第38話 止水
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
“第38話 止水”
答えは、返ってこなかった。
リア・ルヴァンの網膜に、レンの困惑は映っていない。焼きついているのは、たった一度の抜き打ちが描いた完成された線と、それを裏打ちする血の練度だけだった。優れた剣は、それ自体が財産である。財産は逃がすものではなく、囲うもの――八千年、そうやって血を繋いできた一族の本能が、箍の外れた寝起きの頭で、剥き出しになっている。
そして、この娘の頭の中では、勘定が既に終わっていた。
この男を、里へ連れて帰る。里には、こういう剣が好みだと公言して憚らない女がいて、その女は、この抜き打ちを見ればきっと膝を折る。血が繋がる。そのうえ、これだけの手練れなら、里の子らの指南役として申し分ない。八千年を渡ってきた一族に、外の血と外の技が同時に入る――それは、里の未来そのものだった。
だから、逃がすわけにはいかない。勝って、連れ帰る。品定めは、もう済んでいる。あとは、この剣を地に伏せさせるだけだ。
鋼が、鳴った。
抜いたのはリアが先だった。しゃん、と鞘走りの音が朝の広間を渡り、次の瞬間には細剣の間合いへ踏み込んでいる。里の畦で研がれた歩法。足音が、しない。
「動くな、とは言わん。動いてくれ。そのほうが、よく見える」
「――どれだけの雄か、確かめてやる」
レンは、退かなかった。乱心した剣士がひとり増えたところで、任務の輪郭は一分も揺らがない――そう己に言い聞かせるように、切っ先がリアの喉の高さへ据えられる。試すための一手。この娘がどれほどのものか、量る。
量りきれなかった。
リアの刃が下段から掬い上がり、レンがそれを弾く。弾いた先へ、二の太刀が既に生まれていた。同じ拍の中に、二度。三度。斬るという動作の分だけ、刃が増えていく。
――秘技、八重。
一度の斬撃に、八つの意味を織り込む剣だった。弾かれた刃が返り、返った刃が次の隙間を裂き、裂いた場所へ峰が滑り込む。里に四百人、これを操れるのは数えるほど。その一人が、朝の広間で、帝国の刃を八方から食い破ろうとしていた。
レンの細剣が、そのすべてを捌いた。
捌ききった。八つの軌道の、ひとつ残らず。弾き、逸らし、受け流し、最後の一撃だけを半歩の退きでやり過ごす。額に、汗はない。呼吸も、乱れていない。
リアの、胸が高鳴った。
――いい。実にいい。八重を、初見で捌く。里でこれができるのは父と、あと数えるほど。この男の血と技が里に入れば、どれほどの子が生まれ、どれほどの子が育つか。歓喜が、剣を加速させる。連れ帰る理由が、一合ごとに増えていく。
足が、止まらない。
捌かれると分かった瞬間には、もう次の型へ移っていた。八重が通らぬなら、通るまで重ねる。九つ目、十。剣の里の剣は、手数で押すための剣ではない。だが押せぬと知れば、押せるところまで押してみる――それが、この娘の壊れ方だった。刃が跳ね、床の石が削れ、朝の光の中に火花が散る。
レンは、退がりながら捌いていた。
ただ捌いているのではない。退がる歩幅を、少しずつ詰めさせている。リアの踏み込みが伸びる。伸びた踏み込みは、いつか必ず、伸びきる。そこが、この男の狩り場だった。剣しか知らぬ男は、剣の間合いの管理だけで、乱心した里の剣士を、静かに追い込んでいく。
「――逃げるな。連れて帰ると言っている」
「意味が、分からん」
「里に来い。剣を教えろ。子を残せ。悪い話ではないだろう」
「……正気とは、やはり思えん」
三度、刃が噛み合った。
その三度目で、レンの細剣が、初めて攻めに転じた。捌きの動きの、その返しの一瞬に、切っ先が糸のように伸びる。リアの首の、右の脈へ。速い。八重の手数のただ中を縫って、たった一本、まっすぐに。
リアは、避けなかった。避けきれなかった、という方が近い。連れ帰るという昂りが、踏み込みを伸ばしきらせていた。獲物に手を伸ばした腕が、そのまま、獲物の牙の届く場所へ入っていた。
――届く。
レンの切っ先が、脈へ触れる、その寸前。
水が、跳ねた。
掌一杯にも満たない飛沫が、刃の一番弱い場所へ噛んで、軌道を指の幅だけ流す。切っ先は脈を逸れ、赤い髪をひと房、断って背後の壁へ突き立った。
「――そこまでにしとけ、リア」
肩を吊ったまま、スイが壁に手をついて立っていた。膝が、笑っている。それでも、散らした水の残りが、いつのまにかリアの刃筋のそばに漂っていた。意図して置いたわけではない。ただ、この場の誰を死なせたくないかを、体のほうが先に選んでいた。
「邪魔をするな。あと少しで、伏せさせられた」
「伏せる前に、お前の首が落ちてただろ」
「落ちん。連れて帰るまでは、死なん」
「順番が逆なんだよ、それ」
レンが、壁の刃を静かに引き抜いた。
断たれた赤い髪が、一房、床に落ちる。この男の目は、既にリアを見ていない。乱心した剣士は脅威ではない、と結論が出ていた。脅威は、傷だらけで壁に手をつき、それでも掌から水を絶やさない、あの少年のほうだ。八重の手数のただ中へ、髪一本ぶんの精度で水を割り込ませた。あれは、狙ってやれる芸ではない。
「……海の民。動けぬ体で、まだ人を庇うか」
「庇ってねえ。手が、勝手に動くんだよ」
レンの細剣が、リアからスイへと、向きを変えかけた。
――その、瞬間だった。
切っ先の、伸びる先に。
誰も、いなかったはずの場所に。
白い髪の女が、立っていた。
歩いてきたのではない。扉も鳴らず、床も軋まず、空気ひとつ揺れなかった。ただ、さっきまで何もなかった一点に、いつのまにか在る。まばたきの、その裏で。まるで、そこへ立つという事実だけが、順番を飛ばして先に置かれたように。
レンの刃が、その胸の中心の、寸前で止まっていた。
「危ないな。人の館で、朝から」
声は低く、外見の儚さとは裏腹に乾いている。
スイの喉が、鳴った。見えなかった。十王の二番目が、いつ、どこから。肌が拾えない。押し出された空気が、還ってこない。この女の周りだけ、世界の縁がぼやけている。
「さっきから見ていたが。そろそろ、片付けるか」
女は、争う三人と、その足元で盛大に鼾をかいている巨漢とを、順に見下ろした。退屈そうな目つきだった。片付けるべき散らかりを、見るときの。
「……二番目。手続きを飛ばして罪人を囲ったのは、そちらだ」
「囲ったのではない。買った」
「売る権限のない者からの取引は、無効だ」
二人の間に、火花はなかった。あったのは値踏みだけだった。斬り結べばどうなるか。互いに一瞬で計算して、どちらも動かない。
――だが、レンは、確かめねばならなかった。
既に胸元にあった切っ先を、そのまま押し込む。第三席の刺突を、スイの目は追えない。速度ではない。抜き身の刃が、虚空という一点へ、最短で吸い込まれ――
止まった。
刃が、空中で凍りついたように動きを失っている。振り抜こうとするレンの腕ごと、そこに在るはずの”進む”という現象が、消えていた。
凪だ。
風も、波も、力も、その発動そのものも止める、あの静けさ。虚空はそれを、ただ掌を前に向けるだけで、この広間に敷いていた。
「知っているか。止めるというのは、斬るより、ずっと難しい」
――その静けさが、スイの奥の、古い場所に触れた。
波の音が、消えていた。
この無音を、知っている。知っているどころではない。この中で、育った。
あの浜に、丸太がひとつあった。腰の曲がった老人が、朝からそこに座って、煙管をふかしていた。朝だから吸うんだと、理屈にならない理屈を言う男だった。海がどれだけ荒れても、その丸太の周りだけは、いつも静かだった。波が足元の一歩手前で崩れて、それ以上寄ってこなかった。
あの静けさの中で、子供が浅瀬で泳いだ。婆さんが岩場で足を滑らせなかった。時化の日に、誰も死ななかった。
誰も、それを言わなかった。言うほどのことでは、なかったからだ。
――魚、獲ってこい。
――帰ってくる用事がないと、人は帰らんからな。
最後にそう言った背中を、スイは知っている。傷ひとつなく、丸太の上で前に折れていた、あの背中を。
胸の奥が、熱くなった。深く潜った日と同じ、あの熱だ。冷えるべき場所が、なぜか温かい。
この静けさは、あの老人のものと、同じだった。
同じで――桁が、まるで違った。
あの凪は、波と風を止めるだけだった。斬撃を止め、他人の剣を勝手に鞘へ戻すような芸当は、なかった。老人は、それを六十年、ただ村の舟を沈めないためだけに使い続けた。
この女は、それを、指一本で、剣を止めるために使っている。
――バルドさん。
その名前が、なぜか、喉の奥で鳴った。
女の指先が、わずかに動く。凍った刃が、糸を引くように鞘へ戻された。レン自身の意思ではない。止められた剣が、止めた者の手で、納められていく。
「……凪。貴様の根源では、ないな」
「借り物だ。誰のものだったかは、忘れた」
嘘だ、とスイは思った。根拠はない。ただ、この女が”忘れた”と言うとき、たいてい何かを覚えている。そんな気が、した。そして、その”誰か”を、自分はどこかで知っている気がした。理由は、まだ言葉にならない。
レンの背に、冷たいものが伝う。恐怖ではない。理解だった。この女を斬るには、斬撃が”届く”という前提そのものを、取り戻さねばならない。そしてそれは、この館が彼女の庭であるかぎり、覆らない。
ここで、剣を抜き切ることはできる。レンは瞬時に盤面を並べた。全力で挑めば、この二番目に届く目はある。ゼロではない。だが、そのとき何が起きる。二番目と斬り結ぶ余波は、この狭い館を潰す。潰れた瓦礫の下で、真っ先に死ぬのは――
視界の端で、肩を吊った少年が、膝を笑わせながら立っていた。
海の民。帝国が、生きたまま連れ帰れと命じた、たった一人の”品”。
詰んでいた。剣の勝ち負けではない。任務そのものが、この一手で成立しなくなっている。生きた海の民を持ち帰るための遠征が、生きた海の民を殺すことでしか続行できない――それは遂行ではない。破棄だ。
そして、この男には、もうひとつ守るべき決まりがあった。彼は罪人をひとり取り戻しに来ただけだ。原初教の頭と帝国とが、この朝、ここで戦端を開く。そんな決定を、第三席の独断で下す権限は、どこにもない。
レンは、鞘に手を添えた。抜く必要は、もうなかった。
「――今日は、退く」
声に、敗北の色はなかった。ただ、事実を読み上げる響きだけがある。
「勘違いをするな、二番目。貴様の力に屈したのではない。手順の問題だ」
「次は、帝国として来る。そのときは、この館の理も、貴様の格も、関係がなくなる」
男は背を向けた。従えてきた帝国兵たちが、その足取りに合わせて音もなく退がっていく。
扉の手前で、レンは一瞬だけ、部屋を振り返った。その視線が、スイを通り過ぎ、リアを通り過ぎ、部屋の隅で盆を抱えたまま立ち尽くす、小柄な修道服の少女の上を撫でる。
止まりはしなかった。留めるほどの理由が、この男の中で像を結ばなかったからだ。
だが、剣しか知らぬこの背骨が、その一瞬だけ、意味もなく冷えた。
――なぜ、と問う前に、扉は閉じていた。白い外套が、坂を下っていく。朝の帝都へ、足音も立てずに。
残された広間に、鼾だけが、いつもと同じ調子で響いていた。
「……なあ」
「なんだ」
「今の静けさ。あんた、どこで覚えた」
虚空は、答えなかった。透ける髪をかき上げて、窓の外を見ている。坂の下、遠ざかる白い点を。
「ひとつ、追い払っただけだ」
「お前を欲しがっているものは、あの子供の主だけではない。――いちばん厄介なのは、まだ姿も見せていない」
「……なあ、さっきからそれだ。もったいぶるなよ」
「俺をどうしたいんだ。あんたら全員、俺の行き先を勝手に決めやがる」
虚空が、振り返った。
赤い眼が、初めて、まっすぐスイを射た。憐れみでも、興でもない。もっと静かな――決まってしまったことを、告げる者の目だった。
「お前は、勘違いをしている」
「私がお前を選んだのではない。私がお前を見つけた時には、もう――お前は、盤の上にいた」
言葉が、うまく入ってこなかった。
「お前が生まれるより前に始まっていた。お前の親父が死ぬより前に決まっていた。お前は、自分で歩いてここへ来たつもりだろう。違う。運ばれてきたんだ。最初から、ここへ」
朝の光が、床を舐めている。鼾が、間の抜けた調子で響いている。
なのに、部屋の温度が、また一度、下がった気がした。
「海の子。お前がいちばん知らねばならんことを、教えてやる」
女は、窓の外を――帝都の、その真上を、顎で示した。
空に、石の輪が浮いていた。誰も座ったことのない、空の玉座が。
「あれが動き出した。百年、一度も動かなかったものがだ」
「――お前が、村を出たその日から」
その意味を、スイはまだ知らない。
知らないまま、ただ、喉の渇きだけが、返事の代わりに残った。




