第49話 万雷
第49話 万雷
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
男の背後の斜面から魔獣の群れが雪崩を打った。
全部で百五十体ほど。魔獣は自分より強い魔族に付き従う習性がある。この群れもヴェルナに引き連れられて北から南下してきた口だった。
「――さて。前置きも兼ねてご説明しますね」
男は帽子を胸に当てたまま微笑んだ。歩調は乱れず群れの雪崩を背にしてこちらへ歩いてきた。
「私のこれは泥の無常と申します。私の体からこの、泥のようなものが」
男は片手を掲げた。掲げた掌の内側から黒く粘るものがぬるり、と染み出した。染み出した泥は掌の縁を伝って街道の乾いた土の上に垂れた。
「――出ます。この泥は私の意のままに動きます。掴む、包む、押し潰す、遮る。……なかなか便利なものでして」
「魔族の無常というのは一つひとつに癖がありましてね。私のこれは大した派手さもございませんが、しつこさだけはそこそこ――」
スイの掌の水が微かに揺らいだ。
ヴェルナの体の芯から漏れる根源力の総量が話し始めた時より膨らんでいた。じわり、ではなく階段を一段ずつ上がるように、はっきりと。
――こいつ、喋りながら強くなってやがる。
塔でグリムから聞いた世誓の話が浮かんだ。言葉にすることが縛りとなり、縛りの引き換えに世界が力を貸す。この魔族は喋ることそのものを世誓にしていた。
喋らせるな。
スイは口を開いた。喋らせるな、と言いかけた。
その言葉を遮った動きがある。
ヴェルナの腹に掌が刺さっていた。
――え。
スイの脳が事象を捉えるのに遅れた。
ライがそこにいた。三十歩の距離を一足で詰めた。詰めた次の瞬間に掌底の一撃をヴェルナの腹の中央に深くめり込ませた。
ヴェルナの背後の空気が掌の突き抜ける勢いで一瞬、真空になった。真空が音を立てて閉じた。ばん、と乾いた破裂音。
「――!?ごばぁッ‼️」
男が身悶えた。掌底の圧が腹の内側で暴れていた。押さえた指の隙間から泥が細く漏れた。無常の泥が傷を埋めようとして、しかし衝撃で泥自体が散っていた。
男は膝から地面に落ちた。落ちた膝を支える腕が震えていた。
「――前置きは済んだか、魔族さん」
声はヴェルナの耳の真横で聞こえた。
「――」
スイは息を呑んだ。
だが群れの雪崩が既に街道の先頭へ届いていた。止まってはいられない。
スイは右手を軽く振った。掌の内側から水の弾丸が四つ、群れの先頭の魔獣の眉間へ順に撃ち出された。剣王との試験で使った”水で軌道を少しずらす”型の応用。小さく、速く、頭一つ一つを潰す。
魔獣が四体、地面に伏せた。
「――坊主、一気に来るぞ!」
「分かってる!」
スイは動きながら思考した。
――ライ、あんな速度、持ってやがったのか。
三日、共に街道を歩いた。ヴェルナと出会う前にライは「腕は俺のほうが上だ」とは言わなかった。「無理筋じゃねえ」と言った。獣王を落としたスイと二人でならと言った。スイはそれを対等な戦力の話として受け取っていた。
――違う。あれは加減した上での対等だった。
スイは水の弾丸を続けて六発、群れへ撃ち込んだ。魔獣が更に六体、伏せた。
――そういやレンも。
帝都の館の下、レンがスイの喉に刃を伸ばした朝。あの静かな顔で刃を伸ばしたレンも、加減の中にいたのだった。連れて帰るのが職務だったから、殺す気の一手は、そもそも出していなかった。
あの強さで、加減。
スイは水打の掌底で、迫った魔獣の一体の顎を、真下から真上へ打ち抜いた。掌底の内側で水が凝縮し、当たった瞬間に破裂した。魔獣の頭が上向きに砕けた。
「――何だ、貴様……」
ヴェルナが腹を掌で押さえて後ろへ二歩、跳んだ。跳んだ先で体から泥をぶわ、と吹き出させた。吹き出した泥が彼の周囲を防壁のように囲んだ。
「魔獣の群れの間をあの速度で抜けた……。人間の腕では、無い」
「――」
「十王の、誰かか」
「ブラッド」
男はそれだけ言った。
用心棒の棍棒を握る手が微かに止まった。
「――特務機関、ブラッド、だと」
男の声が震えた。
「傭兵の頭を張ってた頃に噂だけは聞いてた。十王でもあまり戦いたくねえ、って言われる、あの、ブラッドか」
「そうだ、俺はブラッドの五席、ライ・マックスだ」
男は指の関節を鳴らした。
「席次は強さの順じゃねえ。強さで並べるようなもんじゃねえよ、うちは」
「だがな、いっとくがな、魔族さん。俺以外の四人にも、俺と同じか、それ以上の腕はある」
ヴェルナが動いた。
両手から大量の泥を放射状に放った。泥は無数の触手のようにライの周囲を包囲した。
「――絡め取れ!」
ライの姿が消えた。
次の瞬間、ヴェルナの脇腹に掌底が刺さっていた。
――秘技、雷掌。
ヴェルナが苦しみながらその方角を見た時、もうすでにライの姿は雷の残穢となって消えている。
ヴェルナが吹き飛ぶ。吹き飛んだ先にライは既にいた。ヴェルナは迎撃を加えようと泥をものすごい勢いで突き刺すように飛ばす。
――秘技、雷脚。
だがそれら空を切り、顎の下から蹴りが真上へ抜けた。ヴェルナの体が梢の三倍の高さまで跳ねた。
空中でヴェルナが体を捻る。泥を反動に軌道を変え、街道の反対側の斜面へ落下した。落下した先の泥の中から身を起こす。口の端が歪んでいた。
「……速い」
「速すぎる。雷の渦として発動していない。常時、体の内側で雷を回している」
「体の芯に雷の循環を常時走らせている。……そういう戦い方、私、八十年生きてきて初めて見た」
ライは既にヴェルナの斜面の下に立っていた。三十歩の距離を一瞬で詰めていた。
ヴェルナは反射で両手から泥の壁を正面に張った。壁が張られた瞬間、ライの拳が壁の下端から下から上へ突き上げた。
――秘技、雷穿。
拳が泥の壁を貫通した。貫通した拳の先で雷が螺旋を描き、ヴェルナの顎の下から頭の上まで突き抜ける寸前。ヴェルナは体を真横にずらした。ずらせた分だけ雷は彼の左頬を掠めた。左頬の皮膚が焦げて細く剥がれた。
「――ッ」
男は後ろへ跳んだ。跳んだ先で泥の壁を四方向へ同時に張った。四つの壁の内側で息を整えた。
整えた次の瞬間、四つの壁が内側から崩れた。
崩したのはライの掌だった。壁が張られたその一拍の間に、ライは四つの壁の継ぎ目に雷を四点、同時に置いていた。置かれた雷が内側から壁の継ぎ目を砕いた。
壁の破片がヴェルナの体を内側から削った。
「――ぐ、ッ」
男は両膝を地面についた。
スイは水打の膜で街道の脇を横に滑走しながら、群れの後方の魔獣の胴に、水の弾丸を撃ち込んでいた。
滑走の型が、以前より鋭くなっていた。
――水脚。
あの日、ライと手合わせした時にライの雷脚を見て、その場で真似た型。あの日はそれが対等な即興として機能したとスイは思っていた。
だが、今、思う。
――あの時ライが本気だったら。
水脚は脚に水を纏わせて蹴りの威力を上げる型。だが水は雷と違って脚の筋肉と一体化しない。脚の外側に水の膜を張っているに過ぎない。ライが本気で雷脚を放てば、水の膜の外側から水ごと、脚の骨まで雷が抜ける。
スイの水脚はあの日、未完成のまま対等に見えた。対等に見えたのはライが加減していたから。
スイは水打の膜を更に薄く、より速く張り直した。あの時真似た型を、今、街道の斜面で書き直していた。
街道の反対側の斜面で、ライがヴェルナの膝の前に立った。
「――もう一手、いくぜ」
男は両掌を交差させた。交差させた両掌の間に青い光が凝縮した。凝縮した光が螺旋を描いて球体になった。
――秘技、雷球。
球体をヴェルナの胸に投げつけた。
ヴェルナは両手の泥で正面に壁を張ったが、雷球はその壁を溶かして貫通した。ヴェルナの胸に到達した瞬間、球体は破裂した。破裂の衝撃でヴェルナの体は斜面の奥の樹の幹まで真横に吹き飛んだ。
――魔族の無常と、人のアルケーは、根本的に体系が違う。
スイは水の弾丸を放ちながら地の底、身体から湧き出てくる泥を見て痛感していた
アルケーは根源力を人の体の外へ細く、指向的に引き出す型。使い手の体が代償を負う。使い過ぎれば根源の道が焼ける。ソルグに到着する前のグランのカメレオンはまさにその道が焼けかけた。
無常は違う。魔族の体そのものが根源力の器であり変換器であり放出装置でもある。アルケーが動かせる力を”木々”だとすれば、無常が動かせる力はその”木々が生えている山ごと”動かせる。魔族と人間では根の器の桁がそもそも別だった。
――なのに、ライは。
人のアルケーの系統で無常のヴェルナを圧倒していた。根の器の桁が別なはずの相手を、体系の格差を、技量と練度で埋めていた。埋めて、なお、上から叩いていた。
斜面の奥でヴェルナがまた身を起こした。今度は膝を地面につかなかった。両手を胸の前で交差させて体全体から泥を放出した。放出した泥が街道の斜面ごと彼の周囲を覆った。
「――泥の大穹」
彼の体を中心に、直径三十歩ほどの泥のドームが張られた。
「ここで、決めさせてもらう」
ドームの内側から泥が幾つもの棘の形で外側へ射出された。棘は無数にライを狙って放射状に飛んだ。
ライは腰の蔓で樹の幹を掴んで体を斜めに跳ね上げた。跳ね上げた体の下を泥の棘の束が通り抜けた。
「――ふう」
男は空中で息を吐いた。吐いてから街道の空を、真上を見上げた。
男は両腕を天へ真っ直ぐに掲げた。
「――そろそろ決めるぜ」
男は独り言のように続けた。
「グリムの姐さんから世誓の話を聞いてから、やっと、俺は理解したよ」
「この技が世誓によって構成されてるってことに」
「何かを形作るってのは、無意識のうちに俺自身を縛る型を決めることだ。縛りがそのまま世誓に繋がる」
「威力が上がる。理屈が分かればな」
男の両腕の間に青い光が集まった。集まった光は雷の渦ではなかった。渦を更に凝縮させた光の柱だった。
柱は真っ直ぐには立たなかった。光の芯が緩やかに螺旋を描いた。螺旋は徐々に頭の形を作った。四つの角。細く裂けた口。目の位置に二つの閃光。
螺旋は龍の頭を光の中に彫り上げた。
「――奥義、万雷」
龍の頭が両腕の間から切り離された。切り離された頭に光の胴が遅れて伸びた。胴が伸びて尾が伸びて鱗の一枚一枚が青白い光で彫られた。
龍が完成した瞬間、それは街道の斜面へ雷そのものとして突進した。
――ゴォォォォォォッ。
龍の全長は街道の斜面の長さの半分ほどだった。頭がヴェルナの泥のドームに真っ直ぐ突き刺さった。
ドームは龍の頭の一撃で蒸発した。蒸発したドームの内側で龍は更に胴を捻って街道の斜面を真横に抉った。
街道の土が蒸発した。斜面の雑木が根元から消えた。空気が龍の熱で歪んだ。歪んだ空気の中で龍は更に街道の奥まで突き進んだ。
街道の斜面が龍の通った跡だけ深く焼け抉れた溝と化した。溝の底で蒸発したはずの土が赤い熾火のように、まだ燃えていた。
龍が収束した。両腕の間の光が静かに消えた。
抉れた街道の溝の先に蒸発した泥の煙が細くまだ立っていた。
「――取り逃した、か」
男は両腕を下ろした。
「詰めが甘ェ。俺、これでも殺しに行ったんだが、な」
実際、ヴェルナは龍の突進の寸前で無常の全力を目隠しに切り替えていた。“泥のドームで防御する”型を捨て、体全体の泥を街道の斜面全体を覆う目隠しの霧として噴き出した。
龍の突進が斜面に届いた時、ヴェルナは既に斜面の奥の雑木の陰へ駆け込んでいた。龍は彼のいた場所の空気を抉った。空気だけを抉った。
「――ライ!」
スイが街道の脇から叫んだ。
「群れが!」
万雷の余波で魔獣の群れの半数近くが龍の軌跡の下で焼き払われていた。だが残りの群れはヴェルナが街道の斜面の反対側へ駆けたのに合わせて方角を変えていた。
――南へ。
残りの群れは街道を南へ雪崩を打って駆け出していた。その先頭にヴェルナの背中が既に見えなかった。彼は泥の煙に紛れて群れの中央に姿を消していた。
「――朝霧村だ! 南は朝霧村しかねえぞ!」
「――ちィ、あの進み方は”村があることを理解している”進み方だ」
男は初めて拳を街道の土に打ち付けた。
「殺しに行った一撃を、目隠しに切り替えられた。……悪くねえ判断だ、あの魔族」
男は舌打ちして立ち上がった。
「だが、この街道を南へ、群れごと走らせるつもりか。朝霧村を狙って」
「――追うぞ、2人とも」
「ああ」
「三日掛かった道だ! 群れの脚はそれより速ェぞ!」
「知ってる」
スイは掌を街道の地面に下ろした。下ろした掌の下から水が細い川のように街道の南の方向へ流れ出した。
流れた水が街道の土を湿らせた。湿った土の上をスイは水打の要領で水の膜を滑走した。
「二人とも、掴まれ!」
「はっ、いいねえ、我が弟の水路は!」
ライがスイの背にしゅ、と掌を触れた。用心棒もスイの外套の裾を掴んだ。
三人はスイの水の膜の上を南の街道を滑走しながら駆け出した。速度は走るのより遥かに速かった。




