↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/72

第34話 空の玉座

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】


“第34話 空の玉座”


 同じ夜。娘を乗せた船が、東の海を滑っていた頃。


 剣の里に、灯りはひとつも点いていなかった。


 ゼイル・ルヴァンは、木の根方に座っていた。焚き火はとうに落ちている。灰の中で、芋がひとつ、黒く焦げていた。


 男は、東の空を見ていた。


「……無事に、ソルグに着いたかな」


 誰にともなく、そう呟いた。


           


 思い出していたのは、あの渓谷だ。


 九日、早かった。


 あの朝、娘を追って山を降りた。里を出た子が、まっすぐ危ない場所へ向かっている。それが分かったから、芋を置いて出た。


 着いた谷は、静かだった。


 娘が倒れていた。弟子が這っていた。巨漢が、岩に埋まっている。三人とも、生きてはいる。だが、まともに立てる者は一人もいなかった。


 その真ん中に、黒い外套の男が立っていた。


「――九日、早い」


 男は、俺を見て、そう言った。


 意味が分からなかった。お前がここへ来るのは九日後だ、この場所でもない、と男は続けた。気味の悪い喋り方をする奴だった。


 だが、構っている場合ではなかった。


 この惨状を作ったのが、目の前のこいつだということだけは、分かった。


           


 俺は、鯉口を切った。


 四十年、抜いていない剣だ。抜けば、加減が効かない。だから、鞘の中で終わらせるつもりだった。


 ――秘技「水鏡(みかがみ)」。


 抜かずに、鞘の腹から斬撃だけを走らせる。谷ひとつぶんの幅を持つ、白い一線。里の盆地で、あの水の坊主に見せてやったのと同じ手だ。


 ただし、幅が違う。加減は、半分だけ外した。


    シャッ


 白が、男の左半身へ届く。


           


 ――届かなかった。


           


 男は、左手を上げただけだった。掌を、こちらへ向けて。


 その掌の前で、白い斬撃に――ひびが入った。


           


 ぴき、と。


           


 硝子だ。


 白い斬撃が、まるで硝子細工にでもなったように、掌に近い側から罅割れていく。斬撃という「現象」に、あってはならない亀裂が走る。線ではなく、面でもなく、俺が今こいつを斬ったという事実そのものに、蜘蛛の巣状の罅が広がっていく。


     パキ、パキパキ、パキィンッ!


           


 砕けた。


 斬撃が、割れて、散った。硝子が砕けるように、光の破片になって――そして、その破片が、落ちる前に消えた。


 削れたのではない。押し返されたのでもない。俺の斬撃は、この世に在ったという事実ごと、罅割れて、砕けて、無くなった。


 斬れば、断面が残る。焼けば、灰が残る。潰せば、欠片が残る。


 この世で何かが失われる時は、必ず、何かが残るものだ。それが決まりだ。八千年、一度も破られたことのない決まりだった。


 ――何も、残らなかった。


 破片すら、床に落ちなかった。俺が今、何を斬ったのか。その記憶にまで、細い罅が入っていく。


           


 ――なんだ、こりゃ。


           


 俺は、四十年ぶりに、背筋が凍った。


           


 消滅系か。


 いや。消すだけの根源なら、消えた場所に痕が出る。焦げるか、歪むか、抉れるか。何かしらだ。だがこれは、痕すら「無かったこと」にする。消滅ではない。消滅の、もっと手前――在ることそのものに罅を入れて、割っている。


 コピー系統か?


 俺の斬撃を写し取って、逆再生している――そういう類か。斬撃を斬撃で相殺するのではなく、俺のやったことを、俺より先にやり直して、無効にする。


 いや。それも違う。


 俺の知る限り、こんな挙動をする根源は、無い。名前すら、聞いたことがない。


           


 ――試すか。


           


 俺は、間合いを詰めた。抜き身ではない。あくまで鞘の中の刃で、下段から、掬い上げる一閃。


 だが、その刃が届くより早く。


           


 男の足元から、水が湧いた。


           


 ――は。


           


 水無月。


 あの坊主の技だ。渇いた谷に、水源など無い。無いところから、男は水を生んだ。十二の粒でもない。掌の上で、それは既に完成された刃の形をしていた。


 あの坊主が、命を削って十二粒を寄せ、ようやく一度だけ振るう技を。この男は、息をするように、生み出している。


    ザンッ


 水の刃が、俺の脇腹を裂いた。


 浅い。当てる気がなかったからだ。本気なら、今ので終わっていた。


           


 ――同じ根源だ。あの坊主と、同じ、水。


           


 俺は、そこで、確信した。


 最初に感じた匂いは、間違いではなかった。生まれ持った系統は、水だ。あの坊主と、同じ。


 だが、掌から来るあの理を割るものは、水ではない。まったく別の、名も知れぬ系統。冷たくて、深くて、底が無い。触れれば、こちらの「ある」に罅が入り、「ない」へ割れていく、そういう質のもの。


 ――それだけで、二つだ。


 だが、それだけではなかった。


 こいつは、九日早いと言った。この場所ではないと言った。まるで、この先に起きることを、既に一度なぞってきたかのように。斬り結びながら、俺の太刀筋を、抜く前から知っている節がある。まるで、先の時間を覗く目でも、持っているかのように。


 ――もし、それも根源だとしたら。


 水。理を割るもの。そして、時を読むもの。


 少なくとも、三つ。


           


 アルケーは、一人にひとつ。それが決まりだ。剣の血に生まれても、授かる根源はひとつきり。


 二つ持って生まれた人間の話など、俺は伝承の中でしか聞いたことがない。世界の頂に立つ、あの席の男――名を口にするのも憚られる、あの化け物が、二つの根源を持つのだと。それも、あくまで伝承だ。真偽は、誰も確かめていない。


 ――なのに、この男は、それを超えている。


 規格の外、では足りない。


 これは、居てはならないものだ。


           


 俺は、鯉口を、もう一度切った。


 今度は、加減を、外した。


           


    ――抜いた。


           


 四十年ぶりに、剣が鞘から出た。


 その瞬間、谷の空気が変わった。里の田が全て静止する、あの静けさ。それが、渓谷の岩壁一枚ぶんに広がった。風が止む。落ちかけた石が、中空で止まる。男の外套の裾が、初めて揺れた。


           


 ――斬撃には、段がある。


           


 鞘の中の秘技は、加減された剣だ。抜いた剣は、そうではない。


 俺が鞘から抜いた剣を見た人間は、この八千年で、一人残らず死んでいる。


 ――奥義「凪払(なぎはらい)」。


           


 白が、走った。


 線ではない。男を中心に、上下左右、逃げ場を全て断つ形で、白が球状に閉じた。斬るのではなく、閉じ込めて、内側にあるものを、世界からまとめて差し引く。


 鞘を抜いた俺の、本当の間合いだった。これを喰らって、原形を保った者はいない。


    ゴォンッ


 谷が、鳴った。


           


    ――割れた。


           


 白の球に、内側から罅が入った。


 男は、動いていない。掌を、開いているだけだ。


 俺の間合いそのものが、硝子のように罅割れていく。閉じ込めたはずの空間が、俺の奥義ごと、パキパキと音を立てて砕けていく。俺が世界から差し引こうとしたものを、この男が、先に割った。


 同じことを、逆から、やられた。俺の理が、こいつの理に、砕かれている。


           


「――ゼイル・ルヴァン」


 男が、初めて口を開いた。


「あなたは、強い。この一周では、あなたが七番目だ。それは、正しい」


 七番目。


 俺の、序列だ。世界がそう並べた、十の椅子の、七つ目。


 こいつは、それを事実として口にした。まるで、その椅子の上から数えているような、そんな口ぶりで。


 ――お前は、どこに座っている。


 問い返したかった。だが、その隙は、どこにもなかった。


           


 鯉口を切る。抜く。閉じる。また切る。


   シャッ、シャッ、シャッ


 白が瞬く。割れる。瞬く。割れる。


 崖の縁で、光が明滅した。斬るたびに、砕かれる。俺は四十年ぶんの剣を、全部出していた。加減は、もうどこにもない。里で見せたことのない太刀を、次々と。


 その全部が、あの掌の前で、硝子のように罅割れて、この世に在った事実ごと、砕け散った。


           


 ――勝てん。


           


 冷静に、そう理解した。


 斬った端から割られるなら、何本斬っても同じだ。前提を疑い、順序を疑い、結論を疑う。疑い尽くして、同じ場所に出る。


 どこか一箇所、計算違いが一つでもあれば、この手を下ろす理由になった。


 ――なかった。


           


 だから、斬る先を変えた。


 男へ、ではなく――倒れた坊主の、真横の岩壁へ。


    ズガアッ


 壁が割れた。数十年ぶんの落石ごと、外側へ倒れる。崖の下に、森が見えた。


 二本目の道を、自分で作った。


           


 巨漢が、それに気づいた。這って、坊主と娘を引き寄せ、透明の塊に三人ぶんを包む。そして、崖の切れ目へ、身を投げた。


 俺は、振り返らなかった。振り返れば、あの男が、落ちていく連中へ掌を向ける。それだけは、させられない。あの掌に触れたら、死ぬのではない。生きていたという事実ごと、罅割れて、砕ける。


「――なぜ、逃がす」


 男が、感情のない声で訊いた。


「あの子供を、私はここで止めなければならない」


「知らんな」


 俺は、鯉口を切りながら答えた。


「うちの弟子だ。3ヶ月、うちの田で育てた」

「育てたもんを、易々と渡す師匠が、どこにいる」


           


 そこから、どれだけ斬ったか。


 覚えていない。数えなかった。数えたら、手が止まる。


 男を止めるのではない。止められない。最初の三太刀で分かっていた。


 ――足止めだ。三人が森の奥へ逃げ切るまでの、それだけの時間を稼ぐ。


           


 白が瞬くたび、割られた。


 俺の作業着が裂けた。左の袖が、肘から先ごと、砕けて消える。腕は在る。布だけが、罅割れて散った。斬られたのではない。掠めた余波が、そこに在った布を「無かったこと」にした。俺の腕が消えなかったのは、運が良かっただけだ。


 右の脇腹の、さっき水に裂かれた傷が、じくじくと血を吐いていた。だが、そんなものは、もう気にならない。この掌に触れれば、傷の有無すら、意味を失うのだから。


           


 それでも、斬り続けた。


           


 日が、傾いていく。


 崖の下の森が、夕日に染まっていく。三人は、もう、あの木々の、どこかにいる。


 ――逃げ切ったか。


 分からない。確かめる余裕は、とうになかった。


           


 最後の一太刀を、俺は鞘に納めた。


 もう、斬れない。


 右腕が上がらない。肘から先の感覚が、半分ない。四十年、一度も折れなかった鞘が、真ん中から折れていた。


           


 ――そして。


           


 男もまた、初めて、動いていた。


           


 黒い外套が、乱れている。裾が焼け、肩の布が破れ。その下の肌に、細い傷が一本、走っていた。


 浅い。ごく浅い。だが――血が、出ていた。


           


 俺の剣が、この男に届いた、ただ一つの痕だった。


           


 男は、その傷に触れた。指で、血を拭う。しばらく、それを見ていた。


           


 ――そして、初めて。


 その声に、感情らしきものが、混じった。


           


「……こんなはずじゃ、なかった」


           


 俺は、その言葉を、聞いた。


 こんなはず、とは。


 この男は、この結末を、既に知っていたような口ぶりだった。九日早い、と言った。この場所ではない、と言った。まるで、一度見た芝居を、もう一度見せられているような。


 台本と、違う。そう言っているように、聞こえた。


           


 男は、それきり、何も言わなかった。崖の下を、一度だけ見た。三人の消えた、森の奥を。


 追わなかった。追う理由が、この場から、消えていたからだ。


 男は、背を向けて、歩き出した。ただ、疲れた人間のように、一歩ずつ。


           


 俺は、壁に背を預けて、座り込んだ。


 息が、浅い。ああいうことをした後は、いつもそうだ。しばらく、胸が動かなくなる。


           


 ――娘は、俺を死んだと思うだろうな。


           


 薄れゆく意識の中で、そう思った。


 あいつは、言葉を尽くさない子だ。尽くさないから、いざという時に、何を言えばいいのか分からなくなる。


 ――起きたら、叩かれるかもしれん。


 そう思うと、少し、可笑しかった。


           

           


 ――そして、今。


           


 剣の里の、木の根方で。


 俺は、焦げた芋を割った。


 あの日から、傷はもう塞がっている。肘から先の感覚も、七割は戻った。娘が「3ヶ月」と言った、その通りに。


「……あの坊主、なあ」


 俺は、独り言のように呟いた。


           


 水の坊主。スイと言った。


 初めて盆地で会った時から、妙に、目が離せなかった。


 あいつは、俺の剣を素手で受けた。四百人の弟子でも、誰一人できなかったことだ。無茶で、無鉄砲で、勝てもしない相手に真っ直ぐ突っ込んでいく。守るものを見つけると、後先を考えなくなる。


 ――昔の、俺だ。


 まだ剣しか持っていなかった頃の、若い俺に、あの坊主はよく似ている。


 だから、田で預かった。3ヶ月、飯を食わせて、剣の心を叩き込んだ。手のかかる弟子ほど、可愛いものはない。


           


 同じ水の根源。だが、あの男とあの坊主の間には、天と地よりも遠い開きがある。


 片や、水源の無い谷で、水無月を息のように生む男。片や、命を削ってようやく十二粒を寄せる坊主。


 ――あの差を、あの坊主は、埋めなきゃならん。


           


「『こんなはずじゃなかった』――か」


           


 俺は、四十年ぶりに剣を抜いて、勝てなかった。


 だが、あの男もまた、勝てなかった。三人を逃した。理を割る根源を持ちながら、たった一本、傷を負った。そして、あの言葉を漏らした。


 「こんなはず」ではない、何か。


 あの男は、この先の全部を、知っているように見えた。知っていて、その通りにいかず、狼狽しているように見えた。


           


 ――幾つもの禁忌の根源を宿した、刺客か。


           


 俺は、そう見立てていた。


 この先の展開を読む力を持ち、坊主の命を狙う、どこかの手の者。あの頂の席の化け物すら超える、数の根源を宿した何か。そう考えるのが、一番、筋が通る。


 だが。


 あの、血を拭った時の顔だけが。


 刺客の顔では、なかった。


 ――あれは。何かを、悔いている顔だった。


           


「……まあ、いい」


 俺は、立ち上がった。


 東の空が、白みはじめている。田に、鶏が鳴いた。


「坊主。お前が、あいつと決着つける日が来る」

「その時までに、超えてみせろ」

「――俺が、超えられなかった壁を、な」


           


 剣の里は、今日も、米を炊く。


           


 ――同じ空の下。東の海を、船が一艘。


           


 帝都アルディアまで、あと、六日。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。