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第44話 波紋

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】

“第44話 波紋”


 水は投げ込まれたものの形をよく覚える。


 石でも、指でも、木の葉でも。落ちた場所から円が広がり、しばらくのあいだ、そこに何があったかを水面に刻む。


 ――人の技も、たぶんそんなふうに残る。


           


 斜面を降りきると木立の切れた平場に出た。


 小さな窪地だった。頭上の梢が丸く抜けて灰色の空が広く見える。魔獣の匂いはもうしない。


 スイは背中のシアをそっと下ろした。


 少女は修道服の裾を払って、しばらく足元の草を睨んでいた。長く背負われていた体を地に馴染ませているようだった。それから近くの木の根に腰を落とし、両膝を抱えて三角に丸まる。修道服の白と黒が灰色の平場のなかでそこだけ小さく際立った。


「……重かったでしょ」

「言ったろ、平気だって」

「嘘つき」


           


 その視界を、ばち! と青が舐めた。


 ライが平場の反対側で拳を握って立っていた。指の隙間からまだ火花が漏れている。今しがた意図して灯した火だった。


「よ、あんちゃん」

「ちょっとやろうぜ、俺と」


「……はァ?」


「海の民だぞ、あんた。骨と肉の詰まりが人のそれじゃねえ。そんなもん教会の紙でしか見たことねえんだよ! 拳が通るのか通らねえのか、触ってみねえと分かんねえだろ!」


「たった今、助けてもらったばっかだぞ俺」


「だからだよ!」


 男は肩を回した。関節が鳴った。


「腹減ってる時にな、目の前に大好物置かれてんだ。じっと待ってられんのか、あんちゃん!」


「……置いてねえよ、俺は」

「置いてんだよ、そこに。俺の目にはな!」


           


 スイはシアを見た。三角に丸まったまま少女は膝の上に顎を乗せている。呆れた顔で片手を軽く振った。行ってこい、という手つきだった。


「勝手にすれば。あの人、殺しには来てないもの」


 ――少女の観察は正確だった。ライの目は殺気の質ではない。もっと単純な、飢えに似た顔をしている。


 スイは息を吐いた。ため息だった。それから両手を軽く払って、平場の中央へ一歩出た。


「――一本だけだぞ」

「上等!」


           


 ライが踏み込んだ。


     バリッ!


 地を蹴った足の裏で青が弾ける。踏み込んだ距離が二歩ぶん伸びた。地を叩いた反動を雷で押し出す踏み込みだった。


「秘技――雷掌!」


 右の掌が真下から胸元へ差し込まれてくる。開いた掌の中央に青白い光が一点、球のように凝っていた。触れた瞬間にその一点をこちらの胸へ叩き込む形。拳ではない。掌底で押し込むぶん、避けにくい。


 ――速い。


 スイは半歩だけ体を斜めに開いた。避けきる距離ではない。ライの掌が胸に触れる寸前、その手首と自分の胸のあいだへ、右手の水を薄く一枚、割り込ませた。


     バチィッ!


 凝った光の一点が水の膜で真横へ弾けた。


 束ねられた雷が行き場をなくして四方へ散る。パチ、パチ、と火花が空を焼き、ライの掌はスイの胸に触れる寸前で力を失って空を撫でた。


 同じ動作の返しで、スイは水を纏ったままの右の掌をライの胸へ返した。押し込みではない。触れる程度の突き。ただ触れるだけでも、密度を上げた水は硬い。


     ドッ!


 ライの体が半歩、後ろへ滑った。


「――お」


 男の眉が動いた。


「今の、何した」

「散らして、突いた」

「散らして?」

「あんたが束ねる前に、水一枚挟んだ」


           


 ――スイの肌はそれをずっと拾っていた。


 助けに入られた時から、この男の体の表面をごく薄い雷が常時循環している。派手には見えない。息をするのと同じ拍で皮膚の下をばち、ばちと流れ続けている。


 技を出す時だけその循環が一点へ束ねられる。掌の中央でも、拳の先でも、足の裏でも。束ねる場所を変えるだけで雷掌にも他の技にもなる。


 ――なら、束ねる前に水を挟んでやればいい。


 水は電気を通す。通した先で薄く広げていれば、束ねる力そのものが分散される。技の”束”を発動の瞬間に散らせる。散らせるだけでは終わらない。同じ水はそのまま殴り返しにも使える。


 ――守って、返す。それが水の性分だった。


 雷は逆だ。ライが体に薄く雷を回しているのは、殴られた瞬間にその雷を撃ち手へ流し返すためだ。触れたら、返す。カウンターの形だ。この男は、殴られる前提で戦っている。


 二つの防御は同じ方向を向いていて、返し方の速さが違う。


「あんた、体中に常に雷、流してんだろ」

「――」


 初めて男の口が笑いの形を崩した。


「……はっ。マジかよ、そんなもん見えんのかよあんたに」

「見えねえよ。感じんだよ。俺、水だからな」


           


 スイは次に、その水を体の外側へ回した。


 両腕。両脚。首元。足首。薄く均等に。ライの雷がまとった循環を水でなぞる。


 ――これは、無意識にはやっていたことだ。


 深く潜った日、海の底の圧に押されないように体の外で水を薄く回した。剣王の田で、ヴィスの前で、獣王の三度目で。この体はそれを勝手に纏っていた。意識してやったのは初めてだった。


 スイの掌の中で水が硬く絞られていく。


「――ふうん」


 男が笑った。今度は目の奥まで届いていた。


「あんちゃん、あんた今、水を拳に纏わせる技の要領で全身を覆ったな」

「……分かんのかよ」

「分かるさ。密度の上げ方が同じだ。掌の一点でやってたのを全身に伸ばしただけだろ」


 男は口の端を上げた。


「秘技だな、それ。俺の雷掌と雷脚と同じ位だ」

「――」

「他にはねえのか」


「……もう一個ある」

「なんだ」

「水無月」

「効き目は」

「獣王に効いた」


 男は口笛を吹いた。


「奥義持ちかよ、その歳で!反則だぜ、あんちゃん!」


           


 ライは傍らの木の枝から蔓を一本引き剥がした。


「けどな。こっちも遊ぶ手はある」


     バチッ!


 蔓の端を雷掌で軽く焼く。焦げた端が固まって握りになった。もう片方の端を頭上の枝へ投げる。蔓が絡んだ。


「ほらな」


 男は蔓を引いた。ぐん、と体が地から離れる。次の枝へ跳ぶ。そこからさらに上の枝へ。


 ――地を離れた。


 平場を捨て、木々の枝を回廊にして、ライの体が上下左右へ跳ね回る。地に足のついた戦いを、この男はたった一本の蔓で丸ごと降りた。


「秘技――雷脚!」


     ヒュン!


 上の枝から下向きに蹴りが落ちてきた。踵の底に青が集まっている。狙いはスイの左肩。


 スイは体を右へ流した。落ちてきた蹴りの内側へ、左足を割り込ませる。


「――水脚!」


 名は口にしてから決めた。ライがたった今やってみせた足の技を水でなぞっただけだ。密度を上げた水を左足の裏に一点、集める。雷の代わりに硬さを詰めた蹴りだった。


     バキ、パン!


 二つの膝の内側が擦れて、外れた。


 ライの蹴りは軌道が真横へ流れ、スイの肩を掠めて過ぎた。同じ動作でスイの左足は硬い水を蹴り込む向きへ返され、ライの足首を横から叩いた。


     ドッ!


 ライは空中で体勢を崩し、蔓を引いてもう一段上の枝へ跳んで逃げた。


「――は! 真似しやがったな、また!」


 男は枝の上で頭を掻いた。


「あんちゃん、それ、俺が今出した技だぞ! 一発で持ってったのかよ!」

「持ってねえよ。真似しただけだ」

「真似できねえんだよ、普通は!」


           


 ――地上と枝上。間合いが噛み合わない。


 人は頭上を殴られる前提で歩いていない。頭上、右斜め上、背後の枝の上、そのどこから来るかを、ライは蔓一本で切り替えられる。


 スイは掌の水を細く長く伸ばした。


 湧かせた水を圧して、絞って、糸のように長く固める。密度を上げれば水は硬い。あの浜で覚えた。深海の色にまで圧せば鋼より重い。その水のロープを頭上の枝へ放った。


     しゅ!


 水が絡む。硬く、確かに。


 スイはそれを引いて体を地から浮かせた。


「――は」


 枝の上で男の口が開いたまま固まった。


「……真似すんじゃねえよそこまで!」


 スイは答えなかった。次の枝へ跳ぶ。降ろした水のロープは跳ぶ動作の途中で解けて、また新しい枝へ伸びていく。湧かせては絡ませ、絡んだら引き、引いたら手放す。


 林のなかを二つの影が上下左右へ縫った。焦げた匂いと湿った匂いが交互に梢を渡る。


           


 ――やがてライが渾身の一発を出した。


 高い枝から真下へ。


「――雷掌ッ!!」


 開いた掌の中央に、これまでの倍ほどの光が凝っていた。狙いは水のロープで宙に留まったスイの、真横。


 スイは避けなかった。


 避ける代わりに、水のロープの片方を瞬時に手離した。支えを失った体が真下へ落ちる。ライの掌の軌道の、下へ。


 そして落ちる途中、スイは掌をライの手首に添えた。握りしめるのではない。触れて、水を薄く一枚、挟むだけ。


     バチィッ!


 束ねられた雷が水の一枚で散った。パチ、パチ、と掌の中央で四散して空へ逃げる。ライの掌は勢いだけを残して、スイの頬の横を掠めた。


 ――止まった。


 二人の体は宙にぶら下がったまま静止した。ライは焦げた蔓で。スイは残ったもう一本の水のロープで。


           


 ――しばらく誰も動かなかった。


           


 やがてライが、ふうっ、と息を吐いた。


「……そこで散らすかよ」

「散らしたのは、そっちの束だ」

「そりゃそうだが」


 男は蔓を伝って地に降りた。


 スイも水のロープを解いて平場に降りる。着地の膝が少しだけ笑った。


「――が、まあ」


 ライは額の鉢巻を指で押し上げた。汗で少し滲んでいる。


「そっちの体力、削れてたとはいえ、俺の勝ちだな!」


 男はにやりと笑った。今度は目の奥まで届いた笑いだった。


「少しは驚かされたぜ、海の民!」


           


「……あのな」


 スイは両膝に手をついて大きく息を吐いた。腕に回した水が表面から剥がれて地に落ちる。しゅ、と土に吸い込まれていく。


「あんちゃん、あんちゃん、って。あんた、俺といくつ違うんだよ」

「あ?」

「見た感じ、そんな変わんねえだろ」


 ライはしばらく考えた。それから指を数えた。数え終わって頭を掻いた。


「……ああ。まあ、そうかもな」

「だろ」


           


「――決めた」


 男はあっさりそう言った。


「なにを」

「戦って気に入った。あんちゃんの兄をやる!」


「はァ?」

「今日から兄だ、俺が!」


 男は自分の胸を親指で示した。


「うちに一人、下がいてな。手のかかる弟なんだよ」

「スイとは真逆の性分でな。話が合いそうにねえ弟同士だ、たぶん」


「二人で兄弟してっと、なんかこう、こじれる時がある。三人にしとくと均せるんだよ」

「――兄の俺と、下があんちゃんと、もう一人の下と。真ん中にあんちゃんを挟む」


「勝手に挟むな」

「決めた、っつってんだ!」


           


 スイはしばらく黙って、ライの顔を見ていた。


 目の奥はいつもの笑いの薄い色に戻っている。冗談を言っているようで半分は本気だった。この男はそういう決め方をする。


「……悪ィが」


 スイは地に落ちた水の跡を、足の先で撫でた。


「兄弟なら、俺、いねえよ」


「そうか」

「そうだ」


           


 ――ふいに、朝が浮かんだ。


           


 波の音が遠く。丸太に腰を下ろした腰の曲がった老人が煙管をふかしている。魚を担いで戻ってきたスイに老人がいつもの調子で言う。


『魚、獲ってこい』

『帰ってくる用事がないと、人は帰らんからな』


 ――バルドさん。


 あの人をなんと呼んでいたか。父ではない。祖父でもない。ただ、バルドさん、と呼んでいた。それだけで足りていた。血の繋がりも続柄もいらなかった。


 あれがたぶん、自分にとっての家族の全部だった。


           


 スイはそれを口にしなかった。


 口にすればなくしたことがまた濃くなる。


 だからただ、こう言った。


「けど、まあ。血の繋がってねえのなら、いた」

「――ふうん」


 男はそれ以上聞かなかった。珍しくそこで区切った。目の奥の色がほんの半拍だけ和らいだ気がした。気のせいかもしれなかった。


「じゃあ今日から俺が兄だ!」

「聞いてねえよ」

「弟の話は二回まで聞く。それ以上は聞かん。兄の特権だ!」

「無茶苦茶だな」


「スイじゃなくて、これからは我が弟”スイ”な!」


 ――名前を、覚えた。


 スイはその事実に、なぜか胸のどこかがつかえた。港でガルドは最後まで”ガキ”だった。虚空も、しばらく”海の民”だった。名前を呼ばれるまでに、いつも一手間かかる。


 この男は兄を名乗ると決めた瞬間に、名前を呼び方に切り替えた。順番が逆だった。


           


「――ばか」


 背後から声がした。


 三角座りを解いた少女が、修道服の裾を払いながらゆっくり歩いてくる。


「勝ち負けの前に、座って」

「座ってねえよ俺は」

「座って、って言ってるの」


 少女はスイの前に立って掌を差し出した。


「……水、出して」

「あ?」

「飲むの。私が」


 ――嘘だ。


 スイにはそれがすぐに分かった。少女は一戦のあいだ水を一滴も要求していない。今、掌を出したのは、掌に水を落とすためではなく、スイに水を出させるためだった。湧かせれば体の熱が抜ける。降ろせる。掌一杯ぶんの根源力が外に出て、そのぶんこの体は少しだけ冷える。


 ――遠回りな気遣いだった。


 スイはその掌に水を落とした。少女は口をつけて、こくり、と少しだけ飲んだ。


「……体、大事にしなさいよ」

「してるよ」

「してない。ばか」


 少女はそれだけ言って、また木の根に戻っていった。


「――優しいねえ、我が弟の連れは!」

「勝手に一族にすんな」

「兄の特権だ!」


           


 ライはあぐらをかいて地に落ちた小枝を拾った。土に丸を描く。


「――で、な、スイ」

「呼ぶなそれ、ムズムズすんだよ」

「これから呼ぶんだよ。慣れとけ」


 男は話の続きに移った。目の奥から笑いが引いていた。


「あんた、なんで今、俺らがみんな山ん中にバラけてると思う」


「派手に飛ばされた、って言ったろ、あんた」

「言った。けどな、派手に、で済ませていい話じゃねえ」


 男は円のなかに小さな点を打った。


「帝都だ。丸ごと、消えたんだよ」


「――丸ごと?」

「町一個じゃねえ。国一個、俺の勘だと帝国まるまるだ」


           


 スイは答えなかった。


 あの朝、石の間の床が渦に呑まれた。呑まれる寸前に白い髪の女がこちらへ手を伸ばして、“間に合わない”という顔をしていた。あの女が間に合わないを顔に出す。それだけであれが尋常の事態でないことは分かっていた。


 だが帝国が丸ごと、というのは想像の外だった。


「あんな真似、できる奴、そうそういねえよ」


 男は点の外側にもうひとつ大きな円を描いた。


「あの場にいた誰か、って線もある。あの派手なオネエの姉ちゃんが何かの拍子でしくじった、って線もな。けどな」


 男は円の外の何もない場所を指した。


「――あのオ姉ちゃんの力を、外から膨らませた奴がいる」


「膨らませた?」

「そういう気配がした。俺は雷だ。あの膨れ方、外から余計な電気を突っ込まれたみたいな膨れ方だった」


「その”外の誰か”は、あの場にいなかった。姿を見せねえままあれを膨らませた」

「――そんな真似ができる奴を、俺はこの世に一人しか知らねえ」


           


「終焉派の頂点だ」


「――教皇」

「そうだ。世界を終わらせるほうを拝んでる連中の、いちばん上」


 男は円を掌で消した。


「あいつが動いた。動いたら、こうなった」


           


 男はあぐらの膝を指で叩いた。


「あの派閥にはな、“隠し”がある」


「隠し?」

「精鋭だよ。表に出てこねえ、七人組だ」


 スイはその言葉を噛んだ。


「二つ名は、七戒っつう」


「使徒に準えて数を七で括ってる。頂点直属の戦力だ。詳しくは俺も知らねえ」

「知ってりゃとっくに片してるからな、こっちで」


「ただ、一人一人が、なあ」


 男は指を一本立てた。


「――十王クラスだって話だ」


           


 スイの背が冷えた。


 十王。あの朝、石の間で見た顔ぶれ。丘を翳らせた獣王が、下から数えて一番弱かった。武神。風首。鏖魔。剣王。ガルド。ルミエル。そして虚空。


 あの重さが、少なく見積もって、七つ。


           


「……ライ」


 三角座りに戻った少女が初めてこの男の名を呼んだ。


「なんで、あんたがそんなこと知ってるの」


 ライは少し笑った。目の奥は笑っていなかった。


「知ってる奴に、聞いたんだよ」


 嘘だ、とスイは思った。少女もたぶん同じことを思っている。だが二人ともそれ以上は突かなかった。


           


 男は指をもう一本立てた。


「――で、な、スイ」

「だから呼ぶな」

「その七戒に」


 男の目が少しだけ細くなった。


「――最近、一人、新しく入ったって話がある」


           


 スイの喉が鳴った。


 最近。この山に降りるより前か。それとも後か。


 男はそれを言わなかった。言わないまま、拳の雷を、ばち、と一度、鳴らした。


「――誰なのかは、まだ分かってねえ」


           


 風が平場を渡った。


 三角に丸まった少女の白い横髪が揺れた。


 揺れた先で少女の目が――ほんの一瞬だけ、木の根の下の湿った土を見ていた。


 誰もそこを見ていなかった。


 スイも、ライも。


           


 日がまた少し傾いた。灰色の空の奥のほうで、遠雷が一度だけ鳴った。

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