第41話 神隠しの治世
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
“第41話 神隠しの治世”
消えてくれ、とその男は言った。まるで、朝の挨拶のように。
スイの体が、床を蹴っていた。頭ではない。渓谷で刻み込まれた恐怖が、勝手に、逃げろと叫んでいた。
だが、逃げる先も、男は読んでいた。指先で、二つ目の水球が凝る。狙いは、跳んだ先。もう、避けきれない。
――どっ!
その水球を、横合いから、拳が撃ち抜いた。
獅子頭の大男が、卓を飛び越えている。武神レオニス。五番目が、石を踏み割って、フードの男へ肉薄していた。
「がはは! いい面構えだ 小僧!」
拳が唸る。空気が爆ぜた。丘ひとつ崩しそうな一撃が、フードの真芯へ吸い込まれていく。
――当たらない。
男は、半歩、退いただけだった。振り向きもせず。拳の通り道から、たった半歩、体をずらす。それだけで、武神の全力が、空を切った。
「……ほう」
大男の笑みが、初めて固くなる。当てられなかったのではない。当てさせて、もらえなかった。その差を、この戦闘狂は、拳の先で正確に読んでいた。
武神が、身を捻る。返す肘。踏み込む膝。地を割る踵。丘を崩す膂力が、間断なく、フードへ叩き込まれていく。
――どッ、どどッ!
石の間が、鳴動した。卓が跳ね、床が砕け、破片が霰のように舞う。それでも、男は、当たらない。
紙一重ではなかった。もっと、薄い。拳が、確かに男の体を、通り抜けたように見える。すり抜けた、と誰もが錯覚するほどの――物と物が、髪一筋だけ、掠めて交わる、極限の見切り。
「――なんじゃ今の、儂の拳は貴様を 貫いたはず!面白い!」
「見えたものが当たったとは限らんだろう」
男の声は、平らなままだった。
スイの背に、氷が走った。知っている、この現象を。渓谷で、まさにこの男が見せた技だ。斬ったはずが、避けられてすらいなかった。避けていないように、錯覚させられていた。
「――武神。下がれ」
涼やかな声が、飛んだ。
いつのまにか、風首が、卓の反対から間合いを詰めている。ただし、抜いていない。刃を握ってすらいない。ぼやけた輪郭のまま、一つきりの右目で、フードの”底”を、測っていた。
「拳では届かん。信じられんが神技レベルの避けだ、当てさせる隙を こちらから作らねば――」
「そう来るか。だが 遅い」
男の指が、跳ねた。
――生まれた水が、八つに、割れた。
八条の水刃が、同じ一拍のうちに、風首の急所を、八方から食い破ろうとする。速い。同時。逃げ場がない。
――剣の里の、秘技。八重。
壁際で、リアが、息を呑んだ。
「――覚えやがったか」
自分の血が、八千年守ってきた技だった。里の外の、それも、水で。ありえない。ありえないものを、この男は、事もなげに振るっている。
「――“あの時” 見せてもらったのでな」
風首は、辛うじて、八条の四つを逸らし、二つを躱し、残る二つを、腕で受けた。包帯の下から、細い血が、糸を引く。
「……久しく 傷を負っておらんな。私も」
一つきりの右目が、初めて、獲物を見る色に、細くなった。
「面白い。名を聞いておこう。貴様…何者だ」
「久しいな…風首」
男が、静かに言った。
「――いや。今の俺にとっては初めましてか」
風首の、右目が、見開かれた。
「……何を、言っている」
会ったことのない男が、旧知のように名を呼ぶ。その齟齬に、分析の男が、初めて、言葉を失っていた。
三つの気配が、卓を挟んで、睨み合う。武神は拳を握り直し、風首は間合いを保ち、フードの男は、動かない。誰も、次を出せない。出せば、崩れる。
その静寂に、他の席から、声が飛んだ。
「おい爺さん。あれ放っといていいのか。俺は金にならねえ喧嘩はしねえ主義だがな」
「……面白ェじゃねえか。誰があれを先に喰うかだ」
「動くな。全員だ。あれの底が見えるまで迂闊に手を出すな」
ハルクの掠れた声が、場を、辛うじて縫い止めていた。
――そこへ、華やかな声が、割り込んだ。
「はいはい そこまでよ。物騒な坊やたちねえ」
ルミエルが、扇をぱちりと閉じた。
「あたしの目の前で暴れられると商売あがったりなの。悪いけどお客様…少し遠くへ行っててもらうわ」
その指が、フードの男へ向けられる。
――ぐにゃり。
男の足元の空間が、たたまれた。回廊のアルケー。世界に登録した地点へ、荷を一瞬で送り届ける力。ルミエルは今、その荷に、超越の男を選んでいた。
男の姿が、歪む。飛ぶ。
――はずだった。
「……あら?」
扇の裏の笑みが、止まった。
男は、消えていない。歪んだ空間の中央で、フードの影が、ぬるりと踏みとどまっている。回廊は開いている。それなのに、男は送られない。
「動かない…ですって? あたしの回廊が この子ひとり運べないの?」
声から、余裕が抜けた。荷が、重い。重すぎる。世界に開いた道が、たった一人を運ぶだけで、みしり、と軋んでいる。
「――仕方ないわねえ。乙女の私に苦労かけないでほしいわね」
ルミエルが、片手を、天へ翳した。指先に、見たことのない紋様が、燐光を放って浮かぶ。文字とも印ともつかない、ひどく古い形をしていた。
「……おい。それは世誓か。」
武神の声にも、驚きが混じっている。
世誓。その言葉を、スイは初めて聞いた。後に知る。それは、世界が個人と、直接交わす古い契約のこと。何を差し出し、何を得るか。今ではもう、その名を知る者すら、数えるほどしか残っていない。
ルミエルの宝石が、紋様に呼応して、一つ、また一つと、砕けていく。財を、代償に。
「今ある財の 半分をくれてやるわ。だから――道をもう一段太くなさい!」
――ごぉっ!
回廊が、膨れ上がった。世界に穿たれた道が、二重、三重に広がる。重すぎた荷が、ずるり、と引きずられはじめる。フードの男の影が、今度こそ、歪みへ呑まれていく。
「……大した奴だ」
男の声に、初めて、わずかな感心が滲んだ。
――そして、次の瞬間。
何かが、おかしかった。
膨れた回廊が、ルミエルの制御を、越えていく。
誰も、力を注いでいない。ルミエルの世誓は、財の半分。それだけの、はずだった。それなのに、開いた道が、勝手に際限なく太くなっていく。まるで、見えない誰かが、外から、力をねじ込んでいるように。
「……嘘。あたしこんなに開いてない――」
あの陽性の商人が、初めて、恐怖の色を見せた。
制御を失った回廊が、悲鳴を上げる。
――みしり。ばきり。ぐぎゃりッ。
石の間の壁が、床が、天井が、“送り先”へ向かって、引き剥がされはじめた。もう、男一人の話ではない。この部屋が。この建物が。その外の、帝都そのものが。開きすぎた道の、餌食になろうとしていた。
「――これはもう会議ではないッ!」
「全員掴まれ!なんでもいい掴まってろ!」
怒号が、飛び交う。
だが、そのフードの男は、動かなかった。呑まれかけた体を、なお、その場に留めている。
――視線だけが、動いた。
崩れ落ちる石の、その隙間の向こう。壁際で、露わになった、なにかを
そのなにかが、渦に呑まれかけて、ぐらり、と傾いだ。
――刹那。
あの、感情を削ぎ落としたはずの男が。指一つで人を骨にした男が。
止まった。
「――……そこに」
初めて、その声が、揺れた。平らだった水面に、たった一滴、波紋が落ちたように。
フードの奥の、見えない視線が縫い止められている。呑まれることも、忘れて。
だが、世界は待たなかった。
スイの視界が、ぐにゃりと歪む。足元の石が、ない。掴むものが、ない。体が、世界から引き剥がされていく。
「坊主ッ! 手を――」
伸ばされた指が、掠める。届かない。
「スイ!」
「――やっ……」
四つの声が、渦の中で、ばらばらに遠ざかる。
スイは、最後に一つだけ見た。白い髪の女が――虚空が、こちらへ手を伸ばし、その顔に、初めて、“間に合わない”という色を浮かべていたのを。
「ちっ!ガレンッ――!!」
名を呼ばれた。それが最後だった。
帝都の真上。誰も座らなかった、空の玉座。その真下で、世界が、大きく口を開けた。
光と水と剥がれた石と、悲鳴と。その全部が渦に呑まれ、遠い、ばらばらの場所へと、投げ散らされていく。
スイの意識は、そこで途切れた。
――俺は、また、何もできなかった。
落ちていく暗闇の中で、その一つの想いだけが、やけに、鮮明だった。
その日、帝都アルディアを中心に、帝国全土が――人も、街も、砦も、丸ごと、ばらばらの地へと消え去った。
誰が、どこへ運ばれたのか。生きているのか、死んでいるのか。誰にも、分からなかった。
後にこの事件は、「神隠しの治世」と呼ばれることとなる。
“帝国編 -完-”




