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第48話 朝霧

“第48話 朝霧”

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】


朝、村の宿の前で、露店の女将が水瓶を担いで通りかかった。


 シアが宿の戸口の縁で、それに気付いて、声をかけた。


「――あの、女将さん」


 声はいつもよりずっと丁寧だった。修道服の裾を膝の前で軽く合わせて、目線を落として、女将の水瓶の重みを邪魔しない距離で、そう言った。


「おや、シアちゃん。おはよう」


「昨日は宿に泊めていただいて、ありがとうございました」


「いいってことよ、旅の人は大変だからねえ」


 少女は少しだけ視線を上げた。


「あの、ひとつだけ聞いてもいいですか」


「なんだい」


「この村、なんて名前ですか」


 女将は少し目を丸くしてから、笑った。


「あら、あんたら、まだ名前も知らずに泊まってたのかい」


「……ごめんなさい、聞きそびれてて」


「いいってことよ。旅の人は忙しいからねえ」


 女将は水瓶を肩から下ろして、噴水の縁に置いた。


「朝霧、って言うんだよ。朝霧村」


「朝霧」


「谷から朝、白い霧が上がってきてね。この広場まで流れてくるんだよ。うちの婆さまの婆さまの頃には、もうそう呼んでたって話さね」


「――ヤマトの言葉、ですね」


「あら、よく知ってるねえ。そうよ。ここいら、大昔にヤマトから来た連中が拓いた土地でね。名前も、店の暖簾の掛け方も、あっち風だよ」


「教えてくださって、ありがとうございます」


「丁寧な子だねえ、あんた」


 女将は笑って、水瓶を担ぎ直した。


           


 宿の戸口の内側で、スイとライも、その会話を耳にしていた。


「――朝霧、か」


「ヤマトの系譜、って言ってたな」


「らしい名前だな。谷底の朝を、そのまま名前にしてる」


「シアの奴、律儀に聞いてやがる」


「あの子、ああいうとこは育ちが出るな」


           


 スイとライが宿の外へ出ると、シアが振り返った。少女はスイに、少しだけ頬を膨らませた。


「私たち、村の名前も知らずにいたの」


「悪ィよ」


「ほんとに」


 少女はそう言って、修道服の裾を軽く払った。


           


 その時、街道の先が、少し、騒がしくなった。


 旅装の男が一人、街道の泥で脛から下を真っ黒に汚して、村の入り口の縁で、へたり込むように腰を落とした。


           

 旅の男が水を飲み終えると、村の広場の空気はゆっくりと重くなった。


 子供たちが親の袖の裏に隠れて、老人たちは噴水の縁で口をつぐんだ。魔獣、魔族という単語の重みを、この村の誰もが初めて自分の背中で受けたのだった。


           


 ライは広場の脇でスイを呼び寄せた。


「二日、三日で届く。放っときゃこの村、次に潰れる。俺は行くぜ」


「俺も行く」


「そう言うと思ったよ」


 男は肩を回した。


「頭が一つなら、頭を落とせば群れは散る。……たぶんな。獣王を落としたあんたと、俺だ。無理筋じゃねえ」


           


 その脇へ、大男がのっそりと歩いてきた。朝、噴水の縁で紳士と揉めた、あの用心棒だった。今朝は酒瓶を持っていなかった。


「――俺も行くぜ」


「あ?」


「昨日から勘が悪ィ。この村の周りに何か湧いてる気がしてた。俺の勘、当たってたわけだ」


 男は肩の棍棒を撫でた。


「この村の用心棒が、いざって時に街道の中で腐ってちゃ、看板が泣く。連れてけ」


 スイはライを見た。ライは肩をすくめた。


「腕は立ちそうだな、あんた」


「昔、傭兵の頭を張ってた」


「じゃ、いい。腕の一本は多いほうが助かる」


           


 スイはシアを見た。


 少女は広場の縁で修道服の裾を握って立っていた。目は伏せていた。


「シア」


「うん」


「お前はここに残れ」


「……行けないの、私」


「行かせられねえ。魔族と魔獣の群れだ。何が起きるか分からねえ」


「私だって足手まといにはならない」


「知ってる。知ってるから置いていく」


 少女はしばらく黙ってから視線を落として頷いた。頷きの角度がいつもより浅かった。だが、拒む言葉は口にしなかった。


「……気をつけて」


「ああ、自分の命も大事にする」


           


 紳士は広場の反対側で余興の道具を鞄に詰めていた。旅の男を宿へ運ぶ手伝いを終えて、額に汗を浮かべていた。スイが近づくと、紳士は帽子を取って軽く胸に当てた。


「これはスイ様。準備、整いましたか」


「ああ、そろそろ発つ」


「――大変な仕事です。どうぞご無事で」


 紳士は少し目を伏せた。


「戻ってこられた時、この村で盛大にお迎えしたいと思っています。皆さんに笑っていただく舞台を、私、それまでに仕上げておきますよ」


「悪ィな」


           


「――道化さん、それと」


「はい」


「連れのシアを、しばらくあんたのそばに置いてやってくれねえか。手伝いでもさせてやれば時間が潰せるだろ」


「ああ、お安いご用です。ちょうど舞台の飾りの布を、たくさん畳まなきゃならないところでした。お嬢さんの手を貸していただければ助かります」


「頼む」


           


 紳士は帽子を戻して、鞄の中から小さな革の袋を取り出した。


 中から拳ほどの大きさの丸い金属の玉が三つ、転がり出た。表面が黒く、細かい細工が施されている。手の中でずしり、と重かった。


「――これ、お持ちになりませんか」


「なんだ、そりゃ」


「私が旅の途中で手に入れたものです。護身用にと、ずっと持っていました。使わずに済むならそれに越したことはないのですが、あなた方の行かれる先を思うと、少しでもお役に立てば」


 紳士は玉を一つ、掌の上で見せた。


「起爆の意思があれば爆ぜます。触れて、心の中で”割れろ”と念じるだけで結構。強く念じるほど、大きく爆ぜます」


「へえ。物騒なもん持ってんな、あんた」


「旅は物騒なものです。私、腕っぷしがありませんので、こういう物に頼るしかなくて」


 紳士は苦笑して、玉をそれぞれスイと、ライと、用心棒に一つずつ渡した。


「三つ全部お持ちください。私はどうせ村の中にしかいませんから」


「――助かる。悪ィな、道化さん」


「ご無事の帰りをお待ちしています」


           


 街道の入り口でシアはスイを見送った。少女はスイの服の裾を指先で軽く二回だけつまんだ。それだけで何かを言った代わりにした。


「早く戻ってきて」


「戻ってくる」


 少女はそこで指を離した。それきり何も言わなかった。


           


 スイ、ライ、用心棒の三人は北の街道を駆け出した。


           


 ――一日目、朝霧村。


           


 シアは広場の脇の露店で、修道服の裾を膝で畳んで座っていた。膝の上に色布が積まれていた。紳士に頼まれて、舞台の飾りの布を色ごとに分ける仕事を任されていた。


 布を広げる。色を確かめる。それぞれの山へ重ねる。単純な仕事だった。手は動くが、頭は空いていた。


           


 旅の男が少女の隣に、片足を投げ出して座っていた。脛の傷は女将が縫って、白い布で巻かれていた。


 男は少女の手元を、ぼんやりと眺めていた。


「――お嬢さんは、丁寧ですね」


「……ありがとう」


「布の畳み方一つに、育ちが出ます。あなた、良い育て方をされたのでしょう」


「……そう、かな」


           


 男の左目が、少女の手元から少女の横顔へ、ゆっくり、移った。視線の重さが、少しだけ変わった。


 少女はその視線を感じた。感じたが、顔を上げなかった。


           


「……あの、旅の方」


「はい」


「どこから、来られたんですか」


 男は少し、間を置いた。


「――遠くからです」


「ここではない、遠くから」


           


 少女は、それ以上、聞かなかった。


 男もそれ以上、答えなかった。


           


 夕方、露店の女将が水瓶を担いで戻ってきた。


「シアちゃん、今日はご苦労さん。……あら、あの、パン屋の親父、見なかったかい」


「……いいえ」


「昼から店、閉まりっぱなしなんだよ。あの人、朝から山菜採りに行くって言ってたけどねえ。まだ帰ってこないんだよ」


 女将は少しだけ首を傾げてから、水瓶を担ぎ直して露店へ戻っていった。


           


 少女は次の布を膝に広げた。


           


 夜、紳士は広場で、舞台の骨組みの上に色布を掛け始めた。


「よろしいですか、皆さん」


 紳士は帽子を取って、集まってきた子供たちに声をかけた。


「あのお兄さんたちが北で大事な仕事をしてくださっています。この村を守るための、大事な仕事です」


「あのお兄さんたちが無事に戻ってきたら、私、皆さんと一緒に、大きなお祭りをしたいと思っています」


「そのために、この舞台を、皆さんと一緒に綺麗に飾りましょう」


 子供たちが手を叩いた。老人たちも噴水の縁で笑った。


           


           


 ――二日目。


           


 朝、女将の隣の家の戸口が閉まったままだった。


 街道の親父が「あの家の爺さん、体が悪かったからね」と誰かに囁いていた。「今日は寝込んでるんだろ」と別の誰かが返した。


           


 シアは広場の脇で、また布を畳んでいた。今日は白と青の布だった。


 旅の男は隣で、細く木を削っていた。細工の練習だと言った。手つきは慣れていた。


「――寂しくないですか、あのお兄さんが、いなくて」


「……別に」


「別に、というのは、寂しい時の口癖ですよね、そのくらいの歳の子は」


「……あんた、勘、鋭いね」


「観察の癖です。旅をしていると身につきます」


 男は削っていた木片を、少女の膝の脇に置いた。


 小さな鳥の形をしていた。


「差し上げます」


「……ありがとう」


 少女は木の鳥を掌に乗せた。乗せて、しばらく見ていた。それから、修道服の胸元にそっと仕舞った。


 男の左目が、少女の胸元へ、ゆっくり流れた。


           


 昼、紳士は広場で舞台の柱に金色の縁飾りを施していた。子供たちが囃し立てた。


「――綺麗ですねえ、金は。あのお兄さんたちが戻ってきた時、この舞台で、皆さんに一番いい席に座っていただきます」


「儂の椅子は、あそこかい」


「はい、旦那様の席は、あの中央の、いちばん見やすい位置です」


「そりゃ楽しみだ」


           


 夕方、街道の親父が困った顔で村へ戻ってきた。


「今日も便り、来ねえよ」


「もう七日目かい」


「七日目。塩も香辛料も、あっちの都から回してもらう約束のやつ、届いてねえ」


「あんたんとこ、大丈夫かい」


「大丈夫じゃねえよ。……あっちの都、どうなってるんだ、全体」


 女将は水瓶の水位を心配そうに眺めた。


           


 シアはその会話を、布を畳む手で聞いていた。帝国から荷が来ない。この村は帝国の街道の末端に繋がっていた。街道の元が消えれば末端の血の巡りが止まる。


 少女は次の布を膝に広げた。


           


           


 ――三日目。


           


 朝、広場が、少し、静かだった。


 昨日いた囃し方の子供が、三人、いなかった。誰かが「あの子ら、川で遊んでるんだろ」と言った。誰かが「昨日から見てねえ気がする」と返した。誰かが「気のせいだろ」と締めた。話はそれで終わった。


           


 シアは広場の脇で、修道服の裾を膝で畳んで座っていた。膝の上の布の山が、昨日より、少し、高くなっていた。


 旅の男は隣で、木片を削っていた。今日は魚の形を作っていた。


           


 少女は、ふと、広場を見渡した。


 ――少ない。


 昨日より、確かに、人が、少なかった。露店の数も、昨日は六つ、開いていた。今日は四つだった。噴水の縁の老人たちも、昨日は五人、日向ぼっこしていた。今日は三人だった。


 少女は、その減り方を、指の中で、数えた。


           


「……」


「――どうしました、お嬢さん」


「……なんでもない」


 男は削る手を止めなかった。だが、左目の視線だけは、少女の頬に、ゆっくり流れた。


「なんでもない、というのは、あります、という時の口癖ですよね」


「……あんた、しつこい」


「ふふ…昨日までは旅の方呼びだったのに…すみません」


           


 男は削っていた木の魚を、少女の膝の脇に置いた。木の鳥と並んで、二つになった。


 少女はそれを、しばらく見た。


           


 昼、紳士は広場の舞台の中央で、深紅の垂れ布を天井から下ろしていた。


 舞台は、既に、ほぼ、完成していた。柱の金色、梁の白、垂れ布の深紅。子供の椅子、老人の椅子、女の椅子、男の椅子。それぞれの位置に、名札のような小さな板が置かれていた。


 紳士は舞台の中央で、深紅の布を、優しく撫でた。


「戻ってこられた時、この舞台の中央に、あのお兄さんたちに座っていただきます。特等席です」


 子供たちが手を叩いた。今日の子供たちは、昨日より、少なかった。だが、拍手の音は、昨日より、大きかった。


           


           


 シアは、その光景を、少し離れた場所で見ていた。


 少女の胸元で、木の鳥と魚が、修道服の下で、微かに触れ合った。


           


           


           


 ――同じ日の午後、北の街道。


           


 三日目、風の匂いが変わった。焦げた匂いが南から北へ流れる風に混じるようになった。


「――近ェな」


「ああ」


「南から北へ吹く風に匂いが乗ってやがる。魔獣の焼いた村がこの先だ」


 三人は無言で、街道を進んだ。


           


 やがて、雑木の切れ間に出た。


 その切れ間の先の街道で、細身の男が一人、こちらへ向かって歩いてきていた。


           


 男は旅装だった。丈の長い袖。頭には目深に被った布の帽子。歩幅は乱れず、こちらへ真っ直ぐ歩いてきていた。


 三人と男との距離が、ちょうど三十歩ほどに縮まった時。


 男は立ち止まった。


 立ち止まって、帽子の縁を指先で軽く押し上げた。


           


 その下から、金色の瞳がこちらを見ていた。瞳孔の位置が人間のそれではなかった。縦に細く裂けていた。


           


 ライが一歩、前に出た。


「……我が弟」


「ああ」


「あれ、たぶん探してた奴だ」


           


「――こんにちは」


 男が笑った。声は乾いていた。


「良い風の日ですね。人間の街道を歩くのは久しぶりです」


「あんた」


「ああ、名乗ります。人間の作法では、そうするものでしょう」


 男は帽子を取って丁寧に胸に当てた。


           


「――ヴェルナ、と申します」


「魔族です。北の谷で二つ、村を潰しました」


 長いツノが露わになった男は帽子を胸に当てたまま頭を軽く下げた。


「そちらへ、ちょうど次のお村へ向かうところでした」


           


 風が街道の乾いた土をひと撫でしていった。


 男の背後、雑木の斜面の奥から、じゃら、じゃら、と、無数の足音が、静かに、迫ってきた。


           


 スイは掌の甲をそっと開いた。


 ライは拳の中で雷を、一度、弾いた。


 用心棒は棍棒を腰から抜いて、両手で握り直した。


           


「では、始めましょうか。人間の皆さん」


ふと、ソルグでの戦いを思い出した


「…………魔族ってのはみんなその口調なのか…?」


男の背後の斜面から、魔獣の群れが、地の底の湿った音を立てて、雪崩を打った。

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