第28話 天秤
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
“第28話 天秤”
「――やあ。ずいぶん重くなったね」
その一言で、スイの視界が赤くなった。
海の民は感情の昂りで瞳が光る
そしてそれはまさに今だった
藍色の瞳が殺意を持って光る
この声を覚えている。井戸の縁に腰を預けて、村を数えるように見渡した男だ。八十人を軽いと結論づけ、去り際に一度だけ振り返った。バルドが丘の草へ火が移らないよう凪を保ったまま死んだのは、その数日後だった。
「――ヴィス・ノーレンッ!」
右の拳が既に濡れていた。湧かせたのではない。握った瞬間、体の内側から出たものがそのまま拳を覆っている。掌から手首、手首から肘へ。深海の色が腕を這い上がっていく。
――あの浜では、こうはいかなかった。
膝をついて、両手を波に浸した。海が応えて、沖まで引いて、その全部を掌に集めて、ようやく一発だった。水のない場所では拳に何ひとつ集まらず、村は焼けた。
今は、海に触れてすらいない。
踏み込む。二歩で船板へ。
――その二歩目が、なかった。
ドッ
視界が回った。板が消え、灯りが流れ、背中から何かに当たって、それが桟橋だと理解したのは三度目に跳ねた後だった。
「――俺を、無視するな」
金の瞳が、真上にあった。
――そして、市が動かなかった。
板の台が二つ倒れ、石が転がり、灯りが揺れた。この町の商品が、今、桟橋の上で砕けている。
誰も止めなかった。誰も声を上げなかった。
――前掛けの男が、深く腰を折っただけだった。
「――ようこそ、ソルグへ」
男は、砕けた台に一度も目をやらなかった。
「王よ。ご伝言は、確かに承っております」
「騒ぎが済んだ後、本日の品を全て、二倍でお買い上げいただけると」
「払う」
「では、こちらは口を出しません。町の者にも、そう伝えてあります」
男は、市の人垣を振り返った。
「――今夜は、どうぞご自由に」
スイは、桟橋の上でその言葉を聞いた。
――二倍。
この夜、あの市に並んでいた全部だ。石も、剣も、鎧も。壊されるほど、儲かる。
だから、誰も止めない。
人垣を見た。板を渡した台の間、曲がった道の奥、灯りの届く範囲の全部に人が立っている。逃げてもいない。怯えてもいない。
――見物している。
「……あんたら」
声が、掠れた。
「人が死ぬのを、値段で見てんのか」
誰も答えなかった。答える必要を感じていない顔だった。
「二度だ」
王は、スイしか見ていない。
「二度、貴様は俺の前で立った。そして二度とも、俺は貴様を殺し損ねている」
「一度目は寝起きの俺を打った。二度目は――透けて、逃げた」
喉が鳴っている。笑っているのだと、スイは半拍遅れて気づいた。
「あの男か。そこに転がっている、でかいの」
グラン・ボルクは、桟橋の端で膝をついていた。
立てない。渓谷で折れた肋が四本、この三日で治りきっていない。透けようとして掌が震え、止まった。道が焼けている。銀貨二枚の石で一度は通した。二度目を通すには、この体がまだ足りていない。
「グラン・ボルク。十年だ」
王が、名を呼んだ。
「十年、貴様は俺の下で人を狩った。俺が指を差せば、貴様は行った。その貴様が、なぜそこにいる」
グランは、答えなかった。答えられなかったのではない。口にしたことが、一度もなかっただけだ。
「……理由なんざ、ねえよ」
膝をついたまま、そう言った。
「俺は十年、あんたの下で人を殺した。数えてねえ。数えたら手が止まるからだ」
「あの中に、悪いことをした奴が何人いた。たぶん、ほとんどいねえ」
男は、片目で王を見上げた。
「あの村を見た時、飯の匂いがした。それだけだ。それだけで、俺は掌を返した」
「都合がいいのは、分かってる」
「なら、なぜ死なん」
「死んだら、詫びる相手が一人減るだろ」
「償えるとは思ってねえ。俺が殺した奴らは戻らねえし、今さら誰か守ったところで勘定は合わねえ」
「合わねえまま歩くしかねえだろ。それが嫌なら、十年前に死んどきゃよかった」
男は震える掌を握ろうとして、握れなかった。
「――だから、坊主の後ろを歩いてる。都合のいい話だってのも、全部分かった上でだ」
「そうか。では、貴様も汚点だ」
「――動くな」
娘が、その前に立った。繋ぎの刃を提げている。切れ味は本物に遠く及ばない。
「この男は私が守る。スイ、お前は前を見ていろ」
「リア」
「行け」
スイは、前を向いた。
ゴ、
骨が鳴った。肩が上がる。上がりきらない。骨が伸びている。皮膚が追いつかず、裂けて、下から別の皮膚が出てくる。港の灯りがその輪郭を照らして、照らしきれなかった。
「今日は、寝起きではない。今日は、逃がす男もいない」
――スイは、そこで一度だけ息を整えた。
勝ち方を、考える。
外からは、削れない。この体は密度が違う。頬を殴ろうが顎を叩こうが、皮膚の下まで届かない。三ヶ月前に一度、それで思い知った。
――内側なら、別だ。
水打がそうだった。皮膚も筋肉も素通りして、振動だけが中へ入る。
だが、一発では足りない。この巨体の内側は広い。一度揺らしたところで、すぐに収まる。
――だから、同じ場所に何度も入れる。
骨は割らなくていい。中で鳴らし続ける。鳴らし続けて、鳴り止まなくなったところで、最後に一発通す。
――狙いは、一点だけだ。
左の脇腹。肋の三本目と四本目の間。人の体で、肉が一番薄い場所。
問題は、そこまで届くかどうかだった。
スイは、両手を開いた。
湧かせる工程が、もうなかった。体の内側にある熱を、そのまま外へ押し出す。押し出された時点で、それは既に水になっている。
両腕が肘まで深海の色に沈み、次いで両脚が脛まで濡れた。滴らない。落ちない。皮膚の上で薄い層になって張りついている。
林で一晩やり続けたことだ。器の話ではなかった。置き場所の話だった。
――この体そのものが、置き場所になる。
ドォンッ
板が、消えた。
桟橋が真ん中から折れ、踏み切った場所の一枚がまるごと粉になっている。飛び散った木片が海へ落ちるより早く、影が頭上を覆っていた。
スイは右腕を上げた。
ゴォッ
骨が悲鳴を上げ、膝が沈み、板が割れて足首まで埋まる。
――だが、腕は折れていない。
拳が触れる寸前、腕を覆っていた水が押し潰され、その一瞬だけ密度が跳ね上がった。衝撃が皮膚へ届く前に、水が全部持っていった。
「――ほう」
王の腕が、跳ね返っている。
――懐に、入った。
スイは沈んだ膝を、板ごと蹴った。
ドッ
脛を覆った水が爆ぜ、体が横へ滑る。人の脚の出せる速度ではない。踏み込みの力を、水が全部押し出した。
王の左脇腹が、目の前にあった。
右の拳を、深く握る。
ドッ
――一度目。
音は、鈍かった。拳がめり込んで、そこで止まる。衝撃が外へ出ない。
全部、内側へ入った。
ゴ、
「――ぐ、ォ」
巨体が、半歩下がった。
「……下がった」
「王が、下がったぞ」
市の人垣が、初めてざわめいた。
ゴォンッ
左腕が真横から来た。
――見えていた。
スイはその軌道の途中へ左手を突き出す。
ピン
高い音が一つ。腕が指一本ぶん逸れた。風圧が頬を裂く。血が出た。それだけだ。
――逸れた隙間へ、体を通す。
ドッ
――二度目。同じ場所。
ゴ、ゴ
巨体の内側で、一度目の残響がまだ鳴っていた。そこへ、二度目が重なる。
「――ッ」
王の膝が、指一本ぶん落ちた。
ゴォォンッ
右腕が薙ぐ。今度は逸らせなかった。逸らす場所を潰されている。
スイは板を蹴って跳んだ。頭上を過ぎる腕の風圧に体を持っていかれ、そのまま市の台へ突っ込む。台が二つ潰れ、石と骨が転がって、灯りが揺れた。
「――ッ、が、」
肋が増えた。息が浅い。
――だが、立った。
「効いたぞ。効いた、それだけだ」
王は、脇腹を押さえていなかった。押さえる必要がないのだ。この王にとって、それはまだ痛みですらない。
――知ってる。
スイは、板の上で笑った。
一度目、この王は寝起きだった。二度目、獣化してすぐで血が上がりきる前だった。あの時は水無月が一撃で通った。
――今は、通らない。
通らないから、数で入れる。
――だが、それだけではなかった。
スイは、自分の拳を見た。
三ヶ月、あの盆地でリアに斬られ続けた。飯の途中でも、寝ている頭の上にも刃が来た。斬られた場所を覚えて、二度斬られないようにする。それだけを毎日やって、掌一杯を十二粒にした。
――それが三ヶ月ぶんだ。
渓谷では、その全部が通じなかった。
十二粒が一粒も届かず、置き場所を全部読まれ、道ごと消された。あの男の掌が水を湧かせるのを、たった一度、目の前で見ただけだった。
――たった一度で、こうなった。
器の話ではなかった。置き場所の話だった。掌の上には掌一杯しか置けないが、離した粒はそれぞれが器になる。だから注げる。注げるなら、体に纏わせることもできる。
あの林で、一晩でそこまで来た。
三ヶ月かけて積んだものと、一晩で越えたもの。どちらが多かったかと問われれば、答えは決まっている。
――見たからか。戦ったからか。
分からない。あの男に触れられた場所が、まだ熱を持っている気がする。
分からないまま、この体は変わっていた。
「――あと、何発だ」
ドッ
脛の水が爆ぜ、板が抉れた。三歩ぶんの距離が一歩で消える。
王の拳が来る。逸らす。指一本ぶん。その隙間を抜けて――
ドッ
――三度目。
ゴ、ゴゴ
「――が、ァッ」
――膝が、ついた。
市が、静まり返っていた。
「……三度、同じ場所だ」
娘が、繋ぎの刃を握ったまま呟いた。
「あの巨体に、一度でも同じ場所へ届けるのがどれだけ難しいか」
「坊主のは、力じゃねえ。置く場所を探す技だ」
「三ヶ月、それだけやってきやがった」
スイは、息を吐いた。
腕の水が薄い。脚の水も薄い。使いすぎている。あの浜では周りの水を全部集めて一発だった。今は自分の内側から出せる。出せるが、無尽蔵ではない。
――残りで、何発いける。
「……小僧。三ヶ月か」
膝をついたまま、王が笑った。
「――俺は、四十年だ」
ゴォ、
膝をついた巨体の、背が裂けた。皮膚が、また下から出てくる。二度目の獣化だった。
「まだ、下がある」
ドドドドドッ
――消えた。
スイの視界から、山が消えた。
速度ではない。あの巨体が、板を鳴らさずに移動している。踏んでいないのだ。踏む前に、次の場所にいる。
――どこだ。
肌が、拾えない。空気が押されていない。
ゴォォォッ
――右。
考える前に、腕を上げた。
ドゴォォンッ
受けた腕ごと、体が飛んだ。市の道を転がり、家の壁を三軒突き抜けて、四軒目で止まる。板が割れ、砂と灰が降ってきた。
「――ぁ、ッ……!」
右腕が動かない。折れてはいない。外れている。左手で掴んで、押し込む。
ゴキ、
嵌めた。声は出さなかった。
王が、歩いてくる。市の道が、一歩ごとに沈んでいく。
「同じ場所を、三度」
王は、自分の脇腹を見下ろした。
「――そこが弱いと、貴様に教えられた」
金の瞳が、上がる。
「四度目は、通さん」
「……あんた」
瓦礫の中で、スイは口を開いた。
「なんで俺を殺しに来た。駒にするんじゃなかったのかよ」
「出した。断られた」
「それで、村が焼けた」
「――俺は焼けと言っていない」
二度目だった。灰の中でも、同じことを言った。あの時は信じなかった。信じる余裕がなかった。
「じゃあ、誰が焼いた」
――王の動きが、止まった。
金の瞳が、ゆっくりと横へ流れた。桟橋の縁に、旅装の男が立っている。その男は微笑んだまま、何も言わなかった。
「――今は、その話をしていない」
王は、拳を握った。
「終わらせるぞ、小僧」
スイは、瓦礫から体を剥がした。
残りを、数える。腕の水。脚の水。この体に詰まっている根源力。
――一発ぶんだ。
三発は無理だ。二発でも足りない。もう、一度しか撃てない。
――なら、それで終わらせる。
両手を、胸の前で合わせた。
腕を覆っていた水が、脚を覆っていた水が、一斉に剥がれて掌へ集まりはじめる。
圧し固めるのではない。回す。掌の中で水を渦にして、渦を締めて、締めた分だけ速さに変える。
――あの浜で、初めてやったことだ。
グランの腹に入れた。あの巨体が膝から落ちた。衝撃ではない。振動だ。皮膚も筋肉も素通りして、内側だけを揺さぶる。
三度打った場所が、まだ鳴っている。骨は割れていない。中で、何かがずっと軋んでいる。
――そこに、全部を通す。
「……それは」
王の声が、初めて硬くなった。
ドドドドドッ
二つの影が、市の道でぶつかった。
王の拳が来る。逸らす場所が、ない。二度目の獣化で軌道が変わっている。
――なら、受けない。
スイは、当たる直前に自分から踏み込んだ。拳の内側へ。腕の付け根まで。
――当たる前の場所へ入れば、当たらない。
左の脇腹が、目の前にあった。
「――水打ッ!」
ドッ
――音が、鈍かった。
拳がめり込む。そこで止まる。衝撃は、一片も外へ出なかった。
全部、内側へ入った。
ゴ、ゴゴゴゴゴ、
巨体の中で、三度ぶんの残響が一斉に暴れた。
「――ぐ、ぉ、ォォォォッ」
膝が落ちる。腕が落ちる。顎が板を叩いた。
市の道が跳ね、台が全部倒れ、町の人間が転んだ。灯の石が転がって、いくつかは海へ落ちた。
――静かになった。
港に、波の音だけが戻ってきた。
スイは、その場に膝をついた。右腕が動かない。肋が何本折れているのか分からない。掌に、もう水がない。
――勝った。
三度目で、初めて、万全のこの王に勝った。村が焼ける前でも、灰の中でもない。誰も奪われていない場所で、正面から。
「……ざまあ、みろ」
声が、掠れていた。
倒れた巨体が、指を動かした。
「……ぐ、」
息がある。この王は、また死ななかった。
「……小僧」
顔を上げようとして、上がらない。それでも金の瞳がスイを捉えた。
「聞け。焼いたのは――」
トン、
軽い音がした。
誰かが、王の背に指を置いた音だった。
旅装の男が、そこに立っている。いつ来たのか、誰も見ていない。
「――ああ、傾いた」
男は、指を一本立てていた。その指先が、王の背に触れている。
「王よ。あなたは今、生涯で最も軽い」
スイの肌が、拾った。
――この男は、何もしていない。
押していない。突いてもいない。指の腹が、皮膚に触れているだけだ。あの巨体を動かせる力は、そこに一片もない。
なのに、王の体から力が抜けていく。
――そうか。
この男の根源は、秤である。二つを並べて、どちらが先に折れるかが見える。測るだけだ。測って、傾いた側に触れる。
――折れる場所が、分かる。
三度打った肋。その下で何がどう軋んでいるか。あと一押しで、どこがどう崩れるか。
この男はそれを、始まる前から知っている。
だから、指一本で足りる。折れる寸前のものを、折れる方向へ押すだけなら、力は要らない。
――生涯、この男は傾いた側にしか手を出したことがない。
金の瞳から、光が消えていく。
「……ノー、レン」
「私は測っただけです」
「――そして、軽いほうを落とした」
スイは、動けなかった。膝をついたまま、その光景を見ていた。
――俺が、三度打ったからだ。
この王が折れる寸前まで運んだのは、自分だ。運んで、そこに指を置く男がいた。
「ああ、そんな顔をしないでくれ」
男は、指を離した。
「君が倒した。それは事実だよ」
「――私は、拾っただけだ」




