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第53話 泣かせる

第53話 泣かせる

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】


ぱち、と鳴った。その音が始まりの合図だった。


外周の椅子の縁 村人達の頭上に乳白色の輪郭が湧いた。 全員分。小さな道化。頭にシルクハット。 指先が細く尖って、それぞれの首筋を狙う。 シアの後ろにも一体。


「――披露宴の、第ニ幕で御座います」


「私が指を鳴らせば、皆様順に、笑顔で御座います」


村人達の息が止まった。 女将の指先が椅子の縁で震え 八百屋の親父が息を呑み 囃し方の子供が泣き出しかけた。 全員の顔に恐怖が張り付いていた。


俺の右腕は肉が抉れ、左太腿は裂けている。 呼吸は浅い。


この状態の男に「勝つ」と言われて信じられる者は、少ないだろう。だが言うしかなかった。


「――大丈夫だ」


「俺が勝つ。あんたら全員救う」


スイの懸念通り村人達の恐怖は消えなかった。 目の焦点が定まらず 俺の言葉が右から左に流れていく。


当然だった。俺の血の匂いが、俺の言葉より、遥かに濃く、この天幕の空気に立っていた。


だが、一人だけ、違った。


白髪の少女は椅子の縁で 自分の後ろの道化の指先を視界の端に置いたまま 真っ直ぐ、俺を見ていた。


その目に、恐怖はなかった。 自分の首筋の五寸上に、乳白色の刃が置かれている。それを知っている。分かっている。


それでもその目には 自分の命への恐怖がなかった。 ただ真っ直ぐ、俺を見ていた。


勝つ。その目が、そう確信しているように見えた。


俺が勝つことを、疑っていない。


俺のこの、抉れた腕と裂けた腿を見ていながら。


乱れた呼吸と、後わずかな水の残量を見ておりながら


俺とは1週間ほどしか共にしていないはずのこの少女は その確信を崩さなかった


その目を見た瞬間 俺の頭の中に あの朝の水辺で交わした言葉が浮かんだ。


少女が、俺の顔の縁に置いた言葉。 あの朝、川の縁で、俺の異常を指摘した、あの声。


――お前も人のこと、言えねえじゃねえか。


こんなボロボロだってのに 思わず、いつもみてえに笑いそうになる


俺はすぐさま視線を紳士に戻した。 この一戦、勝つ。 この一戦以外の道が、俺と少女の間に そして村の人達に残っていない。


地面を蹴った。 脚の裏に反発。爆発を受けた右腕が脇で揺れる。 動かすたびに骨が軋む。 左手は軽傷。 掌の内側で水が呼吸をしていた。


距離、四歩。


紳士の指先が空を切る しゅ、と一筆。


それだけの動作で舞台の四方に乳白色の輪郭が湧いた。絵が輪郭を持ち、輪郭が形を持ち、形が命を持つ。


道化の分身が四体。 四体が同時に舞台を蹴る。


首、両脇、背中。四方から刃。


――ならば、と俺は左手を上げた。


掌から水を絞る。糸の形になる様密度を上げる。 鋼の硬さ。水のロープ。


空を切る音。円を描いて四体の首を薙ぐ。 乳白色の胴が宙で崩れた。


だが、崩れた粉が床に落ちる前にまた輪郭を持ち直した。


絵は絵だ。描き手が描き直せば、無限に立ち上がる。紳士本体を止める。それだけが答え。


二歩目。道化の一体が脇腹に刃。 左手のロープを解いて、掌の水を薄く一枚、脇腹の外に置く。


触れて散らす。また粉になる。


紳士の指が描くのは二筆。黒。 両膝を絡めに来る鞭。膝を止めれば突進が終わる


そう思い俺は右腕を動かした。


ズキンッ、と骨の芯が鳴る。 水の弾丸、二発。この程度の攻撃でも 腕が悲鳴を上げているのがわかる


鞭の中央。黒が途切れる。 右腕が更に軋んだ。 何発残っているかはもう数えなかった。


数えても意味がない。撃つたびに骨が削れる。それだけ分かっていれば十分だった。


三歩目。紳士の目の前。 紳士は今度はと一筆。金色の盾。


俺の掌底を待ち受ける形。 撃ち抜く、と俺は右腕に力を込め一発。


盾の芯が割れる。割れた盾の裂け目、紳士の腹が見えた。俺の左手が既にそこにあった。


─水打、掌底。


掌の内側で凝縮。掌底の圧に変える。加減、なし。


腹の中央。内臓の位置。 紳士はそこにすかさず小さな盾をさらに描く


だが俺の拳は


─そんなんじゃ止まらねえ


狙いを定めてドッ、とめり込む。 振動が抜ける。皮膚も筋肉も素通し。 内臓に直接。紳士の腹が内側で震える。 胃と肝臓と腸を一斉に叩く。


紳士の口から血、白いドーランに赤の斑点。


紳士の頬の笑みが崩れた。口の端の縁が下に垂れる。頬がひび割れる。


だが、目元だけは、崩れない。


目尻の細い皺の内側の青い炎。 あの狂気の芯は、動かない。


「――口が笑ってねぇぞ! 道化師!」


煽る、余裕は無い だがそうでもして動揺を誘わないと 奴に決定打を撃ち込む術は無い


「……ふ、ふふ……いいえ、スイ様。私は笑って御座います」


紳士は腹の痛みを抑え、逆流する血を飲み込みながら 笑顔で腕を動かす


紳士の指が動いた。速い。


最初の一筆より、明らかに速い。 こいつ上手くなってやがる、と俺は気付いた。


この狂気の男の才能が、今、俺との一戦の中で 更に、伸びている。一手ごとに指の速度が上がり


線の精度が上がり、細工が複雑になっていく。 この男は俺と戦うことで 絵描きとして戦闘者として更に、進化している。


俺の一撃を受けたことすら、この男の絵の肥やしになっていた。とことんムカつく


紳士の指が宙に大きく円を描いた。


直径五歩、真っ黒。


円の縁から無数の細い線が蜘蛛の巣のように内側に伸びる。爆ぜる合図の細工が幾重にも重ねられていく。


「――閉じ込めます」


円が俺の頭上に覆いかぶさった。 ゴォッっと重い音。半球が俺を小さな舞台に包む。


俺だけをその内側に閉じ込める。紳士は半球の外。 半球の内側全部が赤く光った。


──爆発する、直感でそれを理解した


「――爆ぜろ」


どこにも逃げ場がない。半球の縁を割る時間もなく、外に抜ける時間もない。


俺の周囲、全方位、爆弾の細工。同時に爆ぜる。 これを食らえば間違いなく死ぬ


ラグナロクにも出れず、仇も取れず、仲間とも再開できぬまま、俺は死ぬ


それだけは阻止する、全霊を込めた俺は左手を掲げた。


水無月の圧縮率を掌の上ではなく自分の周囲に展開する。


左手から水を湧かせて、半径半歩の球状に 極限まで圧縮した水の膜を張った。


掌の上に集約するべき圧を、体の周囲の膜に、転用する。


――ドォオオンッ!!


半球の内側で爆弾が一斉に爆ぜた。 俺の周囲の水の膜が爆風を内側で受け止める。 極限の圧縮の膜が、爆風の圧を内側で相殺する。


…だが、完全には防ぎきれない。膜が内側から震え、俺の体に衝撃が抜けた


振動が体を突き抜ける。既に抉れていた右腕に 直接、衝撃が届いた。


骨が軋み切った。バキ、と鈍い音。 右腕の感覚が消えた。指先が痺れ、腕が脇に垂れ下がる。動かない。


水の器としても機能しない。


根源力の残量も大きく削れた。 膜を組んだ分の圧を、体の残量から絞り出した。


呼吸が更に浅くなる。視界の端が真っ黒。頭の奥の圧が重い。


水無月は出せてあと一回か


半球が破裂した。黒い破片が四方に散り、膜も同時に崩れて水になって床に落ちた。


俺は立っていた。左手一本。軽傷だった左腕も 粒の維持で削れていた。


紳士は半球の外に立っていた。距離は五歩。 普段なら大した距離じゃ無い、一足で届く


だがこの男の前では、それが死因となりうる


「……ふふ、生きておられますか。初めての技でしたが、腕は削れましたね」


内側がめちゃくちゃな筈の男はそれでも 笑顔を維持する


互いにボロボロだった。 紳士の頬は割れ、口の端は垂れ 腹には俺の水打の跡。


俺は右腕が死に、左太腿が裂け、右腰の傷から血を垂らし、呼吸は既にほとんどしていない。


やはり紳士の目元の笑みは、動かない。 あの狂気の芯だけは、この男の腹に何度水打をぶち込んでも消えなかった。


紳士は、指先を静かに見た。


「……遠距離の私の絵は、そろそろ、あなたの水に、通じなくなって御座います」


「あなたの体は、私が想像していたより…いや遥かに、頑丈で御座います。歴史から消えた筈の海の民と伺いました。ならば――」


「確実に首を刎ね、心臓を貫かせて頂きます。 その後、笑顔にして差し上げます」


「――なんと過酷な一幕でしょう。ですがこれにて、フィナーレ、終幕で御座います」


紳士の指が内側から赤く滲んだ。 滲んだ赤が指の先を細く尖らせる。


金属の光。近接戦と俺は理解した。


絵で削り合う戦いから、直接、指の刃で殺し合う戦いへ。


紳士が地面を蹴った。 速い。5歩しかなかった距離がさらに縮まる


指の刃が俺の首の脈を狙って真っ直ぐ来る。 左手で掌の水を薄く一枚、首の外に置いた。シャッ、と粉になる。


─そう思った


だが紳士の指はそこで止まらない。赤は止まらず 俺の胸。体を斜めに開いた。刃が胸の外套を裂いた。 皮膚まで届かない。三度目、腹。左手で受けた。


水を薄く一枚散らす。だが勢いを殺し切れない。 刃が皮膚を裂いた。血が飛ぶ。


俺と紳士は、二歩の距離で向かい合っていた。


互いに、足を引きずっていた。


紳士は腹に水打を受けた影響で右足に体重を乗せられない。


俺は左太腿が裂けて左足に体重を乗せられない。互いに片足で立って、向かい合っていた。


舞台の上に静寂が落ちた。


「……スイ様。あなたを笑顔で逝かせて差し上げます。あなたの生涯を、笑顔で締めきります」


「そうしなくては不幸だ――それが、私からの、贈り物で御座います」


その言葉を、聞いた瞬間。


バルドさんの顔が、過った。


燃えていた村のあの丸太で 風を止めたまま動かなくなっていた、あの背中。


あの顔は笑っていなかった。


目は既に閉じかけていて、口の端は静かに引き結ばれていて、安心した様な顔で頬の皺がいつもの煙管をふかす時の位置で、そのまま止まっていた。


あれがあの人の、最期の顔だった。


――やっぱりコイツの事は理解できねえ。


俺の心の中で、それが鳴った。


最期の顔が”笑顔”じゃなかったからと言って。


その人が、生きた時間…その全てを否定なんて。


――絶対にさせねえ。


止める。この場で 瞳に海の色が濃く宿る 身体中が寒く、そして熱い


1分、いやその半分も時間はない そして決定打を打ち込めるのは一度だけ


──故に


───この戦いは、次の一手で決着となる


水無月は組めない。 右腕は死んだ。両腕から水を集められない。 根源力の残量も限界。 組めても、この男の芯には届かない。 水打の掌底も、既に一撃腹に届けた。


同じ技で、もう一撃、届くか。 届いても、外側の一撃では


─この男の目の奥の炎を、消せない。


違う、と俺は頭の中で言った。


さっき、俺はそれをやった。


半球の中で、水無月の圧縮率で膜を張った。


掌の上に集約しない形で 水無月の出力を、別の形に転用した。あの応用。


水無月の”内側で解放される”性質 水打の”内側に届く”性質。


二つを、掌の上で重ねる。 水打の掌底で内側に届ける。 届いた瞬間、掌の上の圧縮が 相手の内側で解放される。


左手一本でも組める。単独の水無月として撃つのではない。


水打の掌底に、圧縮を乗せる。 今可能な限りの、全ての力を


届く場所が外側ではなく、内側。


届いた場所で、圧が解放される。 一撃目の反応から察するに


――これなら届く。


――奥義。


『水打・無月』


名前は心中で勝手に決まった。


組めば、意識の残量はゼロになる。 撃った瞬間、意識は落ちる。


だが、この男の芯を止めるには、この形しかない。


視界の端で、シアがまだ真っ直ぐ俺を見ていた。


生きて勝ち切る、と俺は自分に言った。


命を大事にする。組んだ瞬間、意識が落ちるとしても、体はまだ立っている。


俺が立っていれば、この一撃は届く。


命を大事にしながら、生への執着を捨て 後先の全てを考えない この矛盾の中、この一撃を撃ち込まなければ


眼前の邪悪な表情には、勝てない


静寂の中で、俺と紳士は互いに 片足で向かい合っていた。


紳士の指の刃が静かに光っていた。 俺の左手の掌の内側で、水が静かに震え始めていた。


先に動いたのは、紳士だった。


紳士が片足で舞台の板を蹴った。速い。 指の刃、俺の首の脈。俺は体を斜めに開いた。


刃が耳の脇を掠める。俺も片足で板を蹴った。


左手を紳士の胸に向ける。紳士は片足で軸を回した。


ニ度目の刃、俺の心臓。左手で掌の水を薄く一枚 胸の外に置く。その色は粉になる。


だが紳士の指はそこで止まらない。三度目、俺の喉。


俺は左手を掲げて水打の凝縮を始めた。


同時に、掌の上で水を細かく散らして粒にし、極限まで圧縮する。


水打と水無月の圧縮、同時に掌の上で。 紳士の指の刃が俺の喉の寸前 俺の左手が紳士の胸の目の前


距離、一歩。


――!


声にも出せないその衝動のまま 本能で俺は片足の踵で板を蹴った。


海の民の脚の、残り全部。


命をフル稼働させ、首の位置をズラす それでもなお紳士の指の刃が俺の喉を薄く切り裂く


だがそれと同時


──俺の左手が、紳士の胸に、届いた。


水打・無月。


俺の掌底が紳士の胸の中央に当たった。


ドンッ!!っと水打の振動が胸の内側に抜ける。


皮膚も肋骨も素通し。心臓の位置に直接。 抜けた振動と同時に、掌の上で圧縮していた水が


紳士の胸の内側で解放された。


――ドドドドドッ!!!


紳士の胸の内側で水が極限の圧から一気に解放された。肋骨を内側から押し広げる。 押し広げた水の衝撃が胸の外側の骨と筋肉を内側から叩く。


紳士の体が一瞬内側から膨らんだ。 ブォッと口から血が噴いた。噴水のような太い赤。


胸のドーランが完全に割れ、胸骨が内側から押されて輪郭が歪んだ。


紳士の指の刃も俺の喉を通り過ぎ粉になった。


紳士の体が後ろに崩れた。 ドサッ、と舞台の板の上に仰向けに倒れた。


目元の笑みは、やはり崩れなかった。 仰向けに倒れた紳士の顔。


頬が歪み、身体が膨らみ、口から血を噴いた その顔の、目尻の細い皺の内側の青い炎。


あの狂気の芯だけは、動かせなかった。


紳士は笑ったまま、倒れていた。


「……ふ、ふ、ふ……見事、で御座います、スイ様……」


紳士が倒れた瞬間、外周の椅子の縁の乳白色の道化達が一斉に粉になって落ちた。


村人達の、シアの首筋から道化の輪郭が消えた


俺は立っていた。左手を下ろした。 視界は白く、脳が点滅する


爆発を受けた右腕は脇に垂れ下がったまま。 呼吸は既にほとんどしていない。 白い視界の端は真っ黒だった。


頭の奥の圧が重かった。だが、立っていた。


少女は椅子の縁の 自分を縛っていた縄を外そうとしていた。 だが片手では解けない。両手を縛られた状態のまま。俺は左手を上げた。掌の内側に最後の水を絞り出す。細い糸に。密度を上げる。刃の硬さに。小さな水の刃を、シアの縄に向けて放った。


シャッ、とシアの両手の縄が切れた。


少女は椅子から立ち上がって、俺の方へ、駆け寄ってきた。


「――スイ!」


少女が俺の肩を両手で支えた。俺は掠れた声で言った。


「……シア……あいつを、縛っといて、くれ……」


少女の目が俺を真っ直ぐ見た。


「わかった。今はもうゆっくり眠ってて。 絶対に死なせないから」


少女の指先が俺の頬に触れた。 この状況下でも体温は感じる


温かい。膝が崩れた。


舞台の板の上に片膝が落ちた。 右腕が脇に垂れ下がったまま動かない。 左手が床の縁を掴んだ。


視界の真っ黒な部分が大きくなった。 遠くからあの兄を名乗る男の声が薄く聞こえ始めた


だが視界に残った鮮明な部分は シアの白髪と赤い眼だけ。 その白と赤が少しずつ遠くなっていく。


――……勝った。


俺の意識は、そこで、途切れた。

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