第43話 淀み
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
“第43話 淀み”
山だった。
名前は知らない。あの浜からも、剣の里の盆地からも、帝都からも遠い。木の背が高く、空が梢で細く切られている。土が黒く湿っていて、踏むたびに冷たさが足の裏へ上がってきた。
スイは、一日歩いていた。
背に、シアを負ったまま。
落ちた場所を、覚えていない。気づけば下生えの上に転がっていて、隣に白い髪が散っていた。それだけは覚えている。それ以外は、何ひとつ。
――散った。
グランがいない。リアがいない。虚空も、あの帝都の重さも、どこにもない。ひとつの塊だったものが、無数の粒に分かれて勝手な方角へ飛んだ。落ちる先を選べた者は、誰もいない。
背中の少女は、軽かった。
軽すぎる、と言ってもよかった。歳のわりに小さく、抱え上げた時、腕にほとんど重さがこなかった。それが、なぜか、スイには重かった。
「水、いるか」
「……いらない」
「顔白いだろ。分かんだよ背中でも」
「白いのは生まれつきなの。馬鹿ね」
それでも、スイが濡れた手を肩ごしに回すと、少女は素直に口をつけた。
掌の水は、山の水ではない。この体の内側から湧かせたものだ。剣の里で覚えた。谷で覚えた。おかげで、水のない場所でも、飲ませてやれる。
「……腕…まだ庇ってる」
「あ?」
「揺れ方でわかるの。右まだ痛いんでしょ」
スイは、右の肩を回した。帝都で外れかけた場所が、まだ少し軋む。
「降ろしてよ。私も歩く」
「いい。お前が歩くと遅ェ」
「……ふうん」
――強がりだ。お互いに。
この少女は、疲れているほど口が回る。スイはこの一日で、それを覚えた。だから背の口が減れば足を緩め、増えれば少し待つ。それが今、自分にできる数少ないことだった。
尾根に出て、風が匂いを変えた。
最初は、獣の匂いに似た何か。濡れた土の下から染み出してくる、冷たい匂い。
――違う。
スイの肌が、逆立った。
匂いではない。押し出された空気が、還ってこない。この一日、木も、獣も、風も、みなこの体に何かを届けてきた。今、斜面の下からせり上がってくるそれだけが、届く手前でぷつりと切れている。
しかも、一箇所ではなかった。
右。左。正面。背後の茂みの奥。切れている場所が、いくつもある。数えようとして、数えきれなかった。
「シア。しっかり掴まってろ」
「……何がいるの」
「分かんねえ。けど、多い」
下生えが、爆ぜた。
バキ、ゴォッ
黒いものが、一頭、斜面を駆け上がってきた。
獣だった。四つ足で、目がない。あるべき場所に窪みだけがあって、そこから何も見ていない。毛でも鱗でもない皮膚が、光を返さない。黒でも闇でもない、世界に馴染むのを拒んだ色。
ドッ
顎が、来た。
スイは、右手に水を握った。密度を上げ、芯を作り、その顎の中心へ差し込む。撃つ、というより――押し通す。
ゴ、パンッ
黒い獣が、内側から爆ぜた。焦げも血もない。ただ、崩れて、じゅ、と消えた。二度と、起き上がらない。
――軽い。
スイは、そう思った。
あの獣王を、この体は知っている。立ち上がるだけで日が翳り、腕を振れば天幕が三つ潰れた。あの一撃は、山が動いたのと同じだった。その化け物の前に二度立って、二度とも、自分の足で歩いて帰った。
この獣は、その足元にも及ばない。牙も、速さも、圧も。一頭なら、蹴散らすだけだ。造作もない。
――造作も、ないはずだった。
二頭目が、右から来た。潰す。三頭目が、左の斜面を這い上がる。逸らして、割る。
消えても、消えても、次がいる。増えているのではない。この獣は、割れも殖えもしない。ただ――もとから、この山に、掃かれるあてもなく、大量に棲んでいた。
ドドッ
四頭目が、背後から跳んだ。
――背中。
スイの、一番動かせない側。シアのいる側だ。
「――っ!」
体をひねって、辛うじて片手で薙ぎ落とす。落とした先で、二頭が同時に間合いへ入っていた。
降ろせば、戦える。両手が空く。足も自由になる。
――降ろせない。
降ろした瞬間、この少女は、四方の黒に呑まれる。降ろすという選択肢を、この状況は、最初から奪っていた。
「スイ、後ろ!」
「分かってる!」
分かっていて、手が足りない。腕は二本。守る背中は、常に一方向しか向けられない。なのに黒は、全方位に、掃いても掃いても居座り続ける。
一頭は雑魚だ。十頭でも、両手が空いていれば捌ける。
――背に守るものを負ったまま、全部を相手取ることは、できない。
――そこへ。
空が、白く裂けた。
バリバリバリッ、ズガアアンッ!!
斜面の半分が、光った。
落ちたのは雷ではない。雷を撒き散らしながら降ってきた、一人の男だった。着地の衝撃で地を這った稲妻が、黒い獣の群れを一息に舐める。十を超える影が、同時に痙攣し、同時に崩れて消えた。
その中心に、男が立っていた。
背は高くない。だが、肩の据わりが違う。金の髪をきつく後ろへ撫でつけ、根元だけが紫に沈んでいる。黄と黒の鉢巻を額に巻き、右の目尻に、雷を象った刺青が一本走っていた。
拳に、稲妻が絡んでいる。ばち、ばち、と、まだ鳴っていた。
「――おいおい。ガキ背負って、この数を相手かよ」
男は、こちらを見もせずに言った。目は、黒い群れに据わったまま。愉しそうに。
「無茶しやがる。手が足りねえに決まってんだろ、そりゃ」
「……あんた」
「喋んのは後だ。掃くぞ」
バチッ、ドゴォッ
踏み込みが、消えた。雷が地を這い、その先で男の拳が獣の腹に埋まる。一頭が吹き飛び、後ろの三頭を巻き込んで消えた。
「魔獣だよ、こいつら」
殴りながら、喋っている。
「魔族の、出来損ないだ。同じ破片から湧く。けど、こいつらは”自分”を持てなかった。喋りもしねえ、考えもしねえ。ただ、そのへんに這いつくばってるだけの――なりそこないだ」
ズガンッ、バリバリッ
「一頭は雑魚だ。お前でも潰せてたろ。核がねえから急所は突けねえが、削りゃ消える。それだけの相手だ」
男は、両拳に雷を溜めた。鉢巻の下で、右目の刺青が青白く照り返す。
「――厄介なのは、こいつらが”多い”ってことだけだ。だからな」
「一頭ずつ数えてる暇があったら、まとめて掃くんだよ!」
バリバリバリバリッ!!
雷が、斜面を面で薙いだ。
這うものを、片端から焼き、崩す。黒い獣たちは、逃げも群れもせず、ただそこに在ったぶんだけ消えていく。最後の一頭が崩れて、山に、静けさが戻った。
焦げた匂いだけが、風に流れていく。スイは、膝に手をついて息を整えた。背中で、シアの指が、まだ襟をきつく握っている。
男は、拳の雷を払って、ようやくこちらを向いた。
「ライだ」
名だけを、放った。
「気づいたら、こんな山ん中にいた。あんたらもだろ」
「……ああ」
「派手に飛ばされたよなァ、みんな」
男は、無造作にスイの腕を掴んだ。持ち上げるように、二、三度、揺する。
「――っと。なんだ、この体」
その目が、初めて、細くなった。
「細ェのに、鉛みてえに重ェ。骨も、肉も、詰まり方が人のそれじゃねえ。同じ図体で、中身が三人ぶんは入ってやがる」
スイの背が、冷えた。
「海の民か。――なるほどな。道理で、水なわけだ」
――今、この男は、この体の中身を、触っただけで数えた。
海の民。その言葉なら、世界中の教会に貼られている。珍しくはない。だが、骨の詰まり方まで一撫でで見抜く人間は、教会の紙を諳んじる田舎者の側には、いない。
「……スイ」
背中で、少女が耳打ちした。小声だった。
「あの人信用しちゃ駄目」
「分かってる」
「分かってないでしょ」
スイは、ライを見た。
笑っている。口も、頬も。だが、シアの言うとおりだった。右目の刺青の奥だけが、一度も笑っていない。
「聞こえてるぞ、お嬢ちゃん」
「聞かせてるのよ」
「はっ。いい性格だ」
男は、悪びれもせず肩をすくめた。
「まあ、警戒しとけ。そのほうが長生きする」
スイは、消えた獣のあとを見ていた。
黒は、あとかたもない。這っていた土だけが、そこだけ色を失って残っている。
――なんで、こんな数が。
魔獣は、雑魚だ。一頭なら、雑魚のはずだ。それが、この山の斜面ひとつに、数える気も失せるほど棲んでいた。
ライも、その跡を見ていた。
笑いが、そこにはなかった。
「……こんな数、いるはずがねえんだよ」
低い声だった。こちらへ言ったのではない。独り言だった。
「こいつらは、増えねえ。割れもしねえ。ただ湧いて、そこにいるだけだ。――なのに、最近、やたら多い。どこの山も、だ」
スイは、聞かなかったふりをした。
聞いてしまえば、問わねばならなくなる。なぜ、ただの通りすがりが、どこの山の魔獣まで数えているのか。なぜ、“最近”を知っているのか。
問えば、この男は笑って誤魔化すだろう。
だから、聞かなかった。代わりに、背の少女を負い直して、立った。
――行く当ては、ない。
どこに人がいるのかも、どこへ行けばグランやリアに近づくのかも、分からない。分かっているのは、この山が、掃かれるあてのないものを、静かに溜め込みはじめているということだけだ。
胸の奥が、また熱い。
黒い獣の消えた斜面の、そのさらに下。谷の霧が、ゆっくりと動いていた。
まるで、何かが息をしているみたいに。




