第32話 核
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
“第32話 核”
港の灯が消えた。軒に吊るされていた石が、全部この男のところへ行ったからだ。市の道が闇に沈み、板の輪郭だけが月に浮いている。その闇の中央で、二十を超える光が渦を巻いていた。炎。氷。風。雷。名も知れぬ属性が混じり、互いを打ち消し合いながら、それでも回り続けている。
「二百年、私は勘定を間違えたことがございません。ですから、本日の損失も既に計算済みでして」
ゴォッ
炎が奔った。板が焼け、桟橋の一枚が炭になる。町の人間が悲鳴も上げずに散った。
「町を一つ失う。仕入れ先を一つ失う。次の海際で、また始めればよろしい。――安いものです」
「安かねえよ」
その炎の手前に、丸太のような腕が立っていた。輪郭が薄い。消えてはいない。道が焼けているから、完全には透けない。
「嬢ちゃん、下がってろ。俺が前だ」
「二人で出たほうが早い」
「早くねえよ。あんた、一発貰ったら終わりだろうが」
娘は答えなかった。答えられなかったのだ。この男の言う通りだった。
ドッ
巨漢が走った。板を踏み抜きながら、炎の中へ真っ直ぐに。
「無謀ですね」
ゴォォッ
炎が正面から来る。グランは避けなかった。腕で顔を庇い、そのまま突っ込んだ。革が焦げ、髪が縮れ、それでも足が止まらない。
ドゴォッ
拳が、商人の腹に埋まった。埋まって、止まる。
「おや」
「……ッ、硬ェ」
ゴォンッ
雷が至近で弾けた。巨体が板の上を転がり、積んだ木箱を三つ潰して止まる。
「グラン!」
「――来んな!」
男は、煙を上げながら立った。
「見えたぞ。あの旦那、“左を庇ってる”」
スイは、板の上からそれを見ていた。膝が立たない。腕も上がらない。掌には湧いても零れるだけの水しかない。
――渓谷と、逆だ。
あの日、この二人は道に転がっていた。グランは岩に埋まり、リアは柄だけを握って動けなかった。自分だけが前に出て、そして何もできなかった。
今は、二人が前にいる。
「――なら、私が出る」
娘が動いた。
技には段がある。誰が決めたのでもない。積み上げた者が勝手にそう呼びはじめただけの、便宜上の階梯だ。
基本技。誰でもやる。秘技。四年か五年、まともに積めば届く。
――秘技とは、一つの動作に複数の意味を持たせる技術である。
「秘技――“八重”(やえ)」
シャアアアッ
――音が、八つ重なった。
斬っているのは一度きりだ。踏み込みも、腕の振りも、ただの一往復しかない。
だが刃が違う。
繋ぎの刃が皮を裂き、その裂け目へ鉈が入る。鉈が押し広げた場所を、返ってきた刃が斬り上げる。上げた刃が作った隙間へ、鉈の峰が滑り込む。
――“一度の斬撃が、八つの傷になっていた。”
カラン、カラ、カラララッ
石が落ちた。六つ。八つ。数えられない。
「――ぐ、ッ」
初めて、商人が呻いた。渦が乱れる。炎が細くなり、氷が形を失う。飲んだ分が、外へ出ていく。
――だが、届かない。
八つの傷は、全部が右側に集まっていた。
「惜しいですね、お嬢さん」
ゴォッ
風が薙いだ。娘の体が横へ飛び、板の上を二度跳ねる。
「――ッ、」
「そこだけは、二百年守ってまいりました」
商人は、左肩を落としたまま笑った。
「斬られる時は、右を前に出す。生まれた時から、そう動くようにできております」
スイは、そこで気づいた。
――“この男、庇っているのではない。”
庇うというのは意識してやることだ。意識してやることなら、意識の外から入れば通る。
だが、この動きは違う。“呼吸と同じだ。“考えずにやっている。
――正面からは、絶対に届かない。
「グランッ!」
声が、掠れた。
「あいつ、“見えてるもんにしか反応してねえ!”」
――巨漢が、笑った。
「――そうこなくちゃな」
ドッ
男が、また走った。
「学ばない方だ」
ゴォォッ
炎が来る。避けない。腕で庇い、突っ込み、また殴る。
ドゴォッ
「無駄です」
ゴォンッ
雷。転がる。立つ。走る。殴る。
三度目。四度目。
巨体が焦げ、板が割れ、それでも止まらない。
「……何やってんだ、あの人」
「効いてねえだろ、全然」
――効かせるためではなかった。
商人の目が、その巨体を追っている。
追わざるを得ない。この男は見えるものにしか反応できない。“見えるものが暴れていれば、そこを見る。”
「――旦那ァ! こっち見てろよォッ!」
――そして、スイだけが気づいた。
巨漢の掌から、それが出ている。
殴るたび。転がるたび。焦げた腕を振るたびに、少しずつ。
目には映らない。ただ、板の上のどこかで、景色がわずかにずれていた。
――“リアが、いない。”
二度目に飛ばされてから、あの娘の姿を誰も見ていない。
「――さて。そろそろ、飽きました」
商人が、掌を上げた。
「大きい方から、片付けましょう」
残った光が、全部グランへ向く。
「――“今だッ!”」
商人の左肩が、初めて上がった。
庇う動きが間に合わなかったのではない。
――“庇う対象が、どこから来るのか分からなかったのだ。”
「な――」
――奥義とは、何か。
秘技が一つの動作に複数の意味を持たせる技術なら、奥義はその逆である。
“全部を、一つに捨てる。”
構えを捨て、退路を捨て、二度目を捨てる。外れれば死ぬ。当たっても、次がない。
十年から三十年。人の域を離れかける場所だと言われている。
――そして、その娘は十六だった。
里で四百人。奥義に届いた者は、父を含めて三人しかいない。最も若い一人が十七で至り、それが百年で一番の早さだと言われた。
「奥義――“澪標”(みおつくし)」
ズ、
――刃が、消えた。
振っていない。
娘は、二本の刃を左胸のただ一点へ向けて、“体ごと落とした。”
踏み込みではない。跳躍でもない。膝を抜き、全体重を刃の背に乗せ、ただ極限まで前へ倒れ込んでいる。
止まれない。逸れられない。避けられたら、そのまま板に突き刺さって終わる。
――“その代わり、速度が人のものではなかった。”
ドッ
二本が、同時に入った。
肩から入り、肘まで埋まり、そこで止まらない。
娘の体重が、まだ後ろから押している。
ズブ、ズ、ズズ――
――背中から、切っ先が出た。
パキィンッ!
高い音がした。石が割れる音でも、骨が折れる音でもない。
――“器が、割れた音だった。”
闇の中で、光が噴き上がった。
循環先を失った中身が、一斉に外へ出る。炎が、氷が、風が、雷が、港の空へ。
夜が、一瞬だけ昼になった。
町の人間が、それを見上げていた。
――自分たちの品だった。
どさ、
ゾル・アーデンが板の上に落ちた。角が縮んでいる。腕ほどあったものが、今は指の長さもない。
その傍で、娘が膝をついていた。両腕が震えている。刃を抜く力が残っていない。
「……嬢ちゃん」
「……腕が、上がらん」
「そりゃそうだろ」
「……ああ」
板の上で、そう言った。男は自分の左胸に手をやる。割れている。指が、内側の欠片に触れた。
「惜しい」
――それだけだった。
詫びなかった。悔いもしなかった。この町の人間を畑として使い、不漁の年には間引いて骨にした男は、最後まで一度もそれを悪いと思っていない。
「あと少しで、届いたのですが」
誰も、答えなかった。
そして、その男は動かなくなった。
港に、波の音が戻ってきた。灯りがない。石が全部散ってしまったからだ。月だけが板の上を照らしている。
町の人間が、動かずに立っていた。
――誰も、近づかなかった。
二百年、この町を握っていた男が転がっている。
誰も触れない。触れていいのかどうかを、判断した経験がない。
その中で、巨漢が立ち上がった。
肋が四本折れている。腕が焦げている。片目が塞がりかけている。
それでも、その男は板の上を歩いて、倒れた商人の前に立った。
「――なあ、あんたら」
男は、町のほうを向いた。
「この旦那、俺らが倒した」
誰も、答えない。
「二百年だとよ。あんたらのじいさんの、そのまたじいさんの代からだ」
「骨の売り方も、値のつけ方も、全部この旦那が教えた」
「――“不漁の年に人が減ったのも、この旦那だ”」
「……それは」
「本人が言った。ここにいる全員が聞いたろ」
男は、そこで一度言葉を切った。
「俺が言いてえのは、そこじゃねえ」
“この旦那がいなくなって、明日から誰が値をつける”
――町が、動いた。
初めて、まともなざわめきが起きた。
「……そうだ。誰が」
「客の名も、船の口も、全部あの人が握ってた」
「明日、荷が来たらどうする」
「な。“そこが困るんだろ”」
巨漢は、頷いた。
「潰すのは簡単だ。俺は今、それをやった」
「けど潰しただけじゃ、あんたら明日から飢える。二百年前に戻るだけだ」
「――だから、“代わりを置く”」
「……代わり」
「俺だ」
即答だった。
「あんた、誰だよ」
「グラン・ボルク。…元は人殺しだ」
男は、隠さなかった。
「そこで倒れてる王の下で十年やった。悪いことをした奴は、ほとんどいなかった」
「償えるとは思ってねえ。勘定は一生合わねえ」
「けどな、俺ぁガキの頃、飯の匂いってやつを外から嗅いで育った」
「他所の家から漏れてくんだよ。あれが一番きつい」
「腹が減ってんのは我慢できる。“中に入れねえのが、我慢できねえんだ”」
「あんたら、なんで骨を売るようになった」
「……食えなかったからだ」
「魚は獲れてたろ」
「獲れても腐る。ここは端っこだ。都まで運ぶ間に全部だめになる」
「――“そこだよ”」
男は、港と山の方角を交互に示した。
「俺ぁ十年、王の下で歩き回った。東の山ん中も、北の街道も見た」
「山の連中は、魚を食ったことがねえ。銀貨積んででも食いたがる」
「逆に、あそこじゃ麦が余って腐ってる。ここじゃ麦が高えだろ」
「……高い」
“繋がってねえだけだ”
「道はある。船もある。値のつけ方を知ってる連中も、ここにいる」
「足りねえのは、“それを繋ぐ奴だけだ”」
「……そんな都合よくいくかよ」
「いかねえよ。俺は数も読めねえし、字も怪しい、それにこの目的も今できたもんだ」
男は、あっさり認めた。
「けど、荷を担ぐのは得意だ。道も覚えてる。東にゃ顔が利く相手もいる」
「あとは、勘定のできる奴が一人いりゃいい」
――闇の中で、一人が前に出た。帳面を抱えた男だった。
「……あの」
濡れた一冊を、両手で持っている。
「二百年ぶんの取引が、全部ここにあります」
濡れた一冊を、両手で持っている。
「山の村がいつ塩を切らすか。北の街道がいつ雪で閉まるか」
「どこの商人が値を吊り上げて、どこの港が安く買い叩かれてるか」
「――ゾルさんは、これで二百年儲けました」
男は、そこで顔を上げた。
「同じもので、逆のことができます」
「……おい」
巨漢が、その帳面を見た。
「そりゃ、あんたを吊るす証拠でもあるぞ」
「はい」
「町の連中全員が、共犯だってことになる」
「――はい。だから、渡します」
「これがある限り、誰も元には戻れない。戻ろうとした奴から順に晒される」
“それでいい”
巨漢は、しばらくその帳面を見ていた。それから、受け取らなかった。
「あんたが持っとけ」
「え」
「言ったろ。俺は数が読めねえ」
男は頭を掻いた。
「担ぐのは俺だ。“勘定は、あんたの仕事だ”」
「……俺が」
「他に誰がいる」
「ボルク商会だ。今、決めた」
「一つ目の港が、ここだ」
「言っとくが、明日から急に楽になるわけじゃねえ。三年か、五年か。腹が減る年も来る」
“それでも、骨を売るよりマシだろうが”
――市の縁で、女将が動いた。
膝から落ちたまま、動けずにいた人だ。
「……あの」
声が、掠れていた。
「うちの人の骨、まだあの台にありますか」
――スイは、そこで初めて板に手をついた。
立とうとして、失敗した。もう一度ついて、また失敗した。
三度目で、膝が立った。そこから先が進まない。
「……悪い。俺、そこまで歩けねえ」
だから、リアが行った。
娘も腕が上がらない。だが足は動く。
「――どれだ」
布のかかった台の前に立ち、めくった。
白い。指の骨。腕の骨。肋。頭。等級ごとに布を分け、大きさごとに並べ、値札がついている。
「五年前だと言ったな」
「……はい」
「なら、値札を見ろ。“この町は、いつ仕入れたかを必ず書く”」
――そうだった。
スイは、そこで思い出した。
レドが読み上げていた。原初歴8199年、霜の月。カルナの家、石七つ。
――“この町は、全部記録している。”
誰が、いつ、何を売ったか。
骨を売るのが商売だからだ。商売である以上、帳簿がある。
「……俺が、探します」
男が、帳面を開いた。
「五年前の、不漁の年。海で流されたと言われた人」
濡れた紙を、指で繰る。
「――ありました」
――その頭は、灯りに近い側に置かれていた。
よく染みている。上等だ、と言われる側だった。
リアが、それを両手で持ち上げた。
運んで、女将の前に置いた。
女将は、答えなかった。
両手を出して、受け取った。
受け取って、そのまま膝の上に抱えた。
「……ああ」
声が、そこで壊れた。
「――ああ、あんた」
この町で、初めて、誰かが声を上げて泣いた。
町の人間が、それを見ていた。
泣くという習慣を、この町は持っていない。
骨を売るのは葬式と同じ意味だと教わって育った。売れば終わりで、そこから先が無かった。
――“だから、誰も泣き方を知らなかった。”
「……埋めるぞ」
声が震えていた。
「全部だ。今夜じゃなくていい。明日でも、明後日でもいい。けど、埋めろ」
「――“それが、俺が買った条件だ”」
町の人間は動かなかった。埋めるという習慣を、この町は持っていない。やり方を誰も知らない。
「私が教える」
娘は、そう言った。
「里では、死んだ者を土に返す。掘り方も、置き方も覚えている」
「――一晩で終わる話ではないがな」
そして、板の上を見た。手首から先を失った男が転がっている。
「それと、これだ」
娘は懐から石を取り出した。銀貨二枚で買った回復の石。グランの手に一度使って、まだ残っている分だ。
「私が落とした。私が治す」
「……なんで」
「なんで、とは」
「そいつ、あんたらを殺そうとしたんだぞ」
「知っている」
娘は、その男の傍に膝をついた。
「知っていて、私が落とした。落とした以上、私の勘定だ」
「――“この町では、勘定は合わせるものだろう”」
誰かが、息を吐いた。それが最初だった。
誰かが縄を置いた。誰かが板を運びはじめた。誰かが鍬を取りに走った。いつもの手順ではない。この町の人間が、初めてやる作業だった。
夜が明けるまで、灯りは戻らなかった。石が全部散ってしまったからだ。だから、月の下で掘った。
――そして、二日後。
港に船が入った。漁船ではない。獣の国の船でもない。
帆に、紋が入っていた。
――帝国のものだった。




