第37話 もうめちゃくちゃ
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
“第37話 もうめちゃくちゃ”
白い外套が、館へ雪崩れ込む。
だが、先頭のレンだけが、違った。兵たちを追い越し、風のように床を滑って、まっすぐスイへ。
シンッ
抜き打ちの一閃が、スイの喉元へ伸びた。
スイは、辛うじて身を捻る。細い刃が、頬の横を掠めた。速い。獣王の膂力とも、渓谷のあの男の掴めなさとも違う。研ぎ澄まされた、無駄のない速さだった。
「っ!」
掌に水を纏わせ、刃の腹を横から叩く。軌道を、逸らす。
――逸れた。ほんの、指一本ぶんだが。
「……ほう」
レンの静かな目が、初めて動いた。
「今のを、受け流したか。海の民」
スイは、下がりながら、息を整えた。
――受けられた。
三ヶ月前の自分なら、今ので首が飛んでいた。掌に水を纏わせて刃を逸らすなど、考える前に体が動いた。剣の里で、渓谷で、ソルグで、獣王の前で。積み重ねた分だけ、体が覚えている。
――強く、なってる。
その実感が、確かにあった。
ふと、バルドの声が、耳の奥で蘇る。
“水はな、逆らうと硬い。だが、沿えば、どんな刃も撫でて流す”
あの浜で、何度も聞いた言葉だ。今、その意味が、ようやく体で分かりかけている。
だが。
シンシンシンッ‼️
レンの刃が、三度、続けて閃いた。
スイは、二つを逸らし、一つを躱した。だが、その一つで、二の腕が裂けた。血が滲む。
――逸らしきれない。
成長を、実感した。その端から、突きつけられる。この男は、その成長の、さらに先にいる。逸らしても逸らしても、次が来る。速さの底が、見えない。
――ふいに、船の記憶が蘇った。
ソルグから帝都までの、六日の船旅。あの時、退屈しのぎに、ガルドが十王の話をしていた。
『いいか、ガキ。十王ってのは、強さだけで決まるもんじゃねえ』
『厄介さ、でも決まる。国を持ってるか、部下がどれだけいるか。そういうのも、ぜんぶ込みだ』
『獣王を見ろ。あいつは国を持ってた。その分で、十番目に潜り込んだ。――だがな』
ガルドは、欠伸まじりに言った。
『国だの部下だの、そういうのを全部引っぺがして、素の強さだけで見りゃあ。あんなのは、カスみたいなもんだ』
『少なくとも、俺にとってはな』
あの時は、聞き流していた。
だが、今なら分かる。
――獣王は、国の分で、十番目だった。
なら、目の前のこいつは。
国も、部下も、番号すら持たない。ただ純粋な、強さだけで。ここに、立っている。
「……つまり、こいつは」
スイの背に、冷たいものが伝った。
「純粋な強さだけなら――獣王より、上かもしれねえ……ッ!」
「気づくのが、遅い」
シィンッ
レンの姿が、掻き消える。
次の瞬間には、スイの懐に潜り込んでいた。細剣の切っ先が、心臓へ。
“奥義”
――間に合わ、ない。
レンは既に技の構えに移行している
その、刹那。
スイの耳が、魂が、何かを拾った。
胸の内が熱くなる
剣の風切る音でも、自分の鼓動でもない。もっと、遠く、深いところから響く――世界そのものが立てているような、微かな音。
その音の中で、レンの切っ先の”次”が、うっすらと見えた気がした。
スイの体が、勝手に半歩、退いた。
ザッ
切っ先が、心臓を逸れ、脇腹を浅く裂いた。
――今の、なんだ。
音は、もう消えていた。掴もうとした端から、指の間を零れていく。何が聞こえたのか、スイ自身にも分からなかった。ただ、あの一瞬だけ、死が見えて、避けられた。
「……避けた、だと」
レンの眉が、初めて、はっきりと動いた。
「今のは、避けられる太刀ではない。まぐれか。それとも――」
その時だった。
――だん、だん、だん。
広間の奥から、荒々しい足音が、階段を降りてきた。
リアだった。
寝間着のまま、髪も結わず、赤い髪を振り乱して。ただ、その眼が――爛々と、燃えていた。
寝起きとは思えない。いや、寝起きだからこそ、箍が外れている。頬が上気し、口の端が、獰猛に吊り上がっていた。
「…………ぐー」
その後ろの部屋からは、まだグランの鼾が聞こえている。この騒ぎの中で、巨漢は熟睡していた。
そして、廊下の隅では。
眠ったままのグランの口から、舌が――ぬるり、と、ありえない長さに伸び、床に落ちていたスイの水筒を、ぺちゃりと搦め捕っていた。カメレオンのアルケーは、本人の意識がなくとも、勝手に獲物を狙うらしい。
――だが、今はそれどころではなかった。
リアが、階段の下で、仁王立ちになる。
そして、朝の広間に、朗々と、声を張り上げた。
「――我が名は、リア・ルヴァン!」
剣を抜き放ち、切っ先を、まっすぐレンへ。
「十王七位、剣王ゼイル・ルヴァンが娘! そして、そこの男の、仲間である!」
「リア!? お前、なに言って――」
「黙っていろスイ! 今、いいところなのだ!」
娘の眼が、レンを、上から下まで舐めるように見た。
その太刀筋を。その足運びを。研ぎ澄まされた、無駄のない強さを。
――そして、うっとりと、ニヤリと笑った。
「早速だが、お前――剣筋が、実にいい!」
声が、弾んでいた。まるで、極上の獲物を見つけた、狩人のように。
「その太刀、その速さ! そんな男の血を、里に入れれば、どれほどの子が生まれることか……!」
「おい、正気か!?」
リアは、聞いていなかった。切っ先を突きつけたまま、頬を紅潮させ、宣言した。
「決めたぞ! 私が勝ったら――お前には、剣の里に永住してもらう!」
「里の未来のため、その剣、逃がさん!!」
レンの、静かな顔が。
この日、初めて――困惑に、歪んだ。
「…………何を、言っている」
朝の光の中、三つ巴の均衡に、四人目の狂気が――躍り出た。




