第31話 ツケ
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
“第31話 ツケ”
――炎が、氷が、風が、雷が。
等級も属性もばらばらの光が、商人を中心にして渦を巻いていた。七つ。落ちなかった分だ。この男が正当に買い取り、代金を払い終えた品。
「これは、私のものです」
「――七つで、片をつけましょう」
――スイは、板の上でそれを聞いていた。
膝が立たない。右腕が上がらない。掌には、湧いても零れるだけの水しかない。
それでも、頭だけは動いていた。
――“この男は、なぜ二百年もここにいる。”
角を隠して。名前を継いで。町の人間に代替わりだと思わせて。
商売のためだと言った。だが、商売なら別の町でもできる。二百年も同じ海際にしがみつく理由が、金だけであるはずがない。
「……あんた」
声が、掠れた。
「なんで、この町なんだ」
――光が、揺れた。
ゾル・アーデンが、初めて手を止めた。
「おや。そこをお尋ねになりますか」
男は、少し笑った。
「――よろしい。どうせ、皆さんには今夜で終わっていただく」
商人は、露わになった角に触れた。
「魔族の角は、生きた年月で伸びます。ですが、それだけではありません」
“根源力を集めれば、集めた分だけ太くなる。”
男は、その根元を指でなぞった。拳ほどの太さがある。
「我々には、階梯がございましてね」
「散り散りの破片。形を持つ者。名を持つ者。そして――」
“大魔族。”
「そこまで至れば、終わらせる側に立てる」
――スイの背筋が、冷えた。
終わらせる側。
その言葉を、旅の途中で一度だけ聞いた。焚き火の脇で、グランが指を二本立てて説明した夜だ。
――“後から生まれたほうは、何も作っていない。終わらせる側だ。”
その神が砕けて、破片が寄り集まって形を持ったものが、魔族だという。
「二百年かけて、ここまで参りました」
男は、角から手を離した。
「ですが、あと少し足りません。もう百年か、あるいは二百年か」
「……待て」
巨漢が、輪郭を戻しながら言った。
「じゃあ、この町の骨は」
「ええ。よく染みておりました」
――市が、音を失った。
「人が長く根源を使えば、その体に染みる。骨は器になる。――理屈は、お分かりでしょう」
「ですが、外の者はそんなものを買いません。気味が悪いと言って」
男は、肩をすくめた。
「ですから、この町の者に買わせました」
「買ったものは、いずれ手放す。手放したものは、私が買い戻す」
「――二百年、その輪を回し続けただけです」
「……なん、だって」
誰かが、そう言った。
「俺たちが、買って」
「あんたが、買い戻して」
「――それ、ぐるぐる回してただけかよ」
「回すたびに、私の手元に少し残ります」
商人は、当たり前のことのように言った。
「一度で一粒。百年で、ずいぶんな量になります」
――スイは、そこで理解した。
この町の人間は、悪人ではなかった。
貧しかった。海際へ押し出されて、そこにしか居場所がなかった。生きるために何でも売った。
――“それを教えたのは、誰だ。”
骨を売るのは葬式と同じだと、この町では言う。死んだ者から取れるものを取って、残った者が食う。親がそう教えた。親に教えたのは祖父だ。
――“祖父に教えたのは、目の前の男だ。”
「……あんたが」
声が、震えていた。
「あんたが、教えたのか。全部」
「ええ」
男は、少しも悪びれなかった。
「二百年前、この浜には食う物がありませんでした。押し出されてきた者たちが、飢えて死ぬだけの場所です」
「私は、生き方を教えました。売れる物を教え、値のつけ方を教え、字を教えた」
「――おかげで、誰も飢えなくなった。」
「感謝されこそすれ、責められる筋合いはございません」
「……ふざけるな」
娘の声が、低かった。
「お前は、この者たちを畑にしただけだ」
「畑は、耕さねば実りません」
――そして、商人は続けた。
「それと、もう一つ」
“足りない年には、こちらで間引かせていただきました。”
――町が、凍った。
「不漁の年です。人が減れば、食い扶持が減る。町のためでもある」
「病だと言えば、皆さん納得なさいました。海で流されたと言えば、それも納得なさった」
「――そして、その骨も、よく染みておりました。」
――誰も、動かなかった。
悲鳴が上がらない。怒号も上がらない。
この町の人間は、大きな声を出す習慣を持っていない。
ただ、市の縁で、宿の女将が膝から落ちた。
「……五年前」
声が、掠れていた。
「うちの人、海で流されたって」
「不漁の、年でした」
「ああ。よく覚えております」
商人は、微笑んだ。
「あれは、いい品でした」
――スイの視界が、白く飛んだ。
立ち上がろうとして、膝が笑った。腕が上がらない。息が入らない。
それでも、この体は前へ出ようとしていた。
「――坊主、動くな!」
巨漢が、その肩を掴んだ。
「今出たら死ぬぞ!」
「離せ」
「離すか!」
――ゾル・アーデンは、七つの光を集め直した。
「さて。長話が過ぎました」
男は、町を見渡した。
「皆さんには、今夜で終わっていただきます」
「……なん、で」
「角を見られましたのでね」
「二日で帝国が参ります。魔族が一体、十王の死んだ港におりましたと知れれば、私は討伐対象です」
「証人がいなければ、何もなかったことになる」
「――幸い、二百年ぶんの蓄えはございます。次の町で、また一から始めるとしましょう」
商人は、掌を上げた。
「二百年、お世話になりました」
“――ですが、そろそろ収穫でございます。”
ドッ
――スイが、グランの手を振り払った。
立った。膝が笑っている。右腕が上がらない。それでも立って、町とゾルの間に体を割り込ませた。
「――待てッ!」
声が、港に響いた。
「――買う」
――光が、止まった。
「……は」
スイは、荒く息を吐いた。喉が焼けている。声を出すたびに、肋が擦れる。
「そこに浮いてんの、この町の連中の品だろ」
「金、まだ払われてねえんだろ」
「――俺が買う」
「……お客様。失礼ですが」
商人は、初めて呆れた顔をした。
「あなた、銅貨をお持ちですか」
「一枚もねえ」
「では、お話になりません」
「――ツケだ」
――市が、ざわめいた。
「俺は、ラグナロクに出る。出て、勝つ」
スイは、町のほうを向いていた。ゾルではなく、町の人間に向かって言っていた。
「勝ったら、世界の形を決められる。線の引き方も、誰が誰に頭を下げるかも、全部だ」
「――それを、全部返す」
「元の国に、元のまんま。誰も、他所の形を決められねえようにする」
「その時に、払う」
「……何、言ってんだ、この兄ちゃん」
「ラグナロクって、あの」
「勝つ、って言ったか今」
「言った」
スイは、そこで初めて笑った。
「無茶だってのは分かってる。毎回そうだ」
「けど、他に思いつかねえ」
――そして、条件を出した。
「――ただし、二つ」
「一つ。骨は、売るな。埋めろ」
スイは、布のかかった台のほうを見た。
「あそこに並んでんの、全部あんたらの身内だ」
「値段つけるもんじゃねえ。埋めるもんだ」
「――それがどういうことか、この町の連中は、たぶん誰も教わってねえ。」
誰も、答えなかった。
答えられなかったのだ。
骨を埋めるという習慣を、この町は二百年持っていない。
「二つ。俺がここでやったことは、俺の借りだ」
スイは、板の上で倒れている男を見た。
手首から先を失った、年嵩の男だ。リアが落とした。
「あいつの手、治す。うちの回復の石でだ」
「――買った石を使う。文句あるか」
「……ない」
娘は、繋ぎの刃を下ろした。
「私が落とした。私が治す」
――そこで、笑い声がした。
旅装の男だった。
「――いや、面白い」
ヴィス・ノーレンが、桟橋の縁で肩を揺らしていた。
「ゾルさん。それ、飲んだほうがよろしい」
「……何を仰いますか。あの若造は無一文だ」
「ええ。今は」
男は、スイを見た。
――値踏みの目だった。
「私はね、人の目方が見えるのですよ。物でも、人でも、価値でも」
「触れずとも、重さが分かる」
「――その男だけ、測れない。」
「……測れない、とは」
「針が振り切れるのではありません。“指す場所が、無い”のです」
「皿の底が抜けている、と申し上げればよろしいか」
「――商人であれば、お分かりでしょう」
“値のつかないものは、いくらでも高く売れる。”
――ゾル・アーデンの周囲で、光が乱れた。
商人は、しばらく黙っていた。
二百年、この男は勘定を間違えたことがない。
――“そして今、目の前に、勘定のできない品がある。”
「……なるほど」
男は、そう言った。
「では、こう致しましょう」
ゴォッ
――七つの光が、スイへ向いた。
“値のつかない品は、殺してから測ればよろしい。”
「骨になれば、相場が立ちます」
――スイは、動かなかった。
動けないのではない。
背後に、町があるからだ。
「――嬢ちゃん」
「ああ」
二つの影が、スイの前に出た。
「坊主。お前は喋ってろ」
「喋るのが、今のお前の仕事だ」
「殴るのは、我々がやる」
――港の灯が、一斉に消えた。
ゾル・アーデンが、町の石を全部使ったからだった。




