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第33話 旗

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】


“第33話 旗”


 二日後の朝、港に船が入った。


 漁船ではない。獣の国の船でもない。喫水が深く、帆が三枚ある。この港で見たことのない大きさだった。板の上にはまだ焦げ跡が残り、桟橋は二枚落ちたまま、市の台は組み直しの途中だ。灯りの石は散ってしまったので、軒下には何も吊るされていない。昼だから、市は立っていない。町の人間は網を繕っていた。二日ぶりの、漁師の朝だった。


「……あれ、どこの旗だ」

「知らねえ。うちの客じゃねえな」


 帆の紋が、日に照らされて見えた。交差した二本の道と、その中央に円。帝国のものだった。


           


 スイは、宿の二階からそれを見ていた。二日、ほとんど動けなかった。肋が何本折れているのか、まだ数えていない。右腕は肩から吊っている。膝は立つようになったが、階段は片手で降りる。


「来やがったな」

「二日って言ってたな、あの旦那」

「ぴったりだ。あの旦那、勘定だけは間違えなかったからな」


「船が大きい。確かめに来るだけなら、あの大きさは要らん」


           


 板が下りた。降りてきたのは十人ばかりの騎士だった。揃いの外套。


 ――そして、その後ろから。


    ドッ


 板が、沈んだ。一人ぶんの体重ではない。背に負ったものの重さだ。


 男が降りてきた。背が高い。グランほどではないが肩幅がある。腕が丸太で、首が太い。日に焼けていて、髭を剃り残している。


 背中に、大剣を担いでいた。鞘がない。刃が剥き身のまま、革帯一本で括りつけてある。男の身長ほどの長さ。刃幅は掌三つぶん。あれを担いで船を降りるという行為が、既に人の膂力の話ではなかった。


「――おう、着いた着いた。三日も船だと娯楽がなくて頭にくるなァ」


 男は、大きく伸びをした。


「おい、誰か水……いや、自分で汲む」


           


 ――スイの背筋が、粟立った。


 肌が、何も拾わない。


 港である。海際である。空気は湿っている。誰かが歩けば、その分だけ空気が押される。押された空気は湿りを運び、この体に届く。


 ――この男から、何も来ない。


 歩いている。板を鳴らしている。伸びをして、笑って、水の話をしている。その全部が目には見える。だが、肌に届かない。


「……坊主。あれ、鳴らねえぞ」


 巨漢の声が、掠れていた。


 この男が言う”鳴る”とは、警報のことだ。強い相手の前に立つと、体のどこかが鳴る。獣王の時に鳴った。剣の里で、鳴らなかった。


「あの親父さんと、同じだ」


           


 ――スイも、そう思った。思って、しかし違和感が残った。


 剣王の前に立った時、量れなかった。天秤の皿に何も載らなかった。重さという項目そのものが、あの男には存在していなかった。あまりに格が違うと、人は測ることすら諦める。


 ――今は、違う。


 皿に、何も載っていない。載っていないのではなく、そもそも何も来ていない。


 量れないのと、量るものが無いのは、違う。


 ――だが、その差をスイはまだ知らなかった。


           


 男は、板の上を歩いてきた。倒れたままの巨体の前で足を止める。二日、誰も触れられなかった獣王の骸だ。


「……ああ、本当に死んでんな」


 しゃがみ込んで、その顔を覗く。


「名簿の十番目。去年うちの闘技場で椅子を三十壊しただろ。弁償まだだぞ」


 誰も、笑わなかった。男は立ち上がり、頭を掻いた。


「で、誰だ。これやったの」


           


 ――町が、静まった。


 スイは、宿の階段を降りていた。片手で手すりを掴んで、一段ずつ。膝が笑っている。それでも、間に合った。


 その途中で、町の誰かが口を開いた。骨の台に座っていた、漁師の手をした初老の男だ。


「……そのお方は、この港で――」


 二日前なら、続きが違っていた。“そのような方は、この町に来ておりません”。二百年、この町はそう言ってきた。教えたのは、板の上に転がっている男だ。


「――この港で、死にました。一昨日の夜です」


「ほう」

「わしらは、見てました。全部」


 町の人間が、隠さなかった。誰も口裏を合わせていない。合わせるという発想が、この二日で消えたのだ。やり方を一つしか知らなかった。だから、別のやり方を一つ渡せば、そっちを使う。


「よし、正直でいい。楽が一番だ。で、殺したのは」


「――俺だ」


           


 スイは、階段の下から板の上へ出た。片腕を吊り、膝を笑わせながら、それでも歩いた。


「おい坊主」

「いい」


 男の前に立つ。見上げた。剣王より高く、獣王よりずっと低い。普通の、大男だった。


「俺が倒した。殺すつもりがなかった…とは言えねえ、トドメは別の奴が刺したけど、削ったのは俺だ」


「ふうん。ガキ、根源は」

「水だ」

「歳は」

「十八」

「いつから使ってる」

「まともに使えるようになったのは、三ヶ月前だ」


           


 ――男の眉が、初めて動いた。


「三ヶ月で、名簿の十番目を殺したか」


 男は、口の端を上げた。


「――面白えなァ」


           


 その瞬間だけ、空気が動いた。ほんの、わずかにだ。


 スイの肌が、それを拾った。拾って、そこで背中が凍った。


 動いたのは、空気ではなかった。この男が半歩、体重を移しただけだ。それだけで、板が二枚沈んだ。


 根源力は、一片も出ていない。出ていないまま、この体重が動いている。


 ――スイは、そこで理解した。


 この男は、量れないのではない。外に、出していないだけだ。全部、体の中にある。


           


「ああ、悪ィ。名乗ってなかったな」


 男は、背中の大剣を親指で示した。


「ガルド・バルガ。名簿の、八番目だ」


           


 ――町が、ざわめいた。


 二日前に倒れた男が十番目だったことは聞いている。それより、上だ。


「……坊主。下がれ。今のお前じゃ、指一本で終わる」

「知ってる」


 スイは、動かなかった。


           


「まあ待て。斬りに来たわけじゃねえ」


 男は、手を振った。担いだ大剣が、その拍子にわずかに揺れる。


 ――スイの肌が、また凍った。


 人からは何も来ない。だが、その背中の刃からは、来る。


 古い。錆びてもいないのに、古い。長く使われすぎて、鉄が鉄でなくなりかけている。刃そのものに、何かが染み込んでいた。根源石と同じ質感だ。ただし、比べものにならないほど濃い。


 ――斬るためだけに、何百年も使われ続けた刃。


 その一点に、この男の”何も感じさせない体”とは別の何かが宿っていた。


「ああ、これか」


 男は、スイの視線に気づいた。


「気になるか。俺もな、どこの誰が持ってたのか知らねえんだよ」

「拾った時にゃ、もうこうだった。振れば斬れる。骨だろうが石だろうが根源だろうが、区別なく斬れる」


 男は、それを担ぎ直した。


「便利だろ。俺みてえに何も持ってねえ男には、ちょうどいい」


           


 ――何も、持っていない。


 スイは、その言葉に引っかかった。この男は根源持ちだ。十王の八番目だ。持っていないはずがない。


 だが、肌は今も何も拾わない。


           


「連れて帰りに来た。二つな」


 男は、指を二本立てた。


「一つ、そこのでかいのの骸。名簿から一人減った以上、首都で確かめる決まりだ」

「二つ、ガキ、お前だ」


「……罪人としてか」


「そこがなァ。十王を殺した奴を、帝国はどう扱うか決まってねえ」

「罪人として吊るすか、空いた席に座らせるか」


           


「……座らねえ」


 スイは、即答した。


「俺は、そういう椅子をこの世からなくすために動いてる」

「一人が国と同じ重さで数えられるから、村が焼けた」

「その椅子に座ったら、俺が焼く側になる」


           


 ――ガルド・バルガは、しばらく黙っていた。それから、腹から笑った。


「はっはァ、面白ェ! なあガキ、それ皇帝の前で言えるか」

「言う」

「即答かよ」


 男は、まだ笑っていた。


「いいぜ、連れてってやる。決めるのは俺じゃねえ。罪人か、八番目より下の十番目か。首都で決まる」


           


 ――そこで、巨漢が前に出た。


「旦那。ついでに一つ、頼まれてくれ。船に三人乗せろ。俺と、そこの嬢ちゃんもだ」

「囚人でもねえのに、なんで」

「商売の話をしに行く。この港、今日から俺のだ。ボルク商会っつう」


 巨漢は、続けた。


「魚を東へ運ぶ。麦を西へ運ぶ。道と船は帝国のもんだろ。だから、通行の話をつけに行く」


「……あんた、名前は」

「グラン・ボルク」

「聞いたことねえな」


           


 ――ガルドは、そこで少し目を細めた。


「いや、あるわ。獣の国の刺客だろ。透けるやつ」

「三年前、うちの……いや、俺は雇われだったな。どこの隊だったか。まあ、一個潰されてる」


「……ああ。俺だ」


 巨漢は、逸らさなかった。


「今、それ言うか」

「言わねえと、後で困るだろ」


           


 ――ガルド・バルガは、また笑った。


「まあ俺的にはどうでもイイ話だわな、乗れ乗れ、三人でも四人でもいい。首都まで七日ある。話は道中で聞く」


 男は、船のほうへ歩き出した。担いだ刃だけが、その背中で静かに濃かった。


           


 ――出航は、その日の夕方だった。


 獣王の骸は、布で巻かれて船倉へ運ばれた。骨にされることなく、そのまま。町の人間が、それを見送った。二百年、この町では死体は品だった。品にせずに運び出されるのを見るのは、たぶん初めてだった。


 桟橋に、帳面を抱えた男が立っていた。


「……グランさん。本当に、行っちまうんですか」

「話つけて、やる事が全部終わったらまたここに戻る。その間、あんたが回せ」

「無理です」

「無理じゃねえ。あんた、二百年ぶんの帳簿を持ってんだろ」


 巨漢は、その一冊を指した。


「山の村がいつ塩を切らすか。北の街道がいつ雪で閉まるか。どこの商人が値を吊り上げてるか。あの旦那は、それで二百年儲けた」

「同じもんで、逆をやれ。余ってるとこで安く買って、足りねえとこへ運ぶ。それだけで飯が増える」


           


 ――レドの手が、止まった。


 この一冊を、この男は命懸けで盗んだ。証拠だと思っていた。町を潰す道具だと思っていた。海に沈められながら、それでも離さなかったのは、それが凶器だったからだ。


 ――設計図でも、あった。


「……できます。たぶん、できます」


そう口にする男を横目に、巨漢は一言


「…それに命をかけて行動を起こしたあんたに不可能はねえよ」


巨漢はそういうと、手を振って歩いて行った


 ――船が出た。


 港の人間が、それを見ていた。網を繕う手を止めて。掘りかけの穴の前で。組み直しの途中の台の傍で。誰も、手を振らなかった。この町には、そういう習慣もない。


 だが、市の縁に立っていた女将が、一度だけ深く頭を下げた。


           


 スイは、船尾からそれを見ていた。斜面にへばりつく町が、遠ざかっていく。灯りはまだ戻っていない。夜が来ても、しばらくは暗いままだろう。


「……なあ、グラン。あの町、良くなるかな」

「知らねえよ」


 巨漢は、あっさり言った。


「三年で元に戻るかもしれねえ。人が減って消えるかもしれねえ。けど、掘る穴の場所は覚えたろ」

「それだけありゃ、次は自分たちでやる」


           


 西の空が、赤かった。船は、東へ向かっていた。


           


 “ソルグ編 完”

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