第27話 微笑む、沈む
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
“第27話 微笑む、沈む”
桟橋の板は、湿って黒かった。走れば鳴る。鳴ることを気にしている余裕はなかった。
スイが蹴った板の音が港に響いて、岸壁の上の三人が振り返る。
――目が、変わった。
驚きではない。怒りでもない。“始末する物が一つ増えた”という顔だった。
「――やれ」
ざぶん
それよりも先に水に入った瞬間、世界が変わった。田でも川でもない。塩がある。重さがある。深さがある。目を開けても暗いが、暗さは問題にならなかった。
――ここは、俺の場所だ。
水が教えてくる。右斜め下。人ひとりぶんが沈みながら暴れている。
スイは掌を開いた。とぷん、と湧かせて、ぱ、と散らす。十二粒を体の周りに配って、蹴った。地上では軌道に置く技術だ。水中では違う。置いた粒が押してくれる。
ドッ
三かきぶんの距離が、一動作で消えた。
布で縛られた腕を掴む。細い。若い男だ。もがいて、こちらの首を掻いた。溺れる人間は助けに来た者を沈める。それだけは知っている。
スイはその口に掌を当て、水を出した。暗い水の中で、男の目が開いた。
水面を割った瞬間、上から鉈が来た。
シャッ
速い。だが、リアとの3ヶ月に比べれば止まって見えた。
スイは避けなかった。片腕で桟橋の縁を掴んだまま、軌道の途中、刃の腹に一粒だけ置いた。
ピン
高い音がして、鉈が指一本ぶん逸れる。そのまま板に食い込んで、抜けなくなった。抜こうとした男の顔が、水面のすぐ上にある。
「――ッ、らァッ!」
ドゴッ
水中から突き上げた拳が、顎に入った。男の体が板の上で一度跳ねて、動かなくなる。
――“一人。”
「――ッ、こいつ」
二人目が桟橋を踏み鳴らして走ってきた。腕が太い。荷役だろう。組み付いてくる形だった。
――掴まれたら終わりだ。
スイは、桟橋の下から水を投げた。
ぱしゃ
板の上に、薄く水が広がる。この桟橋は昼から湿っている。乾いていない板に水を足せば、どうなるか。
ズ、ル
「――お、」
足が滑った。崩れた体勢の先に、スイは既に上がっていた。
ドゴォッ
肘が顎を跳ね上げる。男の目が白く裏返って、そのまま板に倒れた。
――“二人。”
三人目は、年嵩の男だった。両手を懐に入れたまま、二人が倒れるのを見ている。
――逃げなかった。
それが不気味だった。この男は、計算をしている。
「……根源持ちかい」
「そうだ」
「そりゃ高く売れる」
値踏みの言葉を、天気の話と同じ調子で言った。スイの背中を冷たいものが伝う。
この男は、目の前の人間を商品として見ている。それが特別な思考ではない。“この町では、それが普通の見方だった。”
男が懐から手を出す。握っているのは石だ。灯の石より小さい。
「悪いね。うちらは漁師だ。殴り合いは慣れとらん」
パキ、
男は、それを握り潰した。
――スイの肌が、拾った。
空気が、乾いた。
港である。海のすぐ横である。湿っていて当たり前の場所から、水気が引いていく。
――“吸われている。”
「――ッ」
掌を開く。湧いた端から、持っていかれた。
「兄さん、水かい。運が悪いね。これ、渇きの石でね。魚を干すのに使うんだよ」
――“この町は、道具が揃っている。”
スイの喉が鳴った。喉の内側まで乾いていた。
――その男の背後で、板が鳴った。
しゃん
何もない空間に、刃の形をした歪みが立つ。
「――え」
ジャッ
男の手首から先が、宙に舞った。石を握ったままの手が板の上に落ちて跳ねる。渇きが止まり、港の空気が一息で戻ってきた。
「――遅くなった」
娘が、桟橋の上に立っていた。繋ぎの刃を提げている。切れ味は本物に遠く及ばない。それでも、手首を落とすには足りた。
「坊主ォッ! 勝手に走んじゃねえ!」
巨漢が板を鳴らして走ってくる。市の人垣を突っ切ってきたらしく、肩に石を三つばかり載せていた。
「悪い」
「悪いで済むか! 三人だぞ!」
「二人は倒した」
「――お」
男は板の上の二つの体を見た。
「……上等だ」
若い男が、桟橋の上で身を起こしていた。
二十代半ばだろうか。細身で、頬がこけている。何日も食っていない顔だ。ただ、手だけが違った。節くれていて、掌が硬い。網を引いた手だった。
「……逃げてくれ」
声が掠れていた。
「あんたたち、旅の人だろう。関係ない。今なら宿に戻れる」
「あんたは」
「俺は戻れない」
男は市のほうを見た。
板を渡した台の間、曲がった道の奥、灯りの届く範囲の全部に人が立っていた。昼と同じ顔ぶれである。魚を捌いていた女がいる。網を繕っていた男がいる。骨を透かして見せた初老の男がいる。
誰も走ってこない。誰も叫ばない。武器を持っている者すら少ない。
――ただ、道を塞いでいた。
「あの人が来る前に、行ってくれ」
「あの人?」
「――ゾルさんだ」
男の声が、そこで震えた。恐怖ではない。もっと別のものだった。
「あの人が来たら、俺は帰る。帰るしかなくなる」
――スイは、市の人垣を見ていた。
殴れる。この程度の人間なら殴れる。それは今、二人で証明した。
――だが、何人だ。
女がいる。老人がいる。子供がいる。その全員が骨を買って、骨を売って、それを当たり前として生きてきた。
――誰を殴れば、この町は止まる。
止まる場所が、どこにもなかった。
「あんた、名前は」
「……レド」
「レド。走れるか」
「なんで」
「一緒に来い。それでいいだろ」
――そこで、音が変わった。
市のざわめきが、内側から静まっていく。人垣が割れた。誰も命じていない。全員が同時に、当たり前のように道を空けた。
スイの肌が、その瞬間に拾った。
――“押した空気が、戻ってこない。”
湿りが動く。乱れる。そこで、消える。歩いてくる何かの周りだけ、空気の帰り道がなくなっていた。
「――走れッ!」
巨漢がリアとレドをまとめて抱えた。
「坊主、船だ! 港の突端!」
「あんた、透けねえのか!」
「回復したばっかだ!無理に決まってんだろ!」
ドドドドッ
板が鳴った。四人ぶんの足音が、桟橋の突端へ向かって走っていく。
――そして、四人とも足を止めた。
止めたのは、突端に何かがあったからではない。
止めたのは、“海のほうから音がした”からだった。
ゴォ、ン
鐘だ。
港の入口に据えられた鐘が、鳴っていた。船が入る時に鳴らすものである。
スイが顔を上げた時、沖に灯りが見えた。
一つではない。四つ。五つ。数えるのをやめた。
――“船団だった。”
先頭の一隻が、港の口を抜けてくる。帆が大きい。この港の漁船を三つ並べても足りない。
その帆に、紋が入っていた。
――“獣の頭を象った、紋章だった。”
スイの膝が、笑った。
あの陣で見た。丘の上に並んだ松明の列の中に、同じ旗が立っていた。この一帯で、あれを見て足が竦まない人間はいない。
――なぜ、ここにいる。
あの国は、東だ。山を二つ越えた向こうだ。海沿いに西へ五日、船で来ればもっと早い。
――そんなことは、分かっている。
問題は、そこではない。
――“なぜ、今夜なんだ。”
背後で、人垣がざわついた。
悲鳴ではない。逃げ出す音でもない。
――“歓迎の声だった。”
「船だ! 東の船だ!」
「開けろ! 突端を開けろ!」
「ゾルさんに知らせろ! 上客だ!」
――スイは、その声を聞いていた。
この町は、誰にでも売る。
骨を売る。石を売る。刀を売る。買いに来た者を客と呼ぶ。
――“誰であっても。”
人垣の中央から、前掛けをつけた男が歩いてきた。
背は高くない。太ってもいない。手に帳面を持っている。どこの町にもいる商人の格好だった。
その男は、四人には目もくれなかった。
港の突端まで歩いて、船団のほうへ向き直り、深く腰を折った。
「――ようこそ、ソルグへ」
――先頭の船から、板が下りた。
降りてきたものが桟橋に足をかけた時、板が沈んだ。四人ぶんの体重が乗ったのと同じだけ、一歩で沈んだ。
巨大な影が、港の灯りを背にして立った。
スイの頭ひとつ上に、まだ胴がある。
――“獣王だった。”
そして、その隣に。
旅装の男が、一人。
背は高くない。痩せてもいない。特徴らしい特徴が、ひとつもない。
埃のついていない服。新しい靴。
――その男は、スイを見て。
微笑んだ。
「――やあ。ずいぶん重くなったね」




