第45話 歴史を記すモノ
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
“第45話 歴史を記すモノ”
似た色ばかりが続くと、人はそれを景色だと錯覚する。
白ばかりの中では、他の色を忘れる。
――だから、そこにあるはずのないものが立っていても、疑わない。
三人は山を降りていた。
スイの背にはシアがいる。ライは一歩前を、鼻歌まじりに歩いていた。
「なあ、我が弟」
「呼ぶな」
「呼ぶんだよ。慣れろ」
男は肩の後ろで指を鳴らした。ばち、と小さな青が漏れる。癖だった。この一日で分かった。ライは考えごとをする時、拳の中で雷を弾く。
「山って、こう、もっと獣がいるもんだろ普通」
「……いねえな」
「昨日の魔獣もな、湧きすぎだったが、その代わり狐も鹿もいねえ」
「言われてみりゃ」
「なんかに、追い出されてる」
「……水」
少女が背中で口を開いた。
「川の音がする。左の谷」
スイは方角を変えた。ライも文句を言わずについてきた。地図を持たない三人にとって、この少女の耳はこの一日で三度ほど川を当てていた。川は道だった。
斜面を降りる。木が疎らになっていく。
やがて林が途切れた。
――視界が、白くなった。
霧だった。
濃い。谷の底に湿った白がぴたりと張りついている。息を吐くと、それが霧の一部になった。境目が分からない。
「……なんだこりゃ」
男は初めて足を止めた。
「この時期のこの山で、こんなに立つか」
「立たねえのか」
「立たねえよ。俺、南の山なら大体歩いてるが、こんなの見たことねえ」
――シアの指が、少しだけスイの襟を強く掴んだ。
スイはその指の力を背中で覚えた。この少女は怖がっている時ほど言葉が減る。今は何も言っていない。
三人は霧に入った。
視界が腕の長さで途切れる。足元の草が真下だけ見える。ライが「はぐれるなよ」と言って、蔓を一本、腰の紐に結んでスイの手首へも回した。細い命綱だった。
――霧の中は、音がなかった。
鳥が啼かない。虫も鳴かない。足元の草を踏む音だけが、湿った白の中に細く沈んでいく。日が霧の上のどこかにあるはずだが、その光の方角すら曖昧だった。
どれくらい歩いたか、分からない。
――そして、霧が薄くなった。
スイは足を止めた。
止めるより先に、目が止まっていた。
――塔があった。
白かった。
周囲の谷は、湿った黒い土と、灰色の岩と、青い針葉。深緑の苔が岩肌を覆い、湿った下生えの香りが立ち上る。水気の重い、暗く沈んだ谷底の景色。その景色の真ん中に、白い塔だけがぽつりと据えられていた。
周りの何にも、似ていなかった。
継ぎ目のない一枚岩に見える。人が積んだのなら必ずどこかに段差がある。この塔にはそれがない。真下から真上まで、同じ滑らかさの白が、そのまま伸びている。
高い。谷底から見上げて、梢の三倍ほど。上のほうはまだ薄い霧の中に消えていた。形が螺旋だった。上に行くほど細くなり、螺旋を描きながら空へ伸びていく。
塔の周りだけ、下生えが違った。
黒い苔の谷の中で、塔の根方三歩ぶんだけ、白い小さな花が敷き詰めたように咲いていた。名を知らない花だった。谷の他のどこにも生えていない。塔と同じ、何にも属さない白だった。
「……」
背中で少女が息を呑む音がした。
スイの肩の後ろで体が固まっている。この霧に入った時とは違う固まり方だった。恐怖ではなかった
「シア」
「――なんでもない」
「なんでもねえ、って顔じゃねえだろ」
「なんでもない、って言ってるの」
嘘だった。強がりだった。スイはその強がりに深く突っ込まないことにした。
「――俺の知ってる地図に、こんなもん載ってねえぞ」
男は白い塔を下から見上げていた。
「あんた、地図なんか持ってねえだろ」
「頭ん中の地図の話だ。仕事の関係でな、南の山、北の山、辺境まで大体は入ってる」
――仕事、と男は言った。
スイはその一言を拾った。今日の男はいつもより言葉数が少ない。少ないぶん、口が滑る。仕事、というのが具体的に何なのかは、まだ聞かないでおいた。
「――そのどこにも、こんな白いのはねえよ」
三人は塔の根方まで歩いた。
近づくと塔の白の意味が少し変わった。遠くから見た時は白い石に見えた。近くで見ると石でも金属でも磁器でもない。触ってはいけない気がする、そういう白だった。
スイは掌を伸ばした。伸ばして、触れる寸前で止めた。
――肌が拾わなかった。
塔の表面に押し出した空気が届いていない。触れる前に、そこにあるはずのものが無い。
「……なんだこれ」
「触るなよ、我が弟」
男の声が初めて低くなった。
「触った瞬間、なくなるかもしれねえぞ、その手が」
塔の周りを一周した。
扉がなかった。窓もない。継ぎ目もない。ただ白い滑らかな表面がぐるりと閉じていた。足元の白い花だけが、静かに三人の靴の縁に触れていた。
「――降りて」
少女が初めて声を強くした。
「降りて。私、歩く」
「あ?」
「歩くの」
声の芯が少し違った。覚悟に近いものが混じっていた。
スイは少し迷って少女を下ろした。修道服の白と黒が、白い花の敷き詰められた根方に、ぽつりと立った。
少女は塔を見上げていた。しばらく動かなかった。
スイは、口の中で呟いた。
「……最近、なんかさ」
「なんだ」
「同じような見た目のやつにばっか、会ってねえか、俺」
その、瞬間だった。
「――こんにちは」
声が塔の裏側から回ってきた。
軽い声だった。挨拶に少しだけ抑揚がついていて、その抑揚の位置が意図してつけたというより、癖でついている感じがした。鼻歌の途中で人と会って、そのまま挨拶に切り替えたような、そういう軽さだった。
スイは振り返った。
塔の根方に、女が立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。三人が塔を一周した時にはいなかった。少女を下ろした時にもいなかった。スイが振り返る、その一拍の間にそこにいた。
小さい。
スイより頭ひとつ、いや、それより少し低い。だがシアよりは頭半分、高い。二人の背丈の間にちょうど収まる背丈だった。
深い赤の外套を纏っている。丈は膝下まであって、フードが背に落ちて、下から白い髪が零れていた。肩の少し下のあたりで髪の段が分かれて、その先だけが柔らかく内側へ巻いている。誰かが定期的に整えている髪だった。
――赤い眼がこちらを見ていた。
「君たちを、待っていたよ」
同じ調子だった。真面目な話をしているようで、抑揚だけが軽い。
スイは動けなかった。
肌が何も拾わなかった。塔と同じだ。この女は塔と同じ側にいる。押し出した空気が届く前に消えている。だが恐ろしくはなかった。害意も殺気もそこには載っていない。
「――」
男が無言のまま拳を握った。握って、そして力を抜いた。
男の背中をスイは見ていた。ライはこの女を見て、雷を灯さないと決めた。この一日で見た、ライの初めての反応だった。
――戦う相手じゃない、と、この男の背中が言っていた。
女はシアを見ていた。シアも女を見ていた。しばらく二人とも動かなかった。塔の根方で、白と白が向かい合っていた。赤い外套と、修道服。同じ色の目をした二人がそこにいた。
「――君は」
女は少しだけ目を細めた。
「……ずいぶん、久しぶりだね」
その時少女のその眼から光の位置が変わった。この一日でスイは、この少女の眼が”動く”のをほとんど見ていなかった。今、動いた。何かを見た。ずっと前に見たことのあるものを、もう一度見た――そういう動き方だった。
女は視線を静かに離し、今度はスイを見た。
「君も。ずいぶん遠くまで来たね、海の子」
「……なんで、それを」
「歩いてきた足の運びと、右腕の庇い方と、そこに立つだけで少し湿る空気で、大体は分かる」
女は少し笑ったようだった。目の位置は動かなかった。
最後にライを見た。
「そちらの方は、ブラッドの人かな」
空気が、そこで止まった。
スイの背が、遅れて冷えた。
――ブラッド。
その名は帝都で虚空が口にした。この地上で、十王でも進んで喧嘩したくないと言われている組織。館の下に立っていた白い外套。あの、細身で背筋の異様に伸びた若い男。名はレン、と呼ばれていた。
そのレンの隣に並ぶ椅子が、今、目の前の男の椅子だった。
――そういうことか。
スイはこの一日のライの動きを一度に思い出した。魔獣の湧きの数を数えていたこと。骨の詰まり方を触れただけで見抜いたこと。この山の何処に何が湧くかを、当たり前の顔で知っていたこと。全部、レンと同じ椅子に座る人間なら、納得のいく話だった。
「……あー」
男は頭を掻いた。
「バレるかァ、そりゃ」
嫌がる素振りは一切なかった。むしろ、面倒くさそうに、笑った。
「悪ィな、我が弟。先に言っとくべきだったな」
「“ライ・マックス”。ブラッド五席だ」
男は自分の胸を親指で示した。
「今は仕事の途中じゃねえ。帝都が消えた時に俺も飛ばされた。命令は途中で切れてる。誰も俺を追ってねえし、俺も誰も追ってねえ」
男はそこで、ふ、と息を吐いた。
「弟がもう一人いるって話をしたよな」
「ん?ああ」
「血は繋がってねえ。ガキの頃、皇帝に拾われた奴でな」
男は掌を胸の前で振った。
「拾われた時、そいつ、自分の名前を持ってなかった。名字も名前もな。だから皇帝が付けた。――レンだ。それ一個だけ」
「……レン」
「知ってるだろ、我が弟」
「知ってる…闘ったしな」
スイは動きが止まっていた。
あの朝、館の下に立っていた若い男。感情の読めない静かな顔で、抜き身の刃をこの喉に伸ばした男。あの男の名が、名字のない一名きりだった意味を、たった今、教えられた。
この兄弟の家は、そういう並びをしている家だった。
「――怒るか、我が弟」
「怒らねえよ」
スイは短く答えた。
「あんた、助けてくれたし、兄名乗ってから一回もこっちを見下さなかった。それだけで、じゅうぶんだ」
「――義弟のほうは、また今度な」
「話、早ェな。うちの弟は」
男は初めて、目の奥まで、素直に笑った。
「――良い弟だね、君は」
女は挨拶と同じ調子で口を挟んだ。
「疲れているだろう。話は中で」
女は塔のほうを指した。指した先の白い壁に、いつの間にか扉があった。さっき一周した時にはなかった。継ぎ目もなかった。今、そこにある。
「……あんた、名前は」
やっとそれだけ聞いた。
「――“グリム=ヴィルヘルミナ”」
白い髪が赤い外套の上でゆっくり揺れた。
「グリムと呼んで。――ようこそ、私の塔へ」
白い扉が音もなく内側へ開いた。
中は暗くはなかった。外の白よりもずっと落ち着いた、温かい灯りの色がそこから漏れていた。
塔の中は、書架だった。
壁一面、天井まで、本と巻物と石板が積まれていた。円形の内壁に沿って書棚が螺旋を描いて上へ伸びている。天井は見えない。書棚の螺旋がそのまま上へ吸い込まれて消えている。
空気が乾いていた。谷の湿った土の匂いが、扉を潜った瞬間に消えて、代わりに古い紙と乾いた木の匂いが立った。
中央に卓と椅子。四人分。あらかじめ置いてあった。
卓の上には燭台が三本、細い蝋燭で灯っていた。書棚の間の柱ごとにも同じ蝋燭が一本ずつ点いていて、螺旋の書棚を上まで淡く照らしている。
ライが「なんだこりゃ、帝国の大書庫より多いぞ」と口の中で唸った。この一日で、この男が初めて素の驚きを漏らした瞬間だった。
「掛けて」
女は言いながら、卓の端で茶を淹れはじめた。手つきに迷いがなかった。何十年も、いや、それよりもっと長く同じ動作をしてきた手つきだった。
「連れ合いが、これを淹れるのが上手くてね」
ぽつり、と女は言った。
「私は下手なほう」
――連れ合い、という言葉を、スイは背中で拾った。
この女に誰かがいる。あるいは、いた。それだけを、この女は今、一度だけ言った。
シアは椅子の縁に腰を下ろしていた。膝の上で修道服の裾を握っていた。指の力が強かった。
茶が出た。湯気だけが卓の上で四つ、細く上がった。花のような、しかし花ではない、乾いた葉の香りがした。ヤマトの奥地でしか採れない葉だ、と後で女はぽつり付け足した。
「――まず、この塔の話をしよう」
女は自分の茶碗を両手で包んだ。
「言の葉の塔。私の父が建てた」
「……父」
「観測のアルケーの持ち主でね。世界のあらゆる出来事を、遠くからでも見ることができた人。その父が、ここに一本の塔を建てて、世界の歴史を記しておくと決めた」
女は書棚の上のほうを、蝋燭の光の届かないあたりを、指した。
「あの上まで、全部、記録。世界のどこかで何かが起こると、この塔がそれを写す。私はそれを読む。記す。整える」
「――だから、この塔の管理人は、代を通じて一人と決まっている。二人いたら、記録がずれる。三人いたら、争いになる。だから一人。世界と、そういう世誓を交わした」
――世誓。
スイはその言葉を、市王ルミエルの掌の上の宝石で見ていた。だが今、この女の口から出ると、意味の重さが違った。
「私の代で、もう長い。父の代を含めれば、もっと長い」
「……どのくらいだよ」
女は少し、笑った。
「勇者と魔王が世界を回っていた頃には、私はもう、ここにいた」
スイは、茶碗の縁を掴む指の力が抜けた。
勇者と魔王、というのは、大昔の話だ。バルドが煙管の煙の向こうで、たった一晩、話してくれたことがある。世界のあちこちを回って、悪いものを鎮めた者たちがいた、と。あの人は、それを「昔話」と呼んだ。子供に聞かせる類の。
その”昔話”の頃に、この女は、もう既に、ここに座っていた。
「私と、もう一人、姉妹がいる。妹」
女は湯気の向こうで、静かに続けた。
「妹の名は、虚空。原初派を率いている、あの子」
スイは、茶碗を、卓に置いた。
――虚空。
あの白髪の、薄い二位の女。“間に合わない”という顔をして、白い光の中で手を伸ばしてきた、あの女が。
この目の前の女の、妹だった。
「あの子も、私と同じ頃に生まれた。長く生きているよ、私たちは」
女は自分の茶碗を置いた。
「ああ、言っておくね」
女はシアを見た。
「この子は、私の妹じゃないよ」
「――」
「血縁ではあるけれど、妹ではない。それだけ、私の妹はずいぶん気にかけている様だけどね」
女はそれきり、その話を切った。切ったが、切った、という事実だけが卓の上に細く残った。
スイはその”血縁”という言葉を拾った。拾って、口には出さなかった。
「――さて。塔の話が済んだから、世界の話をしよう」
女は前置きもなく続けた。挨拶と同じ抑揚で。
「昔ね。世界の最初のほうで、大きな戦があった。第一次根源大戦…戦争の始まり。」
「原初の神と、終焉の神と、それぞれの側についた者たち。どちらが勝ったのかは、はっきりしない。ただ、その戦の終わりに、使徒と呼ばれる者たちが――七体、封印された」
「……七体」
「そう。七」
女はきっぱりと言った。
「今あるでしょう。七戒、というのが。あれはその使徒の数に準えて、ずっと後で組織された席。だから七つ」
「――知ってる」
男が短く答えた。
「その戦の後にね、世界が変わった」
女は書棚のほうを軽く指した。
「神の破片が、世界中に降った。細かい破片は――根源石」
「便利でしょう。夜も明るい。船も浮く。荷車も走る」
女は少し、笑ったようだった。
「昔はね、こういう便利なものを、たくさん作る人がいたんだよ。今はもうあまりいないけれど」
「人はそれ以上を、欲しがらなくなった。だから、本当はもっと進むはずだった技術が、全部、止まっている」
「――ただ、細かい破片の話だけじゃない」
女は少し、身を乗り出した。
「破片の中で、一番大きな一つは、人の手には拾えなかった。あれは、世界そのものに降り注いだ」
「その日から、この世界には少しだけ自我が生まれた」
「……自我?」
「世界が、自分の意思を持つようになった」
女は卓の縁を、指の先で撫でた。
「人と、直接、契約ができるようになった。何かを差し出して、何かを引き出す。あれを、世誓と呼ぶ」
――スイは思い出した。
帝都の会議で市王ルミエルが天へ翳した掌の先。あの、文字とも印ともつかない古い形。宝石を一つ、また一つと砕きながら、世界そのものと交わした約束。あれの正体を、この女は今、静かに教えていた。
「そしてね」
女は続けた。
「世界に自我が生まれたのと同じ頃、人にも変化があった」
「アルケー。あれが、その時から人に発現しはじめた」
「――アルケーって、その時からか」
「そう。それまでの人は、根源力を、体の中に持っていなかった。破片が降って、世界が自我を持って、そこから、人はひとつずつ、根源を授かるようになった」
女は茶を含んだ。
「魔族も魔王も、この頃に生まれた。終わらせるほうの破片が、寄り集まって形を持ったもの。アルケーが人に発現したのと、裏側の話」
――スイは、しばらく黙った。
この一日で、自分の掌の水が神の破片からきていることは、なんとなく分かった。だが、それが世界に自我を与えた出来事の”裏側”であるとまでは、思っていなかった。
自分の水と、市王の世誓と、ソルグの元締めの黒い角と、あの魔獣の湧きが、全部、同じ一枚の絵の中に描かれている。
「――ついでに、名前の話もしておこう」
女は続けた。
「君たちが今使っている言葉。世誓。秘技。奥義。根源石。十王。七戒。――全部、ヤマトの言葉」
「……ヤマト?」
「東の島国連合。神津洲を都に持つ、刀鍛冶と職人の国」
「世界の技や現象や、組織に、名を与える権利。あの国が、世界や帝国と契約している」
「そちらのお兄さんの秘技も、雷掌、雷脚、というでしょう。ヤマトの音だね」
「……そう言われりゃ、そうだな、つか何で知ってんだよ…」
「他の言葉ではその技を呼べない。世誓というのはそういうもの」
――スイの水も同じだった。水打、水無月。あの浜の老人も、剣の里の里の者も、みな同じ音で呼んだ。自分が独自に付けた名だと思っていた。世界のほうが、それをその音でしか呼ばないと決めていたのだ。
「――そして、その戦の後にね」
女はそこで、初めて声を少しだけ落とした。
「あるはずのものが、あるはずの場所から、消えた」
「……消えた?」
「今も、ほとんど誰も気づいていない」
女は椅子の背に体を預けた。
「最近の学問の話をしよう。世界のあちこちに、明らかに不自然な点がある。理屈の合わない技術が、経緯もなく完成形で残っている。誰が作ったのか、いつ作られたのか、分からない」
「――それを、一人の存在…矛盾を紡いで行った結果行き着いた最初の天理の”遺産”だと結論づけた人たちがいる」
「その人のことは、世界の記憶ごと、その一部分が抜け落ちている」
「だから、こう呼ぶ」
「――第一忘却」
沈黙が、卓の上に落ちた。
湯気だけが、四つ、静かに昇っていた。
「……初めて聞くぜ、そんな話」
男の声が、いつもより一段、静かだった。
「俺の職場でも、聞いたことがねえ」
「そうだろうね」
女は肯定した。
「これを知っているのは、たぶん、この塔で私だけ。妹にも、話していない」
シアが、こちらを、ちらりと見た。
その視線を、女は正確に受け止めた。だが何も言わなかった。
「――今日はここまでにしよう」
女は湯気の向こうで、また元の抑揚に戻った。
「泊まっていくといい。上に部屋が三つ、ある」
その、瞬間だった。
女の指が、茶碗の縁で、ぴくり、と止まった。
「……あら」
女は湯気の向こうで、静かに目を上げた。書棚の螺旋の、遥か上のほうを見ていた。
「今、どこかの街が、変になったね」
「……変?」
「詳しくは分からない。ただ、私の記録が、勝手に一頁、書きはじめている」
女は少し、目を細めた。
「――こういう書き方は、久しぶりだよ」
塔の中の蝋燭が、一度だけ、揃って揺れた。
書棚の螺旋の上のほう、灯りの届かない暗がりで、微かに、紙が撫でられる音がした。
塔の外で、日が霧の上のどこかに沈んだ。
白い塔の中だけが、静かな灯りで満ちていた。




