第47話 俺のせいだ
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
“第47話 俺のせいだ”
人は帰る場所があるから遠くへ行ける。
帰る場所を無くした足は遠くへ行けない。行けないまま川の縁で流れを見ている。
朝、街の広場で女将が笑っていた。昨日、あの子は隣の家で寝ていたのだった。友達と川で遊んだ帰りにそのまま夕飯を貰い寝てしまった。朝、目を覚まして慌てて自分の家に走って戻ってきた。頬に土が付いていた。
「もう、ほんとにこの子は」
女将は少しだけ泣いてから思い切り頬を挟んで揺すった。子供は首をすくめて笑っていた。街の人々が笑って女将の肩を叩いた。
「田舎の子はこういうもんさ」
「ほんとに心配して損した」
朝の広場の空気がゆっくり緩んだ。
スイはその輪に入らなかった。輪を横目に見てライに「とにかくよかった、……川、見てくる」とだけ言い宿の裏へ回った
川辺は静かだった。朝の光が川面を細かく割って鱗のようにきらついている。女房たちの洗い物はもう終わり堤の草の上には桶と水滴の跡だけが残っていた。
スイは腰を下ろした。地面をぼんやりと見た。
――帝都が消えた。
その一言だけがこの頭の中でずっとぐるぐる回っていた。国が一個、丸ごと。人が何万か何十万か。全員がどこか別の場所へ勝手に投げ飛ばされた。
あの朝、あの黒衣の男が石の間の中央に立っていた。市王の回廊が、その男一人を飛ばそうとして、暴走した。膨らんで、膨らんで、帝国そのものを引き剥がした。
――狙われていたのは、あの男だ。
黒衣の男を飛ばそうとして、市王は回廊を絞った。あの男が何を企んでいるのか。答えは分からない。だが、俺を攻撃したのも、海の民の話が絡んでいるのは確かだった。あの男もまた、海の民の血に近い者だった。
――俺のせいだ。あの男が狙っていたのは俺
スイは掌を握った。
海の民は世界にとって都合が悪い。都合が悪いから狙われる。その狙いをかわすために、虚空も、皇帝も、動いた。動いた結果、帝国が消えた。
帝国の民、何万人。何十万人。名前も顔も知らない人が、今、それぞれの飛んだ先で、水と屋根を探している。中には既にそこで死んでいる者もいるだろう。
――俺のせいだ。
俺があの場所にいなければ、こんなことにはならなかったはず。俺が帝都まで運ばれなければ、虚空が館を空けることもなかった。俺があの部屋で虚空の話を聞いていなければ、あの一日は違う一日になった。
スイは掌の中に爪を立てた。血の匂いが微かにした。
その中にグランがいる。リアがいる。あの二人が今どこで何をしているか分からない。飯を食えているかも屋根の下に寝られているかも分からない。二人を巻き込んだのも俺だった。
ラグナロクという言葉も浮かんだ。
教皇が決めたと聞いた。帝国も応じた。抜かれるはずのなかった刀が抜かれる。そこにスイは出るはずだった。世界の形を、一人が勝手に決められない形へ、返すために。
――返す。
その言葉を、あの浜で最初に口にした時、自分は何を知っていた。
知らなかった。何ひとつ、知らなかった。
十王がどういう連中かも、教皇がどんな顔をしているかも、世界の理がどう動いているかも、海の民が何を背負って生まれてきたかも、何ひとつ、知らずに、ただ、返す、と言った。
――今なら、分かる。
あれは無知な人間の夢物語だった。海の村の岩場で、自分の掌に湧く水しか知らない半端者が、世界の重さを何も測らずに、大人たちに啖呵を切ってみせただけの、子供の言い分だった。
その言い分が今、この規模の話に膨らんで、こちらへ返ってきている。
俺が本当に、ラグナロクで勝てるのか。世界を戻す、なんてことが、あの浜の岩場で決めた程度の覚悟で、本当にできるのか。
スイは掌を開いた。開いた掌に、爪の跡が四つ、赤くにじんでいた。
「――スイ」
背後から声がした。振り返るとシアが立っていた。修道服の白と黒が堤の草の上にぽつりと。いつからそこにいたのかは分からなかった。
「元気、ないね」
「……そうか」
「うん、分かる」
少女はスイの隣に腰を下ろした。膝を抱えず地面に足を投げ出す座り方だった。この一日で初めて見る座り方だった。
「――帝国、丸ごと消えた」
スイはそう口に出した。
「グランとリアが、どこにいるかも分からねえ。ラグナロクが始まる前に俺は勝てるようにならなきゃいけねえ。なのに川辺で座ってる」
「うん」
「……全部、俺のせいだ」
「うん」
少女は頷きの数だけを返した。慰めも否定もしなかった。
「グランさんと、リアさん」
「ん?ああ」
「私、あの二人と、帝国でちょっとしか会ってない」
少女は川面を見ていた。
「あんたが虚空様と話してる時、私、あの二人と少しだけ喋った。短かったけど、三人の距離感は、少しは見た」
「あの二人ならたぶん大丈夫」
スイは少しだけ肩の力を抜いた。
この少女はいつも必要なところで必要なだけの言葉を置く。それ以上は言わない。慰めではない。診断でもない。ただ事実の輪郭を静かに置いていく。
「……ありがとよ」
「別に」
スイは少し引っかかった。
「なあ」
「なに」
「なんで俺だけ呼び捨てだ」
「え」
「グランさん、リアさん、って言ったろ。俺は”スイ”で”あんた”。他はさん付けてるのに、俺だけ冷たくねえか」
少女は少しだけ目を伏せた。それから口を開いた。
「……あんた、危なそうだから」
「あ?」
「最初にあんたの腕、巻いた時から、そう思ってた」
少女はスイの右腕を指の先で軽く示した。
「あの時のあんたの腕、骨まで軋んでたのに、あんたは何とも思ってなかったし庇うつもりもなかった。動かせるから動かす、みたいな顔してた」
「その姿勢はあんたのだから、あんたが決めることだと思うし、尊重はする。けど私は好きじゃない」
少女はそこで一度切って続けた。
「あんたが虚空様と話してた時、あの二人と喋って、あの二人にも似たところがあるって分かった。人のために自分を後回しにする癖」
「でもね。あの二人は、自分の身を自分で守る感じ。あんたはそもそも数えてない感じ」
「あんたのそれは、あの二人よりずっと度が過ぎてる」
「――異常なの、それは」
スイは口を開いたまま少しの間、動かなかった。
――異常。
その言葉を他人の口から自分に置かれるのは、たぶん初めてだった。
スイは掌を広げた。開いた掌をじっと見た。この掌から水が湧く。集めた水で寝起きの獣王を一度倒した。この掌で、グランと丘を越えた。
その掌の前で、村の日々がふっと浮かんだ。
――あの日、獣王の陣の岩陰。
グランが獣王の前で膝をついていた。焼くのを止めろ、と獣王に言った。獣王がそれを聞いて、頷いて、それから、グランを吹き飛ばした。
俺は岩陰で見ていた。
飛び出そうかと考えなかったわけではない。飛び出せば獣王は自分を殺す。それは分かっていた。
だが、考えたのはそこではなかった。
――俺が今飛び出したら死ぬ。それはいい
だが俺が死んだ後、村はどうなる。
考えたのは、そこだけだった。
自分が死ぬのが怖い、ではなく。自分が死んだ後、村がどうなるのが怖い、だった。
――あ〜……。
スイは掌をゆっくり閉じた。
「……そうか」
「うん」
「そうだな、俺、……そうだ」
少女は答えなかった。ただ川面を見ていた。
スイは頷いた。頷いてから少しだけ身を伸ばした。
――ところ変わって、市王ルミエルの蔵。
揃いの外套の男たちが既に床に伏していた。
巨漢の護衛が壁に凭れて息を切らしている。短刀は取り上げられ、片肘を大理石の縁で軽く外されていた。呼吸はある。命は取られていない。
市王ルミエルは扇を閉じ、伏している男の一人の傍らに屈んだ。指の腹で脈を見て、それから額に軽く触れる。触れて頷いてから、次の男へ。そうやって黙って七人分、順に見た。最後の男の傍で、彼女は一度、微かに笑った。
「よく頑張ったわね、みんな」
声は扇を持って笑っていた時のそれではなかった。もう少し低く、いつもの華やかさの下の素の声だった。彼女はそれ以上、何も言わずに立ち上がった。
立ち上がった時、彼女の視線はもうグランに戻っていた。扇が開き、彼女の首の傾け方もいつもの調子に戻っていた。
「うちの子たち、全滅ねえ」
扇が閉じる。
「あなた、思ったより動くのね」
「時間、取らせたな」
「まだ終わってないわ。――カルロス。」
彼女の背後の階段の奥から、影が一つ音もなく上がってきた。
男だった。年は三十そこそこ。細身。両手首から細い銀の鎖がじゃら、と垂れている。三本ずつ、両手で六本。長さはまちまち。鎖の先端は蛇の頭のような形をしていた。
男は円卓の脇に立って市王に浅く礼をした。
「お呼びで」
「この商人もどきと、少し遊んで差し上げて」
「――承知」
リアは、蔵に落ちた時から階段の柱に背を預けていた。腕を組み、鞘の柄には手をかけていない。落ちてすぐ、グランが「手を出すな。俺の仕事だ」と一言だけ言った。それ以来、彼女はその位置から動いていない。
カルロスが両腕を軽く広げた。左手三本、右手三本。六本の鎖がじゃらり、と床に垂れた。
次の瞬間、六本の鎖の先端がグランの胴を巻き取ろうと一斉に伸びた。
グランは半歩下がって姿が消えた。消えたと視覚が認識した瞬間、鎖の先端は既に空を切り、蛇の頭が閉じた音だけが乾いて響いた。
「――見えなくなるアルケー」
鎖使いは呟きながら六本の鎖を一度、自分の手元へ引き戻した。じゃら、と鳴った。
「では、面を張るまでです」
彼は鎖を天井へ放った。六本の鎖の先端が天井の梁に食い込み、自分の周囲を扇状に張られた。逃げ道は塞がず、ただ自分の周囲だけを鎖の網で囲む形だった。
――消えた相手が動く。動けば足音か、呼吸か、空気の揺れか、何かが漏れる。漏れた瞬間に、六本の鎖で仕留める。
典型的な、待ち手だった。
グランは動かなかった。
動かないまま、落ちていた瓦礫だけを、鎖の網の外側から、するり、と、鎖の一本の隙間に差し込んだ。
それが、鎖の一本に触れた。
鎖が反応した。カルロスの右手が跳ね、その一本の鎖の蛇の頭が、しゅ、と閉じた。挟まれたのは瓦礫。中に体はなかった。
「――餌」
彼は舌打ちして鎖を引き戻そうとした。だがそれに深く突き刺さり、外れなかった。彼の一本が、一瞬、動きを封じられた。
その一瞬に、グランが動いた。
消えたまま、彼はカルロスの網の右側面へ回り込んだ。カルロスの右手一本が塞がっている以上、右側面の鎖の数は一本、減っている。その隙間から、掌を、するり、と差し込んだ。
だが、カルロスもそれを読んでいた。
彼の左手の鎖のうち、一本の鎖に、彼は根源力を一気に集中させていた。他の五本は普通の鎖のまま。だがこの一本だけは、根源力の凝縮で、刃物より硬く、密度は普通の三倍。攻撃に転じ触れれば骨まで通る、そういう鎖になっていた。
その一本の鎖を、彼は、右側面の空気の一点――グランの掌が差し込まれた場所――に、そっと置いた。
差し込んだグランの掌の縁が、その一点に、当たった。
――ガキン。
金属の硬い音が蔵の中に反響した。グランの掌の縁が痺れた。骨が砕けたわけではない。だが腕の芯まで衝撃が抜けた。
その一瞬、グランの位置が微かに視認できた。
「ちっ!」
視認できた瞬間、他の五本の鎖――ただし、根源力を集中させたぶん、密度の下がった五本――が、一斉にそちらへ向けて放たれた。
避けるので精一杯、透明は維持できない
「――ふうん」
円卓の脇で、市王が扇をゆっくり閉じた。
「カルロス、それねえ。仮に、あなたの鎖の攻めが70だとして」
「その70を100でガードしてたら、30ぶんはロスよ」
彼女は扇の縁で自分の唇を軽く撫でた。
「その1本の鎖に100使ったせいで、残りの5本に少ししか入ってない。相手が回り込んで来た時に、その5本が届かないの。守るために攻めを削ってしまってる」
「戦いは商売と同じよ、常に先を読むの」
その言葉と同時に、グランの掌がまた消えた。
凝縮された一本の鎖の”面”は確かに硬かった。だがその硬さのために、他の五本の鎖の密度は下がっていた。
グランは痺れた掌をひとつ振って姿を再び消した。密度の下がった五本の鎖はグランがいた場所を通り抜け、蔵の壁を打った。壁の大理石が微かに欠けた。
カルロスの表情が初めて硬くなった。
――外れた。
次の一手を組み立てる前に、グランの掌が既にカルロスの頸の付け根に静かに置かれていた。消えたまま、回り込まれていた。
「悪ィな、坊主。市王の言う通りだ」
声が耳の真横で聞こえた。
「守るなら、必要なぶんで守れ。惜しむと、攻めが死ぬ」
カルロスは反応する前に、掌の縁で頸の付け根を軽く打たれた。加減された縁が神経の一点を的確に落とした。カルロスは膝から崩れて大理石の床に倒れた。呼吸はあった。
パチ、パチ、パチ。
円卓の脇で乾いた拍手が三回鳴った。
「そこまで、それと」
市王は扇を閉じて額に軽く当てた。それから、また、伏したカルロスの傍らへ屈んだ。指の腹で脈を確かめ、頷いてから立ち上がった。
「――ごめんなさい」
彼女は両手を揃えて腰の前に置き、深く頭を下げた。白い髪が大理石の床の縁まで届いた。
「あたしの、やらかしよ」
「あたしの回廊が外から膨らまされて暴走した。狙いは黒衣の男、一人だけだった。なのに、あたしの絞りが甘くて、道が広がりすぎた」
「その道の縁に、あなたと、そちらのお嬢さんを、巻き込んで、この蔵に落とした」
「落とすだけならまだ、迷惑の範囲。それを、あたし、蔵の作法を持ち出して、“物乞い”だなんて呼んで、この子たちを差し向けた」
彼女は頭を上げなかった。声だけが続いた。
「あたしは商人よ。商人が客を”物乞い”と呼ぶのは地の底の罪。それをあたしは自分の気分でやった」
「あたしがあの時しくじらなければ、あなたたちだけじゃない、帝国の民何万人が、飛ばされずに済んだ。誰が今、水を飲めずにいるかも、あたし、まだ数え切れてない」
「――許して、なんて言えない。ただ詫びるだけ」
蔵の中がしんと静まった。
「――やめろよ」
グランは頭を掻いた。
「いや、やっちまったことはもうどうにもならねえ。詫びは受け取る」
男は少し考えて、それから続けた。
「――それと」
「アンタ、十王なんだろ? 商売する上で実力が欠かせないってんなら、俺を試してくれねえか?」
市王の目がゆっくり上がった。目の奥に乗り気の色があった。
「――良いわね、それ」
彼女は扇を軽く回した。
「あたしが昔よく読んでた本にね、こんな攻撃があってね。あなた、受けてみてくれる?」
彼女が指を軽く鳴らした。鳴らした指の脇の空間がたたまれた。
あの朝、帝都の石の間の床が飲まれた、あの歪みそのもの。回廊のアルケー。世界に穿たれた道が一枚、そこに開いた。
リアが柱から一歩離れた。手が柄に触れた。触れたが抜かなかった。
「よせって言ったろ」
「――」
「大丈夫だ。座ってろ」
リアは柄から手を離した。
回廊の向こう側から細く長い剣が一本、するりと突き出された。突き出されたというより”射出された”というほうが近かった。剣は回廊の縁を越えると同時に、視覚がついていけない速度でグランの胸めがけて飛んだ。
グランは半歩も動かなかった。両掌を剣先の来る位置に揃えた。
――ズシン。
両掌が剣の腹を捉えた。捉えた瞬間、グランの体が後ろへずるり、と滑った。大理石の床に両足の踵の跡が二筋、深く刻まれた。滑った距離はおよそ二歩。二歩でグランは止まった。両掌の間に細く長い剣が力ずくで挟まれていた。
――重い。
グランの腕の芯が鳴った。
あの獣王の腕を思い出した。あれは力の総量が別格だった。あの坊主の話では一撃で山が動くと錯覚したらしい
これはそれとは違う。恐らく力の総量なら、獣王のほうが上だ。だがこの女の一撃は、力の総量で殴っていない。こちらの受け止め方のいちばん脆い一点だけを、正確に突いてくる。
――さっきの男への助言もそうだ、恐らくこの女は 戦い方が、上手い。
力そのものが上ではなく、“当て方”の技量が、獣王より、上のところにある。それが違いだった。
「――ふう」
グランは両掌の間の剣を、丁寧に、床へ置いた。
置き方は、この男の癖だった。
「商売道具は雑に扱わねえ。ソルグで決めた俺の作法だ」
「――あら」
市王は微かに笑った。
「じゃあ次はねえ、これは商売道具じゃないやつよ」
彼女は両手の指を軽く広げた。彼女の左右にそれぞれ、空間がたたまれた。二枚の回廊。同時に。
「――全力で止めなさい」
グランは身を軽く落とし、両掌を次に来る二本の剣の位置に揃え直した。右手だけ深く、左手は軽く。
左右の回廊から剣が同時に射出された。
――ズシン。
右手の掌で右の回廊から来た剣を受け止めた。受け止めた瞬間、後ろへ滑る勢いが生まれた。その勢いをグランは殺さなかった。殺さずに体ごと左へひねった。
右手の掌に受け止めた剣が体のひねりに乗って左手側へ鋭く振り抜かれた。その軌道の先に、左の回廊から射出された二本目の剣が丁度届いた。
――キン、と。
剣同士がぶつかった。二本目の剣は軌道を弾かれ、蔵の壁に深々と突き刺さった。刃が壁の大理石を割った音が遅れて反響した。
グランは右手に持った剣を、また、床に置いた。
蔵の中がしんと静まった。
「――気に入ったわあ」
市王は扇で顎を撫でた。
「合格。合格って言葉がこんなに軽く出るの、久しぶり」
彼女は歩み寄ってきた。回廊はいつの間にか両方閉じていた。二本の剣は壁と床にそれぞれ静かに残されていた。
「あたし、これから旅に出るの」
彼女は扇を閉じて腰の帯に挿した。
「あたしのやらかしのせいでね、帝国の建物と、物と、それから――大事な人達が、あちこちに散らばった」
声が少しだけ低くなった。
「拾って回るわ。あたしの責任で」
「あなた、ついてくる?」
「……俺が?」
「そう。貴方あの海の子の仲間でしょ?あたしの拾って回る場所と、あの子の足が向く場所は、たぶんそう遠くない」
彼女は微笑んだ。
「ついてきていい。ただし条件が一つ」
「聞こう」
「その旅の間、あたしがあなたに商売を教える」
グランはしばらくその顔を見ていた。
「……なんで、俺を」
「あなた面白いのよ。腕も頭も悪くない。ただねえ、商人としてはまだ、無知」
「あたしが少し磨いてあげる。一流の商人になれるかもしれないの、あなたなら」
グランはリアを見た。リアも頷いた。行く、という意味だった。
「――乗った」
「決まり」
彼女は満足そうに扇を軽く回した。回してから、少しだけ、目を細めた。
目の奥に、悪戯の色が差した。唇の端が、ゆっくり笑みの形を作った。
「――ところでねえ」
彼女はリアを一度、視界の端で見て、それからグランに視線を戻した。
「そこの剣の里の娘さんは、ともかく」
「――あなた、左眼は必要かしら?」
――スイ達のいる村、昼過ぎ。
スイとシアが川辺から広場に戻ってきた時、ライが宿の前で街の親父たちと立ち話をしていた。話の輪の中央に、旅装の男が一人、地面にへたり込んでいた。
男はまだ若い。街道の泥で脛から下が真っ黒に汚れていた。額と首筋に汗がべったりと浮いて、息が浅く速かった。片足の脛から、赤黒い血が乾いてこびりついている。
スイたちが近づくとライが手招きした。
「我が弟、聞いとけ。この兄ちゃんが、走り通しで、この街まで来たそうだ」
「……北の谷の、村が、二つ」
男は掌で口元を拭って、途切れ途切れに続けた。
「魔獣の群れだった。……そりゃあ、俺の村にも、鹿くらいは出るさ。だが、あんな数、見たこともねえ」
「どこから来た」
「知るかよ! 気付いた時にはもう、家の壁が、燃えて……」
男は肩を震わせて、しばらく黙った。落ち着きを取り戻してから、続けた。
「魔獣の群れの、後ろに、頭を張ってる奴がいた」
「――魔族か」
「たぶん、そうだ。人の姿をしてた。けど、あの群れの方向を、指一本で動かしてた。喋りながら、村の広場の真ん中で。……あんなの、人間じゃねえ」
「あんた、その足、酷い怪我じゃないか」
「逃げる時に、板が、脛に……。すまねえ、水を、もう一杯」
女将が慌てて水瓶へ走った。
街の広場がしんと静かになった。朝、女将の子が帰ってきた笑いは、まだこの空気に残っていた。その残り香の上に、新しい重い空気が静かに乗った。
「あんたら、ここも、たぶん、遠くねえ。あの進み方だと、二日か、三日で届く」
スイはシアの視線が自分に上がるのを感じた。シアは何も言わなかった。ただ修道服の裾をいつもの倍、強く握っていた。
ライがゆっくり腕を組んだ。
「――我が弟」
「ああ」
「動く理由が来たみてえだな」
スイは頷いた。頷きながら、川辺で座り込んでいたあの動けない自分が、少し遠くなった。
旅の男は、女将から差し出された二杯目の水を、ゆっくり喉に流し込んだ。飲み下してから、掌で口の縁を拭った。
男の唇の端が、ほんの少しだけ、上がった。
誰も、それを見ていなかった。




