
少女はスイを真っ直ぐ見上げていた。
だが何も言わなかった。
ただスイの手を引いた。
スイは少女に連れられて広場を出た。
少女が向かった先は、村のすぐそこの高台だった。
斜面を少し登る。
頂上に平らな岩がある。
腰を下ろせる大きさの平らな岩。
少女はその岩の縁にスイを座らせた。
自分もスイの隣に座った。
膝を抱えず、地面に足を投げ出す座り方。
あの朝、川辺で初めて少女がスイの隣に座った時と同じ座り方。
高台の縁から朝霧村が見えた。
遠目に村の広場の松明が揺れていた。
松明の光の周りに村人達の影が動いていた。
囃子の音が風に乗って細く届いた。
子供の笑い声。
女たちの声。
老人の掠れた歌。
夜の空気の中で村の光は暖かい橙色に揺らめいていた。
空には細い月が出ていた。
星がいくつか瞬いていた。
彼が看病のお礼を伝えようと口を開くと同時
「――スイ」
少女が静かに口を開いた。
「今回のこと、ありがとう」
「村の人達、あんたのおかげでみんな助かった」
少女の声は、いつもの棘のある口調ではなかった。
静かで、少し震えていた。
「それと、あんたがちゃんと生きて勝ってくれたこと」
「……ほっとした」
「この前私、あんたに異常だって言ったでしょ」
「あんたの死を、あんた自身が数えてないって」
「あの言葉、あんたはちゃんと覚えてたみたいね」
「命を大事に、勝ち切ってくれた」
「……ありがとう」
少女はそこで少し口を噤んだ。
だが次の瞬間、いつもの棘のある口調が戻った。
「――でも、あんた無茶しすぎ」
「腕、二本とも動かなくなるとこだったし」
「体の中の全部を絞り切るとかありえない」
「五日も目覚まさないし」
「私、あんたがそのまま目覚まさないんじゃないかって本気で思ってたのよ」
少女はスイの顔を少し睨んだ。
だがその睨みには、いつもの棘の中に別の何かが混ざっていた。
スイは少女に掠れた声で返した。
「……悪ィ」
「悪いって思ってるなら、次からやめなさいよね」
「……努力する」
「努力じゃなくて、絶対って言いなさいよ」
スイはそれには答えなかった。
絶対とは、彼には言えなかった。
この先、またこういう場面が来る。
彼はまた、体の中の全部を絞り切る形で
勝ちに行くかもしれない。
それを、この少女に嘘をつく形で「絶対」と言うわけにはいかなかった。
少女もスイが答えないことに、何も言わなかった。
この少女はいつも、必要なところで必要なだけの言葉を置く。
それ以上は言わない。
あの朝、川辺で、彼女はそうだった。
今夜も、そうだった。
しばらく二人で、遠くの村の光を見ていた。
風が少女の白い髪を静かに揺らしていた。
少女は、遠くの村の光を見たまま、口を開いた。
「――素敵なものなんて、見なければ良かった……って、思う時はない?」
少女はそう問いかけた。
スイは、少女の言葉を少しの間噛み締めた。
いつもの棘のある口調ではなく、静かで細い問いかけ。
スイは少女の横顔を見た。
少女の視線はまだ、遠くを見ていた。
「――素敵なもんなんて、見るだけ得だろ」
少女はスイの答えを、しばらく聞いていた。
だが、視線はスイに戻らなかった。
少女の赤い眼は、遠くの夜の空の方を、まだ見ていた。
だが、その目は夜の空を見ていなかった。
ここではない、どこかを見ていた。
スイには、それがどこなのかは分からなかった。
この村の夜景の、遠くの村でもない。
この街道の先の、グリムの塔でもない。
もっと、遠いどこか。
少女の中の、どこか。
少女はそのどこかを見ながら、少しだけ笑った。
その笑いはいつもの棘のあるものではなかった。
静かで、少し寂しくて、それでいて優しい笑いだった。
「――二度と見れないかもしれないじゃない」
少女はそれだけ言った。
スイは少女の言葉に、返す言葉を持たなかった。
少女が何を意味してそれを言ったのか、スイには分からなかった。
だがその言葉の、静かな細い響きは
スイの中に静かに残った。
高台の風が少女の白い髪をまた揺らした。
遠くの村の光が静かに揺れていた。
――翌朝。
村の入り口で、スイ達は荷物をまとめていた。
スイ、シア、ライ。
三人分の旅装。
用心棒はスイの脇に立っていた。
彼はこの村の元々の用心棒。
スイ達が朝霧村に来た日、噴水の縁で子供に怒鳴っていた、あの男。
スイはあの日、彼を悪い奴だと思っていた。
酒臭くて機嫌の悪い男。
この村の悪い側の人間、だと。
だが違った。
あの日から一週間で
スイはこの男の背中を繰り返し見た。
この男は、この村を守る側の人間だった。
最初からそうだった。
スイは、そのことを彼にまだ伝えていなかった。
スイは用心棒の前に立った。
深く、頭を下げた。
「――あんたに、詫びなきゃならねえことがある」
「俺、この村に来た日、噴水の縁であんたが子供に怒鳴ってるのを見て」
「あんたを、悪い奴だと思っちまった」
「あの日から、ずっとあんたのこと、悪いふうに見てた」
「――違ってた」
「あんたは、この村を最初から守る側の人間だった」
「俺の目が、節穴だった」
「――悪かった」
用心棒は、しばらく、スイの下げた頭を、じっと見ていた。
やがて、掠れた低い声で、笑った。
「――ふ、ふ」
「気にすんな、坊主」
「あの日の俺は、酒臭くて、機嫌が悪くて、子供を怒鳴った、悪い男だった」
「お前の目は、節穴じゃねえ。ちゃんと見てた」
「お前の目が節穴だったんじゃなくて、あの日の俺が、本当にそういう男だったんだよ」
スイは、顔を上げた。
「――なあ、あんた」
「俺、あんたを見て、思い出した奴が一人いる」
「一緒に旅してた男でな」
「あんたと似た感じの掠れた声で、坊主、坊主って、俺のこと呼ぶ男だった」
「今、どこにいるかも、分からねえ」
「けど、また会えたらいいと思ってる」
用心棒はスイの目をじっと見た。
やがて、また少し笑った。
「――そうかい」
「――なら、その男にまた会えるといいな、坊主」
用心棒はそこで、続けた。
「あの道化を、あの海底の要塞に送るのは、俺が引き受ける」
「例の事件の話は聞いた、街道の北の次の宿場町から、なんとかして帝国の役人に繋ぎを取る。この村の連中の手をこれ以上あの男に触れさせねえ」
「それが終わったら、俺はこの村に戻る」
「この村の連中は、まだ、あの披露宴の夜の縁の中にいる」
「あんな夜の後、二週間や三週間で、村の空気は戻らねえ」
「その間、俺みたいな、多少は棒を振れる用心棒が、この村の門で、いてやったほうがいい」
彼はそこで少しだけ口の端を上げた。
スイは頷いた。
頷いてから、ふと気付いた。
――この人の名前を、俺は知らねえ。
この一週間、彼は宿の廊下で、道化の小屋の前で、村の連中の間で、ずっと動いていた。
スイはその背中を頼りにしていた。
だが名前を聞く機会が、なかった。
「――なあ、あんた」
「名前、聞いてもいいか」
用心棒は少し目を丸くした。
それから静かに笑った。
「――ああそういや、俺坊主に名乗ってなかったな」
「モルド、って言う」
「モルド・ハウザー」
「――覚えといてくれ、坊主」
「――モルド」
「覚えた」
モルドは頷いた。
頷いてから、村の入り口の内側へ、ゆっくり歩いていった。
背中は少しだけ丸くなっていた。
だが、その背中にはまだ、棒を振れる年寄りの確かな厚みがあった。
その時、旅の男が、スイ達の方へ、歩いてきた。
脛の傷は既に癒えていた。
旅装を整えて荷物を背負っていた。
「――あんたら、これから北だろ」
「俺も、しばらく、北の方に用があってな」
「途中まで、ついてっていいか」
スイは少し迷った。
ライを視線で呼んだ。
ライはスイの脇に来て少し身を屈めた。
二人は小声で囁いた。
「悪い奴には見えねえぞ」
「けど途中でグリムの塔に向かう。あの塔の位置をこいつに教えていいのか、多分秘密だろ」
「――塔の手前で別れると決めておけばいい」
「塔の位置までは教えねえ。街道の分岐で別れる」
「……そうだな」
スイは、旅の男に顔を戻した。
「――ああ、いいぜ」
「途中まで一緒に行こう」
旅の男は、頷いた。
村人達がスイ達を見送った。
女将、パン屋の親父、八百屋の親父、囃し方の子供たち、噴水の縁の老人たち。
女房を助けられた男も、その中にいた。
全員がスイ達に手を振っていた。
誰もスイのことを「海の民」とは呼ばなかった。
三人と一人は朝霧村を後にした。
街道は北へ向かって緩やかに伸びていた。
左右に林が広がっていた。
木々の葉が風に揺れていた。
街道の縁に、名も知らない黄色い花が点々と咲いていた。
四人は街道を歩いていた。
前をライ。
次にスイとシア。
最後尾に旅の男。
四人はグリムの塔へ向かっていた。
朝霧村から北へ三日、街道を進んだ先の丘の上に建つ塔。
この世界の記録を記す、数千年の歴史のある塔
虚空の姉のあの女が住んでいる塔。
その時。
スイの前を歩いていたライが、突然。
目を見開いた。
「――!」
ライが振り返りざま、スイの胸を両手で突き飛ばした。
スイの体は街道の縁の林の方へ、投げ出された。
――ヒュッ!
スイの肩の脇を、何かが掠めた。
風を切る音。
金属の光。
スイは林の縁で体を地面に投げ出した。
転がりながら振り返った。
スイの背中の後ろ。
街道の縁の木の幹に、細身のナイフが深く刺さっていた。
柄が微かに震えていた。
スイが突き飛ばされなければ、あのナイフは彼の心臓の位置を正確に貫いていた。
「――あ〜、外したぁ……」
のんびりとした声が、四人の中の一人から聞こえた。
スイは体を起こして振り返った。
旅の男が街道の真ん中に立っていた。
だが。
その姿が崩れ始めていた。
――ぐにゃ。
旅の男の輪郭が、水飴のように歪んだ。
顔の骨格が内側から変わっていく。
頬骨の位置。
顎の線。
鼻の高さ。
髪の色が茶色から艶やかな黒に変わった。
長さも旅の男の短髪から、肩に届く長さに伸びていった。
背丈が少し伸びた。
肩幅が少し細くなった。
旅装が内側から押し出される形で消えていった。
代わりに細身の貴族風の黒い外套が現れた。
銀の縁取り。
指先の白い手袋。
スイ達の目の前に、全く違う男が立っていた。
艶やかな黒髪。
整った細面の顔。
年齢は三十前後。
目の色は深い青。
男はスイ達を静かに見ていた。
その目にあの旅の男の庶民的な荒っぽさはなかった。
代わりに、丁寧で人当たりの良い青年の顔の裏側から、冷ややかな狂気が細く透けていた。
「あぁ――羨ましいな」
男は口の端で細く笑った。
「危機を回避できるなんて、ほんとに、運が良いんですね」
ライがスイの前に既に立っていた。
右の掌に雷の光が灯っていた。
「――テメェ、誰だ」
男はライの雷を静かに見た。
その目に恐怖はなかった。
興味と、少し遊びの色があった。
「――ああ、名乗るのが礼儀ですね」
男は静かにスイ達に頭を下げた。
「――初めまして、僕は」
「嫉妬七戒、ルキウス・フォン・ゼーレと申します」




