第35話 到着
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
“第35話 到着”
海が、終わった。
六日ぶんの水平線が途切れ、その先に――帝都が、せり上がっていた。
スイは、船縁に手をかけたまま、口を閉じるのを忘れていた。
港が、見たことのない大きさだ。ソルグの十では足りない。百かもしれない。桟橋が櫛の歯のように並び、帆が林立し、荷が山になっても崩れない。どこかで絶えず、金属の数えられる音がしている。貨幣が、街そのものの脈のように鳴っていた。
そして、その街の遥か上。
――空に、闘技場が浮いていた。
石でできた、巨大な輪。地に据えられていない。帝都の真上に、当たり前のように浮かんで、影を落としている。
「……なんだ、あれ」
「ラグナロクの、椅子だよ」
背後から、大男が欠伸まじりに言った。
「世界の形を決める祭りだ。あそこで勝ったやつが、線を引き直す」
「ま、ガキにゃ縁のねえ場所だな」
スイは、その浮いた輪を、しばらく見上げていた。
あそこだ。村を焼いた理屈を、根こそぎ書き換える場所。
――遠い。
海の上から見上げるそれは、あまりに高く、あまりに大きかった。
「……人が、多いな」
隣で、リアが呟いた。剣の里を出て、これほどの人を見るのは初めてだろう。無意識に、腰の刃へ手が伸びている。
「里が丸ごと十入って、まだ余るぞ。こりゃ」
グランは、逆に、目を輝かせていた。折れた肋を庇いながらも、港の荷の山を、値踏みするように眺めている。
「……坊主。あの荷、見ろ。あれ全部、どっかで安く買われて、どっかで高く売られんだ」
「商いの、本場だな。ここは」
男の目は、もう商人の目だった。
板が、下りた。
ガルドが、大剣を担いで先に降りる。スイたち三人は、その後ろだ。縄は打たれていない。だが、囚人でないわけでもない。
「縄がねえのは、ありがてえな」
「逃げりゃいいだろ。透けるんだろ、あんた」
「逃げねえよ。俺には、ここでやる商売がある」
巨漢は、あっさり言った。ガルドは、少しだけ意外そうな顔をした。
「……変わった囚人だな」
帝都を、歩く。
スイは、周りから目が離せなかった。肌の色が違う。言葉が違う。獣の耳を生やした者がいる。片腕が石でできた者がいる。物乞いの隣で、金貨を積んで数える男がいる。全部が、当たり前の顔で同じ道を歩いている。
「スイ。あまり、じろじろ見るな」
リアが、小声で言った。
「田舎者だと、足元を見られる。里でもそうだった」
「……お前、こういう街、慣れてんのか」
「まさか。だが、父がよく言っていた。知らん場所ほど、堂々としろ、とな」
娘は、背筋を伸ばして、前を見た。強がっているのが、逆に分かる。
「あんた、さっきから俺を見下してるだろ」
「見下してる。当たり前だろ」
男は、あっさり認めた。
「言っとくがな、ガキ。俺はお前だけを見下してるわけじゃねえ」
男は、雑踏を顎で示した。金貨を数える男。獣の耳の女。石の腕の傭兵。
「こいつら全員だ。皇帝も、十王も、まとめて見下してる」
「……全員?」
「ああ」
ガルドは、担いだ大剣を、軽く揺すった。
「……神すらも、な」
スイは、その言葉に、耳を疑った。
「神を、見下すのか。あんた」
「見下すさ」
男は、笑った。
「俺の体は、生まれつき壊れててな。授かった根源が、一滴も外に出ねえ。全部、肉の内側に流れちまう」
「だから俺は、“授かったもの”を、一度も使ったことがねえ。この腕と、この剣だけで、授かったやつらを片っ端から斬ってきた」
「授かって強くなったやつが、授かってねえ俺に斬られる。――なら、その”授けた”神とやらも、大したもんじゃねえだろ」
スイは、言葉を失った。
これが、この男が全員を見下す理由だ。世界が配った”神の破片”を、この男は一度も使っていない。使わずに、破片を持つ者を殺してきた。だから、この男の中では、破片を授かった全員が――スイも、十王も、皇帝も、そして神すらも――“下”なのだ。
「……趣味の悪い男だ」
リアが、低く言った。柄から、手を離していない。
「おうよ。よく言われる」
道の先に、教会があった。扉の上に、見慣れた文言が彫られている。
――“見つけたら、近づくな。報せよ”
あの、村にもあった言葉だ。
スイの背が、冷えた。この街の全部が、知らずに、自分を探している。
リアが、それに気づいた。何も言わず、ただ、スイの前に半歩、出た。人垣から隠すように。
「……なあ、一つ聞いていいか」
「金取るぞ」
「タダで話せ」
「十王ってのは、一人で国と同じ重さなんだろ。なんで、そんな奴らが帝国のつけた番号に、大人しく従ってんだ」
「金だよ」
男は、あっさり言った。
「帝国は、とんでもねえ額を出す。十王でいる限り、欲しいもんはだいたい手に入る。国も、女も、酒も、根源石もな」
「その蛇口を、わざわざ自分で止める馬鹿はいねえ」
「……力ずくで、奪おうとは思わねえのか」
「思っても、面倒でな」
男は、指を折った。
「一人が国と同じってのは、裏を返せば、たった一人だ。帝国に牙を剥きゃ、残りの九人が黙ってねえ。十王ってのは、一人が動いた瞬間、他の全員が敵に回りかねねえ」
「――そのうえ、帝国にゃ、“あれ”がある」
ガルドは、帝都の中心を顎で示した。ひときわ高い、黒い尖塔。
「特務機関。名をブラッドっつう。帝国の戦力の、六割があそこだ」
「十王でも、あそことは、あんまり事を構えたくねえ。やり合えば、勝てても、無事じゃ済まねえからな」
「だから、みんな行儀よくしてる。番号の下でな」
「……六割、か」
グランが、その尖塔を見上げた。
「一つの機関に、国の戦力の六割。ずいぶん、偏った国だな」
「偏ってんじゃねえ。そう作ったんだよ、皇帝がな」
スイは、その黒い尖塔を、見上げた。
肌は、何も感じない。遠すぎるのか。それとも――そこにいる”何か”が、感じ取らせないのか。
「ま、お前にゃ一生関わりのねえ話だ」
男は、また歩き出した。
「――と、言いたいとこだが」
道の先が、ざわめいた。
人垣が、割れていく。左右へ、波が引くように。
スイの肌が、粟立った。
ざわ、と。
この街に着いてから、感じなかったものだ。強い相手の前に立つと鳴る、あの感覚。ガルドからは、遂に一度も鳴らなかった。
それが、今――鳴っている。
いや。
――鳴って、いない。
肌は粟立っている。危険だと、体が言っている。なのに、どこから来るのかが、掴めない。
人垣の中心に、誰かが歩いてくる。目には、見える。だが、そこに”いる”という感触が、ひどく薄い。
「……スイ。あれはまずい」
リアの声が、掠れていた。剣の里の娘が、本能で察している。あれには、勝てない、と。
「……お」
背後で、ガルドが小さく声を漏らした。
「珍しいな。アンタが自分から出てくるとは」
その人物が、人垣を抜けた。
女だった。
背が、高い。スイより頭ひとつ、いや、それ以上。すらりと伸びた長身に、白い髪が腰まで流れている。肌は、雪より白い。その中で、両の眼だけが、燃えるような赤。
美しい。だが、その前に――薄い。
髪の先が、背後の景色に透けている。そこに立っているのに、風景の一部のように、いるという事実が滲んでいた。
女は、大股で歩いてきて、スイの正面で足を止めた。
「――お前か」
その声は、外見の儚さとは裏腹に、低く、男勝りだった。
「海の匂いがする。眼の色も間違いない。探していたぞ、ずっとな」
女は、返事も待たず、スイの顎を指で掬い上げた。無遠慮に、顔を検分する。
「ふん。こんな子供が、最後の一人か。……まあいい」
リアの刃が、鞘を鳴らした。半分、抜きかけている。
「――その手を離せ」
娘の声が、震えていた。恐怖を、意地で押さえつけている。相手が誰かも分からないまま、それでも前に出ようとしている。
「ほう」
女の赤い眼が、リアを向いた。
「その細腕で、私に抜くか。剣の里の匂いだな。――いい師に、育てられたと見える」
リアの手が、止まった。図星を、突かれたからだ。
「……っ、なんだよ、あんた」
スイは、その手を払った。女は、気にした風もない。
「虚空。十王の二番目だ」
女は、名乗った。
「そして、お前を迎えに来た者だ。――ついて来い」
ガルドが、口笛を吹いた。
「へえ。連行の話が、変わっちまったな」
男は、大剣を担ぎ直した。
「二番目。そのガキは、帝国が裁くか座らせるか決める品でな。勝手に持ってかれちゃ、俺の日当が消える」
「日当か。いくらだ。私が倍出す」
「話が早ェな。俺は金さえくれりゃあいい」
「ちょろいんだな」
「同感だ」
二人の間に、火花はなかった。ただ、互いに――値踏みだけがあった。斬り合えばどうなるか。二人とも、それを一瞬で計算して、どちらも手を出さなかった。
スイは、その赤い眼と、透ける髪を、見ていた。
――迎えに来た。この女は、なぜ海の民を探していた。味方なのか。それとも、教会と同じ、海の民を別の理由で欲しがる、また新しい何かなのか。
「……なんで、あんたが俺を迎えに来る。俺をどうする気だ」
虚空は、しばらく、その赤い眼でスイを見下ろしていた。
そして、初めて――口の端を、わずかに歪めた。笑った、のかもしれない。
「そう睨むな。取って食いはせん」
「話はあそこでする。ここでは耳が多すぎる」
女は、顎で、帝都の高台を示した。人垣の、さらに向こう。白い建物が見えた。
「――来い、海の子。お前に、見せたいものがある」
「見てから、逃げるか残るか決めろ。それでも遅くはない」
“帝国編、始動”




