第34話 空の玉座
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
“第34話 空の玉座”
同じ夜。娘を乗せた船が、東の海を滑っていた頃。
剣の里に、灯りはひとつも点いていなかった。
ゼイル・ルヴァンは、木の根方に座っていた。焚き火はとうに落ちている。灰の中で、芋がひとつ、黒く焦げていた。
男は、東の空を見ていた。
「……無事に、ソルグに着いたかな」
誰にともなく、そう呟いた。
思い出していたのは、あの渓谷だ。
九日、早かった。
あの朝、娘を追って山を降りた。里を出た子が、まっすぐ危ない場所へ向かっている。それが分かったから、芋を置いて出た。
着いた谷は、静かだった。
娘が倒れていた。弟子が這っていた。巨漢が、岩に埋まっている。三人とも、生きてはいる。だが、まともに立てる者は一人もいなかった。
その真ん中に、黒い外套の男が立っていた。
「――九日、早い」
男は、俺を見て、そう言った。
意味が分からなかった。お前がここへ来るのは九日後だ、この場所でもない、と男は続けた。気味の悪い喋り方をする奴だった。
だが、構っている場合ではなかった。
この惨状を作ったのが、目の前のこいつだということだけは、分かった。
俺は、鯉口を切った。
四十年、抜いていない剣だ。抜けば、加減が効かない。だから、鞘の中で終わらせるつもりだった。
――秘技「水鏡」。
抜かずに、鞘の腹から斬撃だけを走らせる。谷ひとつぶんの幅を持つ、白い一線。里の盆地で、あの水の坊主に見せてやったのと同じ手だ。
ただし、幅が違う。加減は、半分だけ外した。
シャッ
白が、男の左半身へ届く。
――届かなかった。
男は、左手を上げただけだった。掌を、こちらへ向けて。
その掌の前で、白い斬撃に――ひびが入った。
ぴき、と。
硝子だ。
白い斬撃が、まるで硝子細工にでもなったように、掌に近い側から罅割れていく。斬撃という「現象」に、あってはならない亀裂が走る。線ではなく、面でもなく、俺が今こいつを斬ったという事実そのものに、蜘蛛の巣状の罅が広がっていく。
パキ、パキパキ、パキィンッ!
砕けた。
斬撃が、割れて、散った。硝子が砕けるように、光の破片になって――そして、その破片が、落ちる前に消えた。
削れたのではない。押し返されたのでもない。俺の斬撃は、この世に在ったという事実ごと、罅割れて、砕けて、無くなった。
斬れば、断面が残る。焼けば、灰が残る。潰せば、欠片が残る。
この世で何かが失われる時は、必ず、何かが残るものだ。それが決まりだ。八千年、一度も破られたことのない決まりだった。
――何も、残らなかった。
破片すら、床に落ちなかった。俺が今、何を斬ったのか。その記憶にまで、細い罅が入っていく。
――なんだ、こりゃ。
俺は、四十年ぶりに、背筋が凍った。
消滅系か。
いや。消すだけの根源なら、消えた場所に痕が出る。焦げるか、歪むか、抉れるか。何かしらだ。だがこれは、痕すら「無かったこと」にする。消滅ではない。消滅の、もっと手前――在ることそのものに罅を入れて、割っている。
コピー系統か?
俺の斬撃を写し取って、逆再生している――そういう類か。斬撃を斬撃で相殺するのではなく、俺のやったことを、俺より先にやり直して、無効にする。
いや。それも違う。
俺の知る限り、こんな挙動をする根源は、無い。名前すら、聞いたことがない。
――試すか。
俺は、間合いを詰めた。抜き身ではない。あくまで鞘の中の刃で、下段から、掬い上げる一閃。
だが、その刃が届くより早く。
男の足元から、水が湧いた。
――は。
水無月。
あの坊主の技だ。渇いた谷に、水源など無い。無いところから、男は水を生んだ。十二の粒でもない。掌の上で、それは既に完成された刃の形をしていた。
あの坊主が、命を削って十二粒を寄せ、ようやく一度だけ振るう技を。この男は、息をするように、生み出している。
ザンッ
水の刃が、俺の脇腹を裂いた。
浅い。当てる気がなかったからだ。本気なら、今ので終わっていた。
――同じ根源だ。あの坊主と、同じ、水。
俺は、そこで、確信した。
最初に感じた匂いは、間違いではなかった。生まれ持った系統は、水だ。あの坊主と、同じ。
だが、掌から来るあの理を割るものは、水ではない。まったく別の、名も知れぬ系統。冷たくて、深くて、底が無い。触れれば、こちらの「ある」に罅が入り、「ない」へ割れていく、そういう質のもの。
――それだけで、二つだ。
だが、それだけではなかった。
こいつは、九日早いと言った。この場所ではないと言った。まるで、この先に起きることを、既に一度なぞってきたかのように。斬り結びながら、俺の太刀筋を、抜く前から知っている節がある。まるで、先の時間を覗く目でも、持っているかのように。
――もし、それも根源だとしたら。
水。理を割るもの。そして、時を読むもの。
少なくとも、三つ。
アルケーは、一人にひとつ。それが決まりだ。剣の血に生まれても、授かる根源はひとつきり。
二つ持って生まれた人間の話など、俺は伝承の中でしか聞いたことがない。世界の頂に立つ、あの席の男――名を口にするのも憚られる、あの化け物が、二つの根源を持つのだと。それも、あくまで伝承だ。真偽は、誰も確かめていない。
――なのに、この男は、それを超えている。
規格の外、では足りない。
これは、居てはならないものだ。
俺は、鯉口を、もう一度切った。
今度は、加減を、外した。
――抜いた。
四十年ぶりに、剣が鞘から出た。
その瞬間、谷の空気が変わった。里の田が全て静止する、あの静けさ。それが、渓谷の岩壁一枚ぶんに広がった。風が止む。落ちかけた石が、中空で止まる。男の外套の裾が、初めて揺れた。
――斬撃には、段がある。
鞘の中の秘技は、加減された剣だ。抜いた剣は、そうではない。
俺が鞘から抜いた剣を見た人間は、この八千年で、一人残らず死んでいる。
――奥義「凪払」。
白が、走った。
線ではない。男を中心に、上下左右、逃げ場を全て断つ形で、白が球状に閉じた。斬るのではなく、閉じ込めて、内側にあるものを、世界からまとめて差し引く。
鞘を抜いた俺の、本当の間合いだった。これを喰らって、原形を保った者はいない。
ゴォンッ
谷が、鳴った。
――割れた。
白の球に、内側から罅が入った。
男は、動いていない。掌を、開いているだけだ。
俺の間合いそのものが、硝子のように罅割れていく。閉じ込めたはずの空間が、俺の奥義ごと、パキパキと音を立てて砕けていく。俺が世界から差し引こうとしたものを、この男が、先に割った。
同じことを、逆から、やられた。俺の理が、こいつの理に、砕かれている。
「――ゼイル・ルヴァン」
男が、初めて口を開いた。
「あなたは、強い。この一周では、あなたが七番目だ。それは、正しい」
七番目。
俺の、序列だ。世界がそう並べた、十の椅子の、七つ目。
こいつは、それを事実として口にした。まるで、その椅子の上から数えているような、そんな口ぶりで。
――お前は、どこに座っている。
問い返したかった。だが、その隙は、どこにもなかった。
鯉口を切る。抜く。閉じる。また切る。
シャッ、シャッ、シャッ
白が瞬く。割れる。瞬く。割れる。
崖の縁で、光が明滅した。斬るたびに、砕かれる。俺は四十年ぶんの剣を、全部出していた。加減は、もうどこにもない。里で見せたことのない太刀を、次々と。
その全部が、あの掌の前で、硝子のように罅割れて、この世に在った事実ごと、砕け散った。
――勝てん。
冷静に、そう理解した。
斬った端から割られるなら、何本斬っても同じだ。前提を疑い、順序を疑い、結論を疑う。疑い尽くして、同じ場所に出る。
どこか一箇所、計算違いが一つでもあれば、この手を下ろす理由になった。
――なかった。
だから、斬る先を変えた。
男へ、ではなく――倒れた坊主の、真横の岩壁へ。
ズガアッ
壁が割れた。数十年ぶんの落石ごと、外側へ倒れる。崖の下に、森が見えた。
二本目の道を、自分で作った。
巨漢が、それに気づいた。這って、坊主と娘を引き寄せ、透明の塊に三人ぶんを包む。そして、崖の切れ目へ、身を投げた。
俺は、振り返らなかった。振り返れば、あの男が、落ちていく連中へ掌を向ける。それだけは、させられない。あの掌に触れたら、死ぬのではない。生きていたという事実ごと、罅割れて、砕ける。
「――なぜ、逃がす」
男が、感情のない声で訊いた。
「あの子供を、私はここで止めなければならない」
「知らんな」
俺は、鯉口を切りながら答えた。
「うちの弟子だ。3ヶ月、うちの田で育てた」
「育てたもんを、易々と渡す師匠が、どこにいる」
そこから、どれだけ斬ったか。
覚えていない。数えなかった。数えたら、手が止まる。
男を止めるのではない。止められない。最初の三太刀で分かっていた。
――足止めだ。三人が森の奥へ逃げ切るまでの、それだけの時間を稼ぐ。
白が瞬くたび、割られた。
俺の作業着が裂けた。左の袖が、肘から先ごと、砕けて消える。腕は在る。布だけが、罅割れて散った。斬られたのではない。掠めた余波が、そこに在った布を「無かったこと」にした。俺の腕が消えなかったのは、運が良かっただけだ。
右の脇腹の、さっき水に裂かれた傷が、じくじくと血を吐いていた。だが、そんなものは、もう気にならない。この掌に触れれば、傷の有無すら、意味を失うのだから。
それでも、斬り続けた。
日が、傾いていく。
崖の下の森が、夕日に染まっていく。三人は、もう、あの木々の、どこかにいる。
――逃げ切ったか。
分からない。確かめる余裕は、とうになかった。
最後の一太刀を、俺は鞘に納めた。
もう、斬れない。
右腕が上がらない。肘から先の感覚が、半分ない。四十年、一度も折れなかった鞘が、真ん中から折れていた。
――そして。
男もまた、初めて、動いていた。
黒い外套が、乱れている。裾が焼け、肩の布が破れ。その下の肌に、細い傷が一本、走っていた。
浅い。ごく浅い。だが――血が、出ていた。
俺の剣が、この男に届いた、ただ一つの痕だった。
男は、その傷に触れた。指で、血を拭う。しばらく、それを見ていた。
――そして、初めて。
その声に、感情らしきものが、混じった。
「……こんなはずじゃ、なかった」
俺は、その言葉を、聞いた。
こんなはず、とは。
この男は、この結末を、既に知っていたような口ぶりだった。九日早い、と言った。この場所ではない、と言った。まるで、一度見た芝居を、もう一度見せられているような。
台本と、違う。そう言っているように、聞こえた。
男は、それきり、何も言わなかった。崖の下を、一度だけ見た。三人の消えた、森の奥を。
追わなかった。追う理由が、この場から、消えていたからだ。
男は、背を向けて、歩き出した。ただ、疲れた人間のように、一歩ずつ。
俺は、壁に背を預けて、座り込んだ。
息が、浅い。ああいうことをした後は、いつもそうだ。しばらく、胸が動かなくなる。
――娘は、俺を死んだと思うだろうな。
薄れゆく意識の中で、そう思った。
あいつは、言葉を尽くさない子だ。尽くさないから、いざという時に、何を言えばいいのか分からなくなる。
――起きたら、叩かれるかもしれん。
そう思うと、少し、可笑しかった。
――そして、今。
剣の里の、木の根方で。
俺は、焦げた芋を割った。
あの日から、傷はもう塞がっている。肘から先の感覚も、七割は戻った。娘が「3ヶ月」と言った、その通りに。
「……あの坊主、なあ」
俺は、独り言のように呟いた。
水の坊主。スイと言った。
初めて盆地で会った時から、妙に、目が離せなかった。
あいつは、俺の剣を素手で受けた。四百人の弟子でも、誰一人できなかったことだ。無茶で、無鉄砲で、勝てもしない相手に真っ直ぐ突っ込んでいく。守るものを見つけると、後先を考えなくなる。
――昔の、俺だ。
まだ剣しか持っていなかった頃の、若い俺に、あの坊主はよく似ている。
だから、田で預かった。3ヶ月、飯を食わせて、剣の心を叩き込んだ。手のかかる弟子ほど、可愛いものはない。
同じ水の根源。だが、あの男とあの坊主の間には、天と地よりも遠い開きがある。
片や、水源の無い谷で、水無月を息のように生む男。片や、命を削ってようやく十二粒を寄せる坊主。
――あの差を、あの坊主は、埋めなきゃならん。
「『こんなはずじゃなかった』――か」
俺は、四十年ぶりに剣を抜いて、勝てなかった。
だが、あの男もまた、勝てなかった。三人を逃した。理を割る根源を持ちながら、たった一本、傷を負った。そして、あの言葉を漏らした。
「こんなはず」ではない、何か。
あの男は、この先の全部を、知っているように見えた。知っていて、その通りにいかず、狼狽しているように見えた。
――幾つもの禁忌の根源を宿した、刺客か。
俺は、そう見立てていた。
この先の展開を読む力を持ち、坊主の命を狙う、どこかの手の者。あの頂の席の化け物すら超える、数の根源を宿した何か。そう考えるのが、一番、筋が通る。
だが。
あの、血を拭った時の顔だけが。
刺客の顔では、なかった。
――あれは。何かを、悔いている顔だった。
「……まあ、いい」
俺は、立ち上がった。
東の空が、白みはじめている。田に、鶏が鳴いた。
「坊主。お前が、あいつと決着つける日が来る」
「その時までに、超えてみせろ」
「――俺が、超えられなかった壁を、な」
剣の里は、今日も、米を炊く。
――同じ空の下。東の海を、船が一艘。
帝都アルディアまで、あと、六日。




