第30話 値切り
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
“第30話 値切り”
――町が、止まった。
解体の手が止まった。縄を持った男が、縄を持ったまま動かなくなった。誰も、声を上げなかった。
海の民という言葉を、この町の人間は全員知っている。海際の町だ。婆から子へ、代々口で伝えられてきた。海には近づくなという、あの話だ。
――だが、実在するとは誰も思っていなかった。
伝承の中の存在が、今、桟橋の上で膝をついている。
そして、動きが再開した。
「……あっちも運ぶのか」
「二つ同時は無理だ。順番だろ」
「王が先だ。腐る」
――誰も、驚いたままではいなかった。
その中で、市の縁に一人だけ動かない女がいた。宿の女将だった。手を動かしていない。何も言わない。ただ、そこに立っている。
――知っていて、逃がそうとして、逃がせなかった顔だった。
「――申し訳ありませんが」
商人は、そう言った。
「私は、値切られるのが嫌いでしてね」
最初に動いたのは、リアだった。
左手に繋ぎの刃。右手に、板から抜いた鉈。娘は右足を半歩引いて、その重心の悪い刃を体の後ろへ隠した。
シャッ
繋ぎの刃が、真横から入る。
――速い。
スイは板の上でそれを見ていた。3ヶ月、この抜刀を毎日食らってきた。飯の途中でも、寝ている頭の上にも来た。見切れるようになるまで、四十日かかった。
商人は、避けなかった。
ジャッ
肩から胸へ、斜めに裂けた。
――血が、出ない。
裂け目の内側が、灯りを吸って鈍く光っている。肉でも骨でもない。石の断面だった。
「ええ、良い太刀筋です」
男は、その裂け目に指を触れさせた。飲みはしない。触れただけだ。
カ、
――裂け目が、塞がった。
中の石が一つ、光を失って砕けている。
「ですが、そちらは借り物でしょう」
「――ッ」
娘の踏み込みが、そこで止まった。
止められたのではない。“足元の板が、凍っていた。”
薄い。指の厚みほどの霜だ。それでも、履いている物の底が滑る。
「氷の石です。三等品ですが、床に撒くには十分でして」
商人は、掌を開いた。何も持っていない。“懐の石に、外から触れているだけだ。”
「この町は湿っております。海際ですのでね」
――スイの肌が、それを拾った。
港の空気が、重い。塩を含んだ湿りが、板の上に薄く貼りついている。この男は、それを凍らせた。
――“この町そのものが、こいつの手札だ。”
ドッ
その滑る板の上を、巨漢が走った。
「――嬢ちゃんは、そのままでいい」
肋が四本折れている。走るたびに、内側で何かが擦れる音がする。
それでも、この男は靴底で氷を割りながら来た。体重が重い。重いことが、この一瞬だけ利になった。
ドゴォッ
拳が、商人の腹に埋まる。
――埋まって、止まった。
「おや」
スイは、そこで喉を鳴らした。
――“この男、避けない。”
二度とも、避けなかった。リアの刃を受け、グランの拳を受けた。受けて、埋め直している。
削られることが、この男にとって損失ですらない。“在庫を減らしているだけだ。”
――そして、在庫は数え切れない。
「……ッ、硬ェ」
巨漢が、拳を引いた。指が震えている。
「そちらの手は、焼けておりますね」
商人は、親切な顔で言った。
「うちの棚に、回復の石がございます。中の上でしたら銀貨二枚。お安くしておきますよ」
「――買うかよ、そんなもん」
「おや、なぜです」
「あなたがた、一度は買われたでしょう」
――グランの動きが、止まった。
銀貨二枚。三人ぶんの全財産だった。あれで、この手は一度戻った。
――その石が、どこから来たか。
あの夜、スイは考えないようにした。骨の台を見て、そこで考えるのをやめた。
「うちは商売でございます。売り、買い、また売る」
「あなたがたも、その輪の中に一度入られた」
男は、微笑んだ。
「ですから、今さら外に立たれても困るのですよ」
「――喋りすぎだ」
シャッ
娘の刃が、背後から入った。
氷の上で足を止めたまま、上体だけで斬っている。踏み込んでいない。“踏み込まずに届く間合いまで、いつの間にか詰めていた。”
ジャッ
今度は、腰から胸へ。
――大きい。
深く裂けた場所から、石が三つ、板の上へ転がり落ちた。
「……おや」
初めて、商人の声が変わった。
「今のは、拾い直す手間が要りますね」
――スイは、板の上でそれを数えていた。
落ちた三つ。砕けた一つ。撒いた氷。
――“減っている。”
この男は無尽蔵に見える。だが、体に入る量には限りがあるはずだ。裂かれるたびに埋め、埋めるたびに一つ減る。
落とせば、拾わなければならない。
「……リア」
声が、掠れた。
「石だ。落とさせろ。埋め直させる前に、板から落とせ」
「言われずとも」
「――なるほどな」
巨漢が、笑った。
「嬢ちゃん、そっちは任せた。俺は」
男は、両腕を広げた。
「――拾わせねえ」
その体が、揺れた。
消えてはいない。輪郭が薄い。そこにいるのに、そこにいる情報が届かない。
――道が焼けている。完全には透けない。
それでも、この男は7年かけたものを、今この場に半分だけ持ち出していた。
――そして、それだけではなかった。
板の上に転がった石が、消えた。
「……ほう」
スイは、そこで気づいた。
――“あの男は、自分だけを透かしているのではない。”
根源力を外へ出す。出したものが、そのまま自分の色になる。グランなら、透ける。
“なら、外に出した分を、他の物に被せられる。”
「見えねえだろ、旦那」
声だけが、板の上を移動する。
「あんたの石、俺が全部隠してやるよ」
「――なるほど。それは商売の邪魔ですね」
シャッ
その隙に、リアが入った。
石を探して視線を落とした、その一瞬。“商人の意識が、板の上へ向いた。”
ジャアッ
――今度は、深い。
肩から腰まで、体の正面が縦に裂けた。
石が、五つ落ちる。
――そして、その裂け目の奥。
スイの目が、それを捉えた。
――“頭に、何かがある。”
裂けた勢いで、この男の被っていた何かが、わずかにずれた。
黒い。灯りを返さない。
――角だった。
側頭から後ろへ、緩く湾曲して伸びている。太い。根元が拳ほどある。
「……え」
誰かが、そう言った。
「今の、なんだ」
「頭に、なんか」
「――角じゃねえか、あれ」
――町が、ざわめいた。
今度は、値段の話ではなかった。
「魔族だ」
「馬鹿言え、ゾルさんだぞ」
「三代目のゾルさんだ。先代も、その前も」
「――先代を、お前見たことあるのか」
誰も、答えなかった。
この町の人間は、代替わりだと思っていた。
三代前の元締めと同じ名を名乗る男が、いつの間にか椅子に座っている。それを疑った者はいない。疑う必要がなかった。
――“代替わりを、誰も見ていない。”
「……ああ」
商人は、自分の頭に手をやった。
「隠しの石が、切れましたか」
男は、あっさりとそう言った。
「百年、一度も切らしたことがなかったのですがね」
――そして、笑った。
「まあ、構いません」
男は、ずれたものを自分で外した。
角が、灯りの下に出る。
――長い。
根元から先端まで、腕ほどある。表面に年輪のような節が刻まれていた。
「魔族の角は、生きた年月だけ伸びます」
「私のこれは――そうですね」
「二百年と、少し」
町が、静まり返った。
誰も動かない。縄を持った男が、縄を落とした。
――百年ではなかった。
この男は、この町ができる前からここにいる。
貧困層が海際へ押し出されて、集落ができて、闇市になって、骨を売るようになるまでの全部を、“この男が見ていた。”
市の縁で、宿の女将が口を押さえた。
声は、出さなかった。
「――さて」
商人は、袖をまくった。
「値切りの話は、終わりにいたしましょう」
男は、両掌を板の上へ向けた。
落ちていた石が、浮いた。
グランが隠していた分も、全部だ。透けていようがいまいが、“元締めは自分の在庫の位置を知っている。”
二十を超える光が、商人の周囲に並んだ。
「本日の仕入れから、使わせていただきます」
――港の空気が、鳴った。
湿りが震え、板が軋み、市の灯の石が一斉に明るくなる。
炎が、氷が、風が、雷が。
等級も属性もばらばらの光が、この男を中心にして渦を巻いた。
――“この町ひとつぶんの根源力が、一人の周りに集まっている。”
「……坊主」
「見えてる」
「勝てるか、これ」
「――勝つんだよ」
スイは、膝をついたまま掌を開いた。
――と、ぷ。
湧いた。
半分も出ない。零れて、指の間から落ちた。
それでも、湧いた。
――まだ、終わっていない。




