第42話 散り水
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
“第42話 散り水”
水は、砕ける。
高いところから落ちれば、ひとつの塊は無数の粒に分かれて、二度と元には戻らない。どこへ飛んだかも、分からぬまま。
その日、帝国という名の水が、砕けた。
冷たい土の匂いで、目が覚めた。
見上げた空は、帝都のそれではなかった。低く、灰色で、知らない木々の梢が風にざわめいている。石畳も、玉座も、あの重い気配も、何ひとつない。
深い、山の奥だった。
「……どこだ、ここ」
半身を起こす。全身が軋んだ。それでも、生きている。
隣で、白い髪が土に散っていた。修道服の少女が、丸くなって倒れている。肩に触れると、赤い眼が、うっすらと開いた。
「……いた。海の民」
「スイだ。名前くらい覚えろよ」
「知らないわよ。海の民は海の民でしょ」
憎まれ口を叩く。それでも、まだ立てずにいる。スイは黙って、その小さな体を背負った。文句が飛んでくるかと思ったが、来なかった。細い指が、襟を掴んで、離さないだけだった。
「グラン。リア。……いねえのか」
呼んでも、山は答えない。返るのは、梢のざわめきと、自分の声の残響だけ。あの巨漢も、あの剣士も、そしてあの白髪の女もどこにもいなかった。
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石が、山と積まれていた。荷だ。木箱が、天井まで。見たこともない量の。
「……蔵か、こりゃ」
巨漢が瓦礫を払って立つ。その傍らで、リアが折れた剣の柄を握り、周囲を睨んでいた。
「グラン。誰かいる。それも大勢だ」
薄闇の奥から、華やかな声がした。
「あらあら。あたしの蔵に、直に落ちてくるお客なんて。よっぽど縁があるのねえ」
宝石を鏤めた長身が、荷の陰から現れる。あの大転移の、中心にいた女…?。市王ルミエルだった。
「――あんたか。ちょうどいい」
グランは、両手を挙げた。だが、その口元は笑っていた。焼けた村を思い、誰も飢えぬ商いを誓った、あの日の顔で。
「詫びるぜ。あんたの蔵に、無断で落ちた。そのうえで、話がある。商売の話だ」
ルミエルの、扇の動きが止まった。それから、くすり、と笑う。
「商売。あなたが、あたしと?」
その声に、初めて冷たい棘が混じった。値踏みされている。この女は今、グランという男に値をつけ、そして――安い、と判じていた。
「悪いけど、うちは物乞いと商談はしない主義なの」
パチン、と扇が閉じた。それが合図だった。
荷の陰から、揃いの外套の男たちが音もなく滲み出る。手には短刀。
「うちの子たちが、お相手するわ。生き延びたら、そのとき話を聞いてあげる」
「……接し方を間違えたか?グラン」
「ああ。だが悪くねえ。値をつけられたってことは、見てはもらえたってことだ」
巨漢が、拳を鳴らす。
――ごき、と。
ボルク商会の、最初の商談。それは、言葉ではなく、拳で始まった。
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何も残らなかった帝都に、円く、地面が残っていた。
半径にして百歩ばかり。そこだけが世界から引き剥がされるのを拒んだように崩れずにいる。まるで、見えない一本の軸が、その一点を地に打ち留めているかのように。
その中心に、冠のない男が、玉座の残骸に背を預けて座っていた。皇帝アルド・グライン。
そこへ、白い髪の女が、瓦礫を踏んで歩いてきた。
「生きていたか。皇帝」
「お前もな。二番目」
二人は、しばらく、崩れ落ちた帝都を眺めていた。
「妙な残り方だ。この一区画だけ、綺麗に無事とは。――お前の力か」
「引き剥がされるものは、留めればいい。それだけだ」
男の声は、短い。だが、その”それだけ”が、国の一片を、虚無の縁から繋ぎ止めていた。
「私が踏みとどまれたのも、似たようなものだ」
女は、瓦礫に腰を下ろし、煙管に火を移した。
「あの回廊の暴走。あれは元々、たった一人を飛ばすために絞られた力だった。だから、どれだけ膨れても、狙いはその一人に向いたままでな。他へは、そこまで馴染まなかった。おかげで私は、原理を掴んで、この身を留められた」
細い煙が、灰色の空へ昇っていく。
「皮肉なものだ。たった一人を消そうとした力が、国をひとつ、丸ごと消した」
「その一人とは」
「黒衣の男だ。名も素性も掴めていない。ただ――おそらく2人目の海の民で…この世の理から、半歩、外れている」
皇帝は、答えなかった。ただ、灰色の空を見上げる。その眼の奥で、寡黙の裏に沈めていた王としての何かが、静かに、燃えはじめていた。
「――誰が仕組んだか、見当はついている」
「奇遇だな。私もだ」
二人の視線が、同じ方角を向いた。ここにいない、頂点のほうへ。
⸻
――そして、その少し前。獣王の、国。
高い、玉座の間だった。
床には、兵が倒れ伏している。数えるのも億劫なほど。その骸の上を、ひとりの男が、鼻歌混じりに、歩いていた。
「♪ ひとつ数えて 首がひとつ」
軽やかで、耳に残る節だった。
「♪ ふたつ数えて 国がひとつ」
どこかで聞いた気がして、けれど誰も知らない歌。当然だった。この男が今この場で作ったのだから。
「♪ みっつ数えりゃ 世界が傾ぐ……♪」
ヴィス・ノーレン。値をつける男が
おそらく自らが手にかけたであろう骸を踏み台に
玉座へと登っていく。
どさりと。かつての主人、獣王の座に腰を下ろした。
その胸元で、何かが、鈍く光る。古い装飾品だった。指輪とも、首飾りともつかぬ、いびつな形
男は、脚を組み頬杖をついた。誰もいないはずの玉座の間へ。あるいは、はるか遠くのたった一人へ。
微笑んだまま、こう言った。
「さて。舞台はそろそろ、整いますよ。――教皇」
“第1章 完”
“第2章 第一幕 グリム編 ――開始”




