↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/72

第39話 集う

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】

“第39話 集う”


 抜かれない刀にも、意味はある。


 抜けばすべてが終わると誰もが知っているなら、その刀は鞘に納まっているだけでいい。振るう必要はない。そこに在ること、ただそれだけで世界は動きを止める。


 空の玉座は、朝の光のなかに浮いていた。

石を組んだ巨大な輪が、帝都の真上に

何の支えもなく据わっている。

百年、一度も座られたことのない椅子。

あれが動きはじめたと、この女はさっき言った。

スイが村を出た、その日から。

見上げても意味は入ってこず、ただ喉が渇いた。


 背後で盛大な音がして、巨漢が床から半身を起こした。肋を庇いながら大あくびをして、倒れた台と、壁に残った刃の傷と、乾いた水の跡を順に眺めている。何が起きたのかを、この男はまだ測りかねているようだった。


「なんだこりゃ。誰か暴れたのか」

「帝国が来た。リアが、そこの男を里に連れて帰るとか言って暴れた。虚空が追い返した」

「……順番に言え。一個も分からん」

「俺も、途中から分かってねえよ」


 リアは、壁から自分の毛先を一房ぶん、拾い上げていた。断たれた赤い髪を、忌々しげに指で弄んでいる。連れ帰る算段は一合ごとに膨らんでいた。それが、最後の一歩で潰えた。里にとっては惜しい取り逃がしで、この娘にとっては、それ以上でも以下でもない。


「逃がした。」

「何をだよ」

「里にいい血といい腕が入るはずだった。それが消えた」


 スイは、その二人を一度だけ見て、それから窓辺の女に向き直った。聞かねばならないことが、まだ山ほど残っている。


「なあ。さっきの話の続きを聞かせろ。盤の上にいるとか、動き出したとか。俺は何に巻き込まれてんだ」


 虚空はすぐには答えず、透ける髪の先を朝の光に溶かしたまま、やがて窓の外のあの輪を顎で示した。


「帝国は、二つに割れた教会の争いを止めるためにあれを作った。代表を立て、そこで決着をつけろと。勝った側の言うことに世界が従う。それがラグナロクだ」

「それはグランに聞いた」

「では、聞いていないことを言おう」


 女は、そこで一度、言葉を切った。


「ラグナロクはそれから一度も、開かれていない」


 スイの喉が、鳴った。


「負ければ自分の信じなかったものが未来永劫この世に強いられる。片方が終われば争いは止まずに世界がそのまま終わる。そんな博打を勝てると分からぬうちに始める者はいない。だから誰も抜かなかった。百年、鞘に納めたまま睨み合ってきた」


 抜かれない刀にも意味はある。つい今しがた、スイ自身がそう思ったばかりだった。あの輪は、祭りではない。誰も引き金を引けなかった、その百年の名前だった。


「勝ったら、世界の形を決められる。それも、力ずくで地図が変わるみたいな話か」

「違う」


 女は、少し笑ったようだった。


「世界の形を決めるというのは、力の話ではない。約束の話だ。勝った者が線を引き、負けた国が従う。従わせるのは帝国だ。これを敵に回して立っていられる国がこの世にあると思うか。世界はとうに誓わされている。勝者の一言に頭を垂れると。神の力などいらん。いちばん強い力が、その一言を保証しているだけだ」


 スイはしばらく黙った。魔法で地図が書き換わるなら、まだ諦めもついた。そうではなかった。誰かひとりの言葉に、世界が頭を垂れる。逆らえば潰される。あの浜で村を焼いた理屈と、同じものだった。決める者がいて、従う者がいる。ただ、その盤が世界の大きさになっただけだ。


「もう一つ、いちばん質の悪いところを教えてやる」


 赤い眼が、こちらを向いた。


「戦は剣を交えたときに始まるのではない。誰が出るかが決まった、その瞬間に、もう始まっている。出る者の名は伏せられる。表に出れば、殺して席を空けられるからだ。だから、決まった者から静かに消えていく。舞台に上がる前に、幕の裏でもう半分は終わっている」


 その言葉の意味が、遅れて、スイの背を伝った。


 部屋のなかには、朝の光と、間の抜けた鼾のほかに、何の音もない。それが、女の言葉を、逃げ場のないものにしていた。


「……で。今になって、その刀を、誰が抜いたんだ」

「抜いた者はいる」

「誰だ」

「私たちの頂点だ」


「頂点…十王のか」


 女は懐から、細長いものを取り出した。銀の煙管だった。火皿に指先で火を移す。どうやって熾したのかは見えなかった。細い煙が一筋、朝の光のなかへ昇っていく。その匂いが、スイの胸のどこか古い場所に、ほんの一瞬だけ触れた。遠い浜の、朝の匂いだった。それ以上は、思い出さないことにした。


「……あんたも、嗜むんだな」

「まあ、私も人間だからな」


 女は深く吸い込み、こちらへ顔を向けて口を大きく開くと、その煙をまっすぐスイに吹きつけた。


「ごほっ。おい、その煙、身体に悪いって聞いたことあるぞ」

「大人の味というものを知っておけ。海の民」

「……海の民じゃねえスイだ。名前くらい覚えろよ」


 女は答えなかった。ただ口の端を、わずかに上げただけだった。煙の向こうで、赤い眼が、静かにこちらを見ている。その奥に憐れみに似たものが一瞬過ぎった気がしたが、気のせいだと思うことにした。


「――さて。行くぞ」


 灰も落とさず火も消さず、煙管を懐へ戻して、女は立ち上がった。


「どこへだ」


 坂の下で、帝都が脈打っていた。貨幣を数える音がどこかで絶えず鳴り、荷を積んだ車が石畳を軋ませる。肌の色の違う者も、獣の耳を持つ者も、片腕が石でできた傭兵も、みな当たり前の顔で同じ道を歩いていた。その雑踏のただ中を、返答もせず白い髪の女が抜けていく。誰も道を譲らない。譲る前に、みな半歩、退いていた。


 スイは、その背を追った。追いながら返事を待つ

振り返らず、女は一言だけこう言った


「十の玉座が集う場所だ」

「は?」


 誰の駒でもない場所を探して、ここへ来た。

 その足で今、盤のいちばん深いところへ、自分から歩いていこうとしている。


 ――胸の奥に熱が宿った

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。