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第36話 逃げ場のない朝

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】


“第36話 逃げ場のない朝”


 高台の館は、静かだった。


 帝都の喧騒が坂を上るごとに遠ざかり、貨幣の鳴る音も人いきれも、ここまでは届かない。白い石の館は、帝国のどの建物とも似ていなかった。飾りがなく、ただ風の通りだけを考えて建てられている。


 港で虚空に連れ出され、この館に着いてから、まだ半日と経っていない。


「妙な家だな」

「守りが堅い。窓が高くて、出入りが一つきりだ」


 リアが小声で言った。用心深い造りだと、剣の里の娘は一目で見抜いていた。


           


 広間で、虚空は長身を椅子に沈めていた。透ける髪が背もたれに溶けて、境目が分からなくなる。


「なあ。港でも訊いたが、まだ答えてもらってねえ」


 スイは、立ったまま言った。


「帝国が俺を帝都まで連れて来させたのは分かる。だが、あんたはそこに割り込んで、金を積んで、俺を引き剥がした。――なんでだ。十王の二番目が、なんでそこまでして海の民を欲しがる」


           


 虚空はしばらく黙っていた。それから短く答えた。


「先に手に入れたかったからだ」


「先に? 誰よりだよ」


「さあな」


 女はそこで話を切った。


「今のお前に全部を話しても、重すぎて潰れるだけだ。順に教えてやる」

「一つだけ言っておく。世界中の教会に彫られた、あの文言――お前を探しているのは、私じゃない。もっと厄介な奴だ」

「そいつに渡る前に、金を積んででも、お前を手元に置きたかった。それだけだ」


           


 スイはその赤い眼を見返した。嘘には見えなかったが、信じきる理由もまだない。


 それより、とスイは口を開いた。後ろの二人へ視線を向ける。グランは肋を庇い、リアは腕がまだ上がらない。スイ自身も右腕を吊ったままだった。


「先に頼みがある。うちの連中、傷だらけなんだ。診てやってくれねえか」


           


 虚空は、しばらく三人を眺めた。それから、ふ、と口の端を上げた。


「自分より、仲間が先か。いい目だ」


 女は奥へ声をかけた。


「シア。湯と布を持て。客人の手当てだ」


           


「え? わたしがやるの?」


 奥から戸惑ったような声が返り、やがて盆を抱えた娘が広間に入ってきた。


 小柄だった。白と黒の修道服に、頭を覆う布。その下から、白い横髪がひとふさ零れている。歳はずいぶん幼く見えたが、こちらを見返す赤い眼だけが、妙に据わっていた。


「……ふうん。あんたが、虚空様の連れてきた子ね。もっと大層なやつかと思ってた。案外、貧相なのね」


「おい。シスターってのは、そんな口を利くのか」

「利くのよ。悪い?」


 娘は、つん、と顎を上げた。


           


「シアだ。この教会のシスターでな。口は悪いが、手当ては上手い」

「余計なこと言わないでください」


 シアはぶっきらぼうに盆を置くと、慣れた手つきで、まずグランの肋に布を巻きはじめた。文句を言った割に、その指先は丁寧だった。


「上手いもんだな、お嬢ちゃん」

「怪我人、よく来るからこの教会」


 娘は少しだけ手を止めて、それ以上は言わず、また布を巻き直した。


           


 次にリアの腕、そしてスイの番になった。


「腕、出して」

「……ああ」


 スイが吊った右腕を差し出すと、シアは眉をひそめた。


「無茶な使い方したでしょ、骨が軋んでる」

「分かるのか」

「見りゃ分かる。馬鹿ね」


 娘は細い指で、慣れたように布を巻いていく。その手は小さくて、温かかった。


           


「あんた、ずっとこの教会にいるのか」

「……そうだけど。なに」

「いや。退屈じゃねえのかと思って」


 シアの手が、ほんの一瞬止まった。それからまた動きだして、ぶっきらぼうに言う。


「別に。慣れてるもの、そういうの」


 声の調子は変わらなかった。ただ、布を結ぶ指先だけが、少しだけ強く締まった。


 手当てが終わる。三人ともまだ本調子とはいかないが、動けるようにはなった。


「助かった。恩に着るぜ」

「恩とか、いらないから。虚空様に言われただけよ」


 娘は盆を抱えて立ち上がった。そして去り際に、ふと足を止めて、スイのほうを見ずに言った。


「その腕。今日は動かさないでよ」


 少しだけ、声が柔らかかった。


「せっかく巻いたんだから。……ほどけたら、また巻くの、面倒でしょ」


 それだけ言って、シアは奥へ消えていった。


 スイはその小さな背中を見送った。口は悪いが、悪い奴ではないらしい。巻かれた布の温もりが、まだ腕に残っていた。


           


 その晩、スイは虚空と遅くまで話した。


 この帝都のこと。十王のこと。ラグナロクという、世界の形を賭けた祭りのこと。


「なあ。あんた、“教会”のことを、やたら他人事みたいに言うよな」


 スイは、ふと訊いた。


「あんただって、シスターを抱えてる。教会側の人間なんじゃねえのか」


           


「教会、と一括りにするな。中身は、とうに割れている」


 女は、赤い眼を細めた。


「原初教には、二つの派がある。原初派と、終焉派だ」

「表向きは同じ神を祀る、一つの教会。だが実際は、正反対のものを信じている」


           


「正反対?」


「原初派は、この世界を”続ける”ために祈る。私が、そちらの頭だ」

「終焉派は――この世界を”終わらせる”ために祈る」


           


 スイは、眉をひそめた。


「終わらせる? 世界を、か。そんなもんに、信者が集まるのかよ」


「集まるさ。むしろ、そちらのほうが多い」


 女は、静かに言った。


「あちらはこう説く。――この世界は、もう穢れきっている。歪みきって、直しようがない、とな」

「だから一度、綺麗に終わらせる。そして、新しい世界に生まれ変わる。それこそが、本当の救いだ、と」


           


「飢えた者、報われぬ者、明日に望みのない者。そういう連中には、よく効く教えでな」

「“終わり”を、恐怖ではなく、救いとして説く。――だから、信者が絶えない」


           


 スイは、言葉を失った。


 村を焼いた理屈とは、別の恐ろしさがあった。誰かが望んで、世界の終わりに手を貸している。それも、救いだと信じて。


           


「……その終焉派の頭が、俺を狙ってる、ってことか」


「そういうことだ。あちらにとって、お前のような”異物”は、綺麗な終わりの邪魔でしかない」


 女は、そこで一度、言葉を切った。


「これ以上は、まだ言わん。順に、な」


           


「……もう一つだけ、いいか」


 スイは、引き下がらなかった。


「なら、なんで教会じゃなくて、帝国が俺を追う。あんたが金で引き剥がさなけりゃ、俺は今頃、帝国の手の中だったんだろ」


「順番の問題だ」


 女は、静かに答えた。


「お前は今、十王を殺した罪人ということになっている。それは帝国の裁きの領分だ。終焉派が、横から手を出す道理がない」

「あちらは、待っているのさ。帝国がお前を吊るすか、檻に入れるか。どちらでも、あちらの望みは叶う。――自分の手を、汚さずにな」


           


 スイは、その言葉の底に、何か冷たいものを感じた。


 自分を憎む何かが、姿も見せず、ただ待っている。帝国という手を使って、自分が始末されるのを。

           


 ――そして、朝が来た。


           


 スイが目を覚ますと、館の空気が、変わっていた。


 広間に降りると、虚空が窓辺に立って、坂の下を見下ろしていた。その横顔から、いつもの余裕が、わずかに引いている。


「起きたか。ちょうどいい。――見ろ」


           


 スイは窓辺に立った。


 坂の下、館へと続く一本道を、白い外套の一団が上ってくる。整然と並び、隙がない。だが、先頭を歩く男の格が、違った。


           


 若い。スイと、そう変わらない歳に見える。細身で、背筋が異様に真っ直ぐだった。感情の読めない、静かな顔。腰に、細い剣を差している。


 その男が、館の前で足を止め、見上げて、口を開いた。


           


「海の民、スイ・ガレン。そして――二番目、虚空」


 声が、澄んでいた。冷たいほどに。


「昨日、帝国が帝都へ運ばせた罪人を、金を積んで横から引き剥がしたな。帝国の裁きに割り込む、越権行為だ」


           


「引き剥がした、とは人聞きが悪い。正当な取引だ」

「取引の相手が、そもそも売る権限を持っていない。ならば、無効だ」


 男は、静かに言った。


「帝国特務機関ブラッド、第三席。レン」

「皇帝陛下の名において、その者の身柄を、取り戻しに来た」


           


 スイの肌が、ざわ、と鳴った。


 この男、強い。ガルドや虚空のような掴めなさではない。もっと真っ直ぐな、抜き身の刃のような強さだった。


           


 虚空が、ふ、と息を吐いた。


「五つの牙の、三番目を寄越したか。帝国も、この子をよほど惜しんでいるらしい」

「知り合いか、あいつと」

「いや。だが噂は聞く。あの若さで、特務の一角。剣しか知らん男でな。皇帝に拾われて、皇帝のためだけに剣を振る」


 女の赤い眼が、細くなった。


「――お前と、同じ歳でな」


           


 スイは、その男をもう一度見た。


 同じ歳。同じ若さ。だが、立っている場所が、正反対だった。片や、椅子をなくそうとする者。片や、椅子を守るために剣を振る者。


           


「返答を」


 男の声が、再び響いた。


「二番目。その者を引き渡せば、貴様の越権は不問にする。皇帝陛下は、寛大であられる」

「拒めば――力ずくで、取り戻す」


           


 スイは、拳を握った。


 罪人か。品か。駒か。港からずっと、他人が勝手に、自分の行き先を決めようとしている。


 ――もう、うんざりだ。


「引き渡すも何も、俺はモノじゃねえ」


 スイは、窓の外の男へ、はっきりと声を張った。


「俺の行き先は、俺が決める。あんたらじゃねえ」


           


 レンの目が、初めて、わずかに動いた。


 そして男は、腰の細剣に、静かに手をかけた。


「そうか。――なら、力ずくだ」


           


 白い外套が、一斉に、館へと踏み込んできた。


 逃げ場は、ない。


 スイの、追われる日々が――この朝から、始まる。

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