第29話 勘定
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
“第29話 勘定”
港が、静かになった。
波の音が戻ってくる。倒れた巨体の周りだけ、板が沈んだままになっていた。
誰も、近づかなかった。町の人間は市の縁に立ったまま動かない。逃げてもいない。“値踏みの目で、それを見ていた。”
「――さて」
前掛けの男が、帳面を開いた。
「二倍で買い取ると仰った方が、お亡くなりになりましたね」
誰も答えなかった。
「本日の損害。台が十四、石が三百と少し、骨が九つ。桟橋が二枚」
男は、そこで顔を上げた。
「――これを、どなたに請求すればよろしいか」
旅装の男が、桟橋の縁から降りてきた。
「ゾルさん。お話ししたはずですよ」
その足音は、相変わらず空気を押さない。
「王が勝てば、海の民が商品になる」
「王が負ければ――王が商品になる」
――スイの背筋が、冷えた。
この男は、最初から両方に賭けていなかった。“どちらに転んでも、天秤が自分の側へ傾くように置いていた。”
二倍で買い取るという約束は、履行される前提ですらなかった。壊させるだけ壊させて、壊した本人を商品に変える。
「ええ、伺っておりました」
男は、帳面を閉じた。
「ですから、損は出ておりません。むしろ――」
初老の商人は、倒れた巨体を見た。
「今夜が、この町の百年で一番の商いです」
町が、動きはじめた。
誰かが縄を持ってきた。誰かが板を運んできた。台を組み直す音がして、砥石を出す音がした。
いつもの手順だった。何十年も同じ物を同じ形で処理してきた人間の手つきだ。
「頭から行くか」
「いや、腕が先だ。あの太さは滅多に出ない」
「よく染みてるぞ。四十年だ」
――スイは、膝をついたまま動けなかった。
右腕が上がらない。肋が何本折れているか分からない。掌に水がない。
だが、動けない理由はそれではなかった。
――“同じだ。”
長く使った者ほど、よく染みる。上等だと言われる。灯りに透かして、綺麗だろう、と見せられる。
あの老人が並べられていたかもしれない台に、今度は違うものが並ぼうとしている。
殺したのは自分だ。二度欺いて、三度目に正面から倒した。憎んでいた。今も憎んでいる。
――“それでも、これは違う。”
「……やめろ」
声が、掠れた。
「やめろって言ってんだよ」
誰も、手を止めなかった。
「――おい」
桟橋の端で、巨漢…グランが板に手をついていた。
「そこの帳面持ってる旦那。一つ聞くがな」
男は、片目でゾルを見上げた。
「十王が一人、死んでんだぞ。帝国が動くだろうが」
――場が、わずかに止まった。
十王は、一人が国と同格に数えられる。帝国が名簿を作り、番号を振り、管理していることになっている。
その一人が死ねば、帝国は必ず来る。来て、確かめる。
「ええ。三日でしょうな」
商人は、あっさりと答えた。
「早ければ二日。港に船が着いた時点で、報せは走っております」
「なら――」
「ですから、急ぐのですよ」
男は、微笑んだ。
「二日あれば、骨になります。骨になれば、これは王ではありません」
「ただの品です」
「帝国が来て、王はどこかとお尋ねになる。私どもはこう申し上げる」
「――そのような方は、この町に来ておりません」
――百年以上、この町はそうやって生きてきた。
そして、商人の視線が動いた。
倒れた巨体から、膝をついた青年へ。
「それと、もう一点」
男は、帳面を開き直した。
「そちらの方も、お預かりします」
――スイの喉が、鳴った。
「海の民の生き残り。世界にもういるかどうかもわからない。相場のない品です」
「ちょうど、動けなくなっておいでだ」
商人は、いっそ親切な顔をしていた。
「今夜は、実に効率がよろしい」
「――ふざけるな」
娘が、繋ぎの刃を握り直した。
「その男は、スイが倒した。売り物ではない」
「そして、こいつも売り物ではない」
「おや。お嬢さん」
商人は、初めてリアを見た。
――だが、その目に値踏みはなかった。
見て、すぐに外した。
「そちらのご事情には、興味がございません」
――娘の眉が、動いた。
「剣を扱われる方は、この町にいくらでも参ります。八千年でも一万年でも、刃は刃だ」
「そちらの大きな方も同じこと。透けるだけの品なら、うちの棚に三つございます」
男は、帳面に何かを書き込んだ。
「今夜、私が欲しいものは二つだけです」
「――王の骨と、海の民」
「……おい坊主」
巨漢が、板に手をついたまま言った。
「聞いたか、今の」
「聞いた」
「舐められてんぞ、俺ら」
男は、笑った。
「――こんな気分、久しぶりだ」
――ずり、と音がした。
グラン・ボルクが、立ち上がっていた。
肋が四本折れている。透けが不安定で、道が焼けかけている。それでも立った。
「渓谷でな。俺は転がってた」
「あん時、お前が一人で前に出た」
男は、震える掌を握った。今度は、握れた。
「――今度は、こっちが前だ」
「同感だ」
娘が、その隣に並んだ。
――そして、板の上を見た。
三人の男が転がっている。スイが桟橋で潰した二人と、繋ぎの刃で手首を落とした年嵩の男。
その一人の傍に、鉈が落ちていた。
板に食い込んで、抜けなくなったまま放置されている。刃こぼれがある。柄の巻きが緩んでいる。
リアは、それを引き抜いた。
ゴ、
二度目で抜けた。
娘は、その重さを一度だけ手の中で確かめた。
「……ひどい代物だ」
「重心が前に寄りすぎている。振れば手首が持っていかれる」
左手に繋ぎの刃。右手に、盗った鉈。
「――だが、刃だ」
ゾル・アーデンは、しばらく二人を見ていた。
それから、前掛けを外した。
――その下の体が、灯りに晒された。
全身に、裂け目がある。肩、腕、胸、腹。皮膚の合わせ目のように、縦に何本も。
その全部の内側で、石が光っていた。
数えられない。
「――申し訳ありませんが」
商人は、そう言った。
「私は、値切られるのが嫌いでしてね」




