第54話 胡蝶の夢
第54話 胡蝶の夢
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
――また、この夢だ。
自分の、父の夢。
何千年前かもわからない、そんな夢。
僕はそう思った。
思ったのは僕だが、この体は僕のものではない。
夢の中で僕は誰かの中にいた。
少年の中。
背は低い。
脚は細い。
握った拳は小さい。
僕の本来の体ではない。
だがこの夢の間だけ僕はこの少年の視界を借りて、この少年の感覚を借りて、この少年として生きる。
胡蝶の夢。
昔の書物にあった話。
夢の中で蝶になった男が、目覚めた後に、自分が男なのか蝶が男の夢を見ているのか区別できなくなった、という話。
この夢が、それに近い。
少年は走っていた。
背後で家が焼けていた。
母の悲鳴が既に途切れていた。
父の声も、もう聞こえない。
妹の名前を、少年は何度も呼んだ。
返事はなかった。
少年の後ろから、それが追ってきていた。
黒い、大きな影。
輪郭が定まらない。
夜の闇とそれ自体の闇が混ざって、目でも捉えられない。
魔獣の群れ。
少年の脚は速くなかった。
昔から鈍臭かった。
剣も振るえない。
弓も引けない。
ただ逃げることしか、この少年にはできなかった。
――ああ、駄目だ。
少年の膝が笑った。
道の縁の草に躓いて、少年は前に倒れた。
顔が土に埋もれる。
口の中に、乾いた砂と涙の味。
背後の黒い影が、少年の頭上に迫った。
少年は目を閉じた。
「――まあ、待てよ」
のんびりとした声が少年の頭上から聞こえた。
次の瞬間。
空気が切れた。
背後の黒い影が内側から光った。
深い、黄金の光。
光が影の輪郭を内側から”粒子”に還した。
――サァァァ。
黒い影は粒子になった。
粒子は金の光の中で消し炭になった。
消し炭が夜の空気に散って、跡形もなく消えていった。
少年が顔を上げた。
目の前に一人の男が立っていた。
男の頭は、全体が黒い布で覆われていた。
顔は見えない。
上半身は裸だった。
肩と胸に細い刀傷の跡が幾つも。
古い戦の名残。
腰から下は黒い袴のような布を纏っていた。
脚の輪郭に沿って、ゆったりと垂れる長い布。
『YAMAMANI』
昔から、誰が書いたかも分からない古い書籍。
ボクの管轄外の書物。
どこの棚にも属さない、正体不明の一冊。
その中にこの男は出てきた。
頭を覆う黒い布。
上半身裸。
名前は――アマミ。
書物の中の登場人物が、少年の目の前に立っていた。
「怪我はないか」
男は少年に手を差し伸べた。
少年はその手を、震える指で握った。
男の掌は温かかった。
「バックアップ」
少年の身体から徐々に傷口が塞がっていく。
少年の目にまた涙が滲んだ。
「――お願いです」
「みんなを蘇らせてください」
「母さんも、父さんも、妹も」
「あなたのその力なら――できるんじゃないですか」
男は少年の頭を、静かに撫でた。
「俺は世界の理の外側の存在だ」
「かつては他者を蘇らせる力も持っていた」
「だが様々な世界を渡っていく中で、その力はいつの間にか失われた」
「――すまない、少年」
「今の俺には、お前の家族を戻してやることはできない」
少年は男の掌の温もりの中で静かに涙を落とした。
男はしばらく少年の頭を撫でていた。
やがて男は少年の目を真っ直ぐ見た。
「――だが、少年」
「いずれこの世界でも、こんな不思議な力が目覚めるかもしれない」
「その時、それを使いこなす者が出てくる」
「その者達がお前の代わりに、多くの命を守るかもしれない」
男は少年の肩に、静かに手を置いた。
「――俺はこの世界に長居できない」
「俺がいすぎると、この世界の均衡が俺の存在で崩れちまう」
「だから、頼みがある」
「――お前が俺の代わりに、この世界を観測して見守っていて欲しい、それが多くの人を救うことになるかもしれない」
男は腰の革袋から、透き通った青い玉を取り出した。
玉の内側で光が静かに脈打っていた。
――観測の魔眼。
「――この観測の魔眼は」
「その右目に置き換えていく」
男の指先が少年の右目にそっと触れた。
温かい。
次の瞬間。
少年の右目が内側から変わっていく感覚。
視界がぐるりと反転する。
世界の輪郭が、少しだけ鋭くなった。
男は静かに頷いた。
少年は男に、震える声で尋ねた。
「――さっきの、その粒にする力は」
「――何なんですか」
男は少年の目を静かに見返した。
布の目元の切れ目の奥で、光が微かに笑った。
「――アルケー」
男はそれだけ答えた。
男は腰の背後の細い袋から、一冊の本を取り出した。
黒い革表紙。
背に金の箔で、文字が入っていた。
――YAMAMANI。
男はその本を、少年の手に乗せた。
「これは俺が経験した…世界の記録だ」
「お前がいつか必要になった時に、開くといい」
男は少年の頭を、最後にもう一度撫でた。
「まだ数日は時間がある、話を聞いてくれるか」
まだこの記憶には続きがある、だが。
――そこで僕は目を開けた。
言の葉の塔の最上階の書庫。
円形の部屋。
壁一面の本棚。
中央の古い樫の卓。
卓の上に開かれた本が三冊。
脇の茶碗の湯気は既に細くなっていた。
窓辺の椅子にグリムは座っていた。
グリムは指先で目元を擦った。
「……ふう」
彼女は深く息を吐いた。
「この夢を見るのは何十年ぶりかな」
彼女は卓の脇に置いてある、黒い革表紙の本を静かに撫でた。
背に金の箔でYAMAMANIの文字。
「この本の始まりの、あの夢」
「――そしてこの夢を見る時は」
「――何か、世界が大きく動き始める時だ」
グリムの椅子が微かに鳴った。
彼女は振り返らずに、静かに口を開いた。
「――怠惰七戒」
グリムはゆっくり振り返った。
深い緑の瞳が七戒を静かに捉えた。
「――どうやってこの塔に入ったの、君」
───────────────────────
街道の東の荒野。
崩れた岩と乾いた土。
所々に、大転移の残骸が点在していた。
建物の壁の一部。
人が乗っていたであろう荷馬車の残骸。
用途の分からない金属の断片。
その中を、大きな箱型の馬車が進んでいた。
市王の商会の紋章。
馬車の後ろに荷車が何十台とある。
荷車には、大転移で放り出された人々が乗せられていた。
馬車の中に三人。
市王ルミエル。
グラン・ボルク。
リア・ルヴァン。
市王は箱の窓の縁に凭れて、扇を緩く揺らしていた。
グランは箱の中央の椅子に腰を下ろしていた。
リアはグランの向かいに座って、剣を膝の上に置いていた。
「――なあ、市王」
グランが口を開いた。
「あんた、さっきから、なんでアルケーを使わないんだ」
「あんたの回廊なら、これくらいの人数なら一瞬で拾って回れるだろ」
市王は扇の縁で口元を隠した。
「――使えないのよ」
「大転移の直後から、大陸規模で」
「別のアルケーによる妨害がかけられているの」
「あたしの回廊も、他の転移系のアルケーも」
「今、まともに動かないわ」
「――誰の仕業だ」
「――さあねえ」
「あたしの勘だと教皇周りだけど、証拠はないわ」
市王は扇を閉じて、グランの目をじっと見た。
「――ところで、坊や」
「あたし、あなたのこと調べたわよ」
グランの目が少し鋭くなった。
「……まじか」
「あなた、自分のこと殺し屋って名乗ってたわよね」
「でも、あなたが実際に暗殺の任務で動いたことは」
「――1度もないのね」
「あなたが動いてたのは戦場」
「暴れる兵として」
「――なんで殺し屋なんて名乗るの?」
馬車の中に静寂が落ちた。
グランはしばらく、床の一点を見ていた。
やがて彼は目を少し伏せた。
「――獣王の国は」
「近隣の弱小な村や国を、戦争で取り込んで勢力を拡大していた」
「いずれ帝国にも牙を向くつもりだった」
「俺はその戦場で暴れる兵だった」
「たくさんの命を奪った」
「――戦争だったから仕方のないことだった」
「――そう、周りは言った」
「奪った命の数を褒賞に換えて、俺に金や地位を渡そうとした」
「――俺はそれが嫌だった」
「俺が殺したあいつら」
「あいつらにも家族がいた」
「兄弟がいた」
「帰りを待つ人がいたかもしれない」
「――戦争っていう免罪符をつけて」
「自分自身の人殺しを正当化する」
「そんなつもりは俺にはなかった」
「一人を殺してしまった、その時点で」
「俺はただの人殺しだ」
「――薄汚れた殺し屋だ」
馬車の中にまた静寂が落ちた。
リアが少し顔を上げた。
彼女はグランの顔をじっと見た。
驚きの色がその顔に微かにあった。
やがてリアの口の端が、ほんの少し上がった。
市王が扇を開き直した。
「――やっぱり良いわ」
「あなた」
「――あたしが導いてあげる」
その時。
馬車の後ろの荷車から声が聞こえた。
助けた人々の中の一人。
「――市王様!」
「聞いてください!」
馬車が止まった。
市王は扇を閉じた。
箱の扉を開けて、外に出た。
荷車の縁に若い女が座っていた。
顔に疲労の色が濃くあった。
「――私達が飛ばされた先で」
「軍に襲われました」
「多くの人が攫われました」
「私は運良く逃げられました」
「でも、他の人達は、みんな」
「――どこの軍だったの?」
若い女は震える指で、地面に絵を描いた。
紋章。
牙を剥いた獣の頭。
「……!!」
「――獣王の国」
グランの脳裏で線が繋がった。
獣王は既に死んでいる。
スイがあの闇市で沈めた。
なのに獣王の国が動いている。
大転移で弱った帝国の、飛ばされた人々を片っ端から捕らえている。
――狙いは明らか。
弱りきった帝国を叩いて占領するつもりだった。
その準備として、まず転移した人々を集めて、捕虜にする。
安易に攻撃ができないようにするつもりだ。
獣王の後を継いだ者。
誰かが、あの国の玉座に座っている。
グランの脳裏に、あの名前が過ぎった。
その中の、一つ。
――まさか。
彼は若い女に、静かに尋ねた。
「――なあ姉ちゃん」
「その軍の兵が何か」
「トップの名前を口走ってなかったか?」
若い女はしばらく考えた。
やがて口を開いた。
「――言ってました」
「『ヴィス・ノーレン様のご命令だ』と」
グランの目が見開かれ、
市王の扇が、微かに揺れた。
───────────────────────
――場面は変わる。
獣王の国、王城。
石造りの、無骨な城。
獣を模した、粗い装飾。
王座の間の天井は高い。
王座に、一人の男が腰を下ろしていた。
ヴィス・ノーレン。
元・獣王の側近。
現・獣王の国の新たな王。
王座の前の広間に、家臣達が控えていた。
だが家臣達の顔には明らかな不服があった。
この国は獣王の国。
獣王が、その玉座に座ってきた国。
その玉座に、獣王ですらない男が座っている。
一部では奴が王を殺したと噂になっていた。
国民の反発は既に猛烈に始まっていた。
王城の外では連日、抗議の声が上がっていた。
女達が王城の門前で、王をやめろと叫んだ。
男達が、獣王のお飾り風情が国王を名乗るなと罵った。
老人達が、獣王の復権を要求した。
だがヴィスはそれを気にしていなかった。
彼は王座で笑みを浮かべていた。
国民の抗議の声を、遠くの音として聞き流していた。
王座の脇の家臣に、彼は命令した。
「――帝国から飛ばされてきた者達を」
「片っ端から捕らえましょう、今こそ帝国を叩く時です」
家臣は頭を下げて退出した。
王座の脇から、ヴィスは王城の門前を細く開いた窓越しに見た。
抗議の群衆の中心には、三十半ばで筋骨たくましく、声の大きい一人の男が立っていた。
群衆の先頭で拳を振り上げ、獣王を返せと叫ぶこの運動の中心人物を、ヴィスはじっと見据えた。
「――ふふ」
――その夜。
城下町の外れにある、その男の木造の質素な家が突然炎に包まれた。
火の手が屋根から吹き上げ、近隣の住民が駆けつける。
「――母が! 家の中にまだ母がいる!」
絶叫して飛び込もうとする男を、周囲の国民が必死に押さえ込んだ。
「あの炎じゃもう駄目だ! お前まで死ぬぞ!」
と制止され、男は涙を流しながら喉を裂くような声を上げて暴れた。
その時、背後から静かな声が聞こえた。
「――お母さんを、助けてあげましょうか?」
さっきまで暴れている自分を止めていたはずの人が消えていた。
振り返ると、今の王が、ヴィスが立っていた。
獣王から玉座を奪った憎むべき相手。
だが今この瞬間、その声だけが母を救える唯一の縋る先だった。
「――ヴィス……様、お願いします。母を助けてください!」
男は地面に膝をつき、両手を押しつけた。
ヴィスは静かに頷いた。
「――ええ、助けて差し上げましょう」
――数分後。
炎の消えた家に男が駆け込むと、部屋の床には真っ黒に焼け焦げた遺体と、母が生涯身に着けていた翡翠の首飾りが落ちていた。
男は崩れ落ち、頭を抱えて慟哭した。
「――母さん! 母さん!」
すると背後から「――ああ、ここにいるよ」と掠れた声がした。
そこに目線を向けると少しの火傷を負ったほぼ無傷の母が立っていた。
男は母に飛びついて抱きしめ、喉が裂けるほど泣いた。
そして、男はその瞬間から変わった。
「あの方が助けてくださったんだ……」
翌日、彼は王城の門前で拳を下ろし、ヴィスの素晴らしさを語り始めた。
「ヴィス様は俺の母を救ってくださった! 俺は間違っていた!」
と叫ぶ中心人物の姿に群衆の声は揺らぎ、
数日後、抗議運動は静かに終わりを迎えた。
「――やはり人間という存在は、深い絶望の後に急激な安堵を与えられると、精神がぐちゃぐちゃになる。『大切な物』という重物質を天秤にかけられると、そちら側に傾かない生物はいません」
ヴィスは、隣の男に視線を向けた。
「――さて。あなたを含めて、なかなか戦力が集まってきましたね」
男が静かに頭を下げる中、ヴィスの細い目は窓の外に広がる獣王の国の夜空を見つめていた。




