第39話 集う
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
“第39話 集う”
抜かれない刀にも、意味はある。
抜けばすべてが終わると誰もが知っているなら、その刀は鞘に納まっているだけでいい。振るう必要はない。そこに在ること、ただそれだけで世界は動きを止める。
空の玉座は、朝の光のなかに浮いていた。
石を組んだ巨大な輪が、帝都の真上に
何の支えもなく据わっている。
百年、一度も座られたことのない椅子。
あれが動きはじめたと、この女はさっき言った。
スイが村を出た、その日から。
見上げても意味は入ってこず、ただ喉が渇いた。
背後で盛大な音がして、巨漢が床から半身を起こした。肋を庇いながら大あくびをして、倒れた台と、壁に残った刃の傷と、乾いた水の跡を順に眺めている。何が起きたのかを、この男はまだ測りかねているようだった。
「なんだこりゃ。誰か暴れたのか」
「帝国が来た。リアが、そこの男を里に連れて帰るとか言って暴れた。虚空が追い返した」
「……順番に言え。一個も分からん」
「俺も、途中から分かってねえよ」
リアは、壁から自分の毛先を一房ぶん、拾い上げていた。断たれた赤い髪を、忌々しげに指で弄んでいる。連れ帰る算段は一合ごとに膨らんでいた。それが、最後の一歩で潰えた。里にとっては惜しい取り逃がしで、この娘にとっては、それ以上でも以下でもない。
「逃がした。」
「何をだよ」
「里にいい血といい腕が入るはずだった。それが消えた」
スイは、その二人を一度だけ見て、それから窓辺の女に向き直った。聞かねばならないことが、まだ山ほど残っている。
「なあ。さっきの話の続きを聞かせろ。盤の上にいるとか、動き出したとか。俺は何に巻き込まれてんだ」
虚空はすぐには答えず、透ける髪の先を朝の光に溶かしたまま、やがて窓の外のあの輪を顎で示した。
「帝国は、二つに割れた教会の争いを止めるためにあれを作った。代表を立て、そこで決着をつけろと。勝った側の言うことに世界が従う。それがラグナロクだ」
「それはグランに聞いた」
「では、聞いていないことを言おう」
女は、そこで一度、言葉を切った。
「ラグナロクはそれから一度も、開かれていない」
スイの喉が、鳴った。
「負ければ自分の信じなかったものが未来永劫この世に強いられる。片方が終われば争いは止まずに世界がそのまま終わる。そんな博打を勝てると分からぬうちに始める者はいない。だから誰も抜かなかった。百年、鞘に納めたまま睨み合ってきた」
抜かれない刀にも意味はある。つい今しがた、スイ自身がそう思ったばかりだった。あの輪は、祭りではない。誰も引き金を引けなかった、その百年の名前だった。
「勝ったら、世界の形を決められる。それも、力ずくで地図が変わるみたいな話か」
「違う」
女は、少し笑ったようだった。
「世界の形を決めるというのは、力の話ではない。約束の話だ。勝った者が線を引き、負けた国が従う。従わせるのは帝国だ。これを敵に回して立っていられる国がこの世にあると思うか。世界はとうに誓わされている。勝者の一言に頭を垂れると。神の力などいらん。いちばん強い力が、その一言を保証しているだけだ」
スイはしばらく黙った。魔法で地図が書き換わるなら、まだ諦めもついた。そうではなかった。誰かひとりの言葉に、世界が頭を垂れる。逆らえば潰される。あの浜で村を焼いた理屈と、同じものだった。決める者がいて、従う者がいる。ただ、その盤が世界の大きさになっただけだ。
「もう一つ、いちばん質の悪いところを教えてやる」
赤い眼が、こちらを向いた。
「戦は剣を交えたときに始まるのではない。誰が出るかが決まった、その瞬間に、もう始まっている。出る者の名は伏せられる。表に出れば、殺して席を空けられるからだ。だから、決まった者から静かに消えていく。舞台に上がる前に、幕の裏でもう半分は終わっている」
その言葉の意味が、遅れて、スイの背を伝った。
部屋のなかには、朝の光と、間の抜けた鼾のほかに、何の音もない。それが、女の言葉を、逃げ場のないものにしていた。
「……で。今になって、その刀を、誰が抜いたんだ」
「抜いた者はいる」
「誰だ」
「私たちの頂点だ」
「頂点…十王のか」
女は懐から、細長いものを取り出した。銀の煙管だった。火皿に指先で火を移す。どうやって熾したのかは見えなかった。細い煙が一筋、朝の光のなかへ昇っていく。その匂いが、スイの胸のどこか古い場所に、ほんの一瞬だけ触れた。遠い浜の、朝の匂いだった。それ以上は、思い出さないことにした。
「……あんたも、嗜むんだな」
「まあ、私も人間だからな」
女は深く吸い込み、こちらへ顔を向けて口を大きく開くと、その煙をまっすぐスイに吹きつけた。
「ごほっ。おい、その煙、身体に悪いって聞いたことあるぞ」
「大人の味というものを知っておけ。海の民」
「……海の民じゃねえスイだ。名前くらい覚えろよ」
女は答えなかった。ただ口の端を、わずかに上げただけだった。煙の向こうで、赤い眼が、静かにこちらを見ている。その奥に憐れみに似たものが一瞬過ぎった気がしたが、気のせいだと思うことにした。
「――さて。行くぞ」
灰も落とさず火も消さず、煙管を懐へ戻して、女は立ち上がった。
「どこへだ」
坂の下で、帝都が脈打っていた。貨幣を数える音がどこかで絶えず鳴り、荷を積んだ車が石畳を軋ませる。肌の色の違う者も、獣の耳を持つ者も、片腕が石でできた傭兵も、みな当たり前の顔で同じ道を歩いていた。その雑踏のただ中を、返答もせず白い髪の女が抜けていく。誰も道を譲らない。譲る前に、みな半歩、退いていた。
スイは、その背を追った。追いながら返事を待つ
振り返らず、女は一言だけこう言った
「十の玉座が集う場所だ」
「は?」
誰の駒でもない場所を探して、ここへ来た。
その足で今、盤のいちばん深いところへ、自分から歩いていこうとしている。
――胸の奥に熱が宿った




