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第26話 潮溜まり

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】


“第26話 潮溜まり”


「――外に出ないでね」


 昼と同じ顔だった。愛想がいい。目尻が下がっている。この人は昼、魚の焼き方の話を長々としてくれた。


「うちの子も出さないの。夜はね、そういう決まりだから」

「決まり?」

「ええ。昔からそうなのよ」


 女将はそれだけ言って階段を降りていった。理由を言わなかった。言わなかったのではない。言うほどのことでもない、という顔をして、逃げるように降りていった。


 板の軋む音が下まで続き、途中で一度止まって、それからまた動いた。


「……おい坊主。今の、変だと思わねえか」

「変か?」

「商売やってる町が、客を追い出すわけがねえだろ」


 その通りだった。


 スイは昼のことを思い出す。市場はあった。港に面した通りに板を並べた店が並び、剣も石も鎧も置いてあった。ゼイルの言った通りである。


 ただ一つ、話が違っていた。


 値が、外と同じだったのだ。回復の石は金貨一枚。リアが三日前に口にした額と、ぴたり同じだった。銅貨十七枚と銀貨二枚を握った手のひらでは、どうにもならない。


 棚の前で黙り込んだスイに、店主のほうから声をかけてきた。


「兄さん、金がないね」

「見りゃ分かるか」

「分かるよ。――夜においで。夜は安い。ずっと安い」

「なんでだ」

「さあね。昔からそうなんだ」


 昔から。この町の人間は、二人続けて同じ言葉を使った。


 理由を説明しない時に使う言葉である。説明できないのではなく、説明する必要を感じたことが一度もない、という響き方をしていた。


「な? 誘われてんだよこっちは。なのに宿の女将だけが、出るなときた」

「一人だけ、話が違うな」


 娘は窓の縁に肘をつき、下を通る人影を数えていた。


 全員が荷を担いでいる。麻袋、木箱、油紙で包んだ何か。担ぎ方に迷いがない。何十年も同じ物を同じ形で運んできた人間の担ぎ方だった。


 子供も混じっている。背丈に合わない箱を抱えて、大人の後ろを黙って歩いていた。


「――だが、行く」

「え」

「安いのだろう。なら行く」


 娘は腰の鞘に触れた。中身のない鞘だった。


「私は刃が要る。この男は石が要る。お前は金がない。三つとも、今夜で片がつく」


           


 町は、変わっていた。


 昼に通った道である。網が干してあって、魚を捌く音がして、子供が走っていた道だ。その網が片付けられ、代わりに板が渡されている。家と家の隙間に板を架け、そのまま店の台にしてあった。


 曲がりくねった細い道が、一本の市になっている。


 明るい。軒の下に拳ほどの石が吊るしてある。油の匂いがしない。風が吹いても揺れない。


 ――町ひとつぶんの灯りを、根源石だけで賄っていた。


 村の教会にも街道にもあったものだ。安物で、中身は光だけだと、いつかグランが言っていた。


 その安物が、ここには数え切れないほどある。


 人が出ていた。昼と同じ顔ぶれである。魚を捌いていた女が台の後ろに座り、網を繕っていた男が客を呼んでいる。子供が走り回っていた。


 三人が通ると、あちこちから声がかかった。


「兄さん、剣どうだい」

「そっちの嬢ちゃん、鞘が空いてるよ」

「石は? 石はいらないかい」


「……歓迎されてんな」

「そうだな」

「宿の女将、何だったんだあれ」


 石の台は、三つ目の角にあった。


 等級ごとに布を分け、大きさごとに並べ、値札がついている。


 スイはその値札を見て、しばらく動けなかった。字が読めなかったのではない。数字は里で覚えた。


 ――桁が、合わない。


「……リア」

「見えている。回復の石だ。しかも安物ではない。中の上といったところだな」

「――銀貨、二枚」


 スイは懐を握った。


 銅貨十七枚と銀貨二枚。三人ぶんの全財産である。昼、同じ物が金貨一枚だった。銅貨に直せば百枚。手が届かないから、荷運びで四十日と言い合っていた。


 ――今、ちょうど持っている。


「……坊主」

「買う」

「待て」

「待たねえよ」


 五分の一だ。


 スイは石を受け取りながら、そのことだけを考えていた。安いのには理由がある。仕入れが安いからだ。安く仕入れられる理由が、この町のどこかにある。


 ――その理由を、今、両手で受け取っている。


 路地の隅で注いだ。黒が引いた。手首から掌へ、掌から指の先へ。塞がりかけていた道が、内側から押し広げられていく。


「……お。握れる」

「動かすな。まだ通っている途中だ」

「握れるぞ、嬢ちゃん」

「リアだ。そして動かすな」


 スイは笑えなかった。


 笑うべき場面だった。この男の手が戻った。半月の猶予が消えかけて、今夜、間に合った。


 それでも笑えなかった。懐が軽い。銀貨が二枚、消えた。消えた先に、この町がある。


 リアの刀は四つ目の台にあった。娘は一本を手に取って、そこで止まった。


「……四百年ものだ」

「三百年って聞いてるけどねえ」

「四百年だ」

「へえ、詳しいね。銀貨三枚だよ」


 娘はそれを台に戻した。


「おい」

「持ち合わせがない」

「明日、荷運びすりゃ」

「――そういうことではない」


 娘はその刀を見下ろしていた。


 刃が細い。柄の巻きが解けかけている。手入れは悪くない。ただ、外に出るはずのないものだった。


「四百年、誰かが振っていたものだ。その誰かが、なぜこれを手放した」

「――ここには、それがある」


 三人は市の奥へ歩いた。


 どの台にも石が並び、剣が並び、鎧が並んでいる。どれも安い。曲がった道の先に、また台がある。その先にも。


「量だ」


 巨漢が低く言った。


「根源石は帝国が管理してんだよ。掘る場所も、等級も、卸す先も全部だ」

「この量が、管理の外にあるわけがねえ」


           


 灯りの下から外れた台があった。


 布がかけてある。客が来ると店主が布をめくり、中を覗いて、頷いて、金を出す。誰も大きな声を出さない。呼び込みもしない。


 スイが近づくと、隣の台の男が顔を上げた。


「兄さん、そっちは違うよ」

「あ?」

「そっちは町の人間が買うものだ。旅の人には売らないよ」


 言い方が優しかった。


 止めているのではない。案内している口調である。ここは違う、あっちを見なさい、と。子供に道を教えるのと同じ声だった。


 スイは布に手をかけ、めくった。


 白い。


 ――骨だった。


 指の骨。腕の骨。肋。それから、頭。等級ごとに布を分け、大きさごとに並べ、値札がついている。


 どれも、うっすらと光っていた。根源石と同じ光り方だった。


「おや、初めてかい」


 台の向こうに初老の男が座っていた。痩せている。指が節くれている。


 ――漁師の手だった。


「そっちの端は安いよ。染みが浅いからね。こっちが上等だ。長く使ってた人のだから、よく染みてる」


 男は頭の骨を一つ持ち上げ、灯りに透かしてこちらへ見せた。


「ほら、綺麗だろう」


 スイは、動けなかった。


 根源石は媒体である。アルケーを溜め込む器だ。ならば、人が長くアルケーを使えば、その体にも染みるだろう。骨は器になる。


 ――理屈は、通っていた。


 通っていることが恐ろしかった。この理屈に最初に気づいた人間が、この町のどこかにいた。気づいて、口に出して、誰かが頷いた。


 その日から百年が経って、今、子供が台の間を走り回っている。


 ――バルドさん。


 その名前が、なぜか出た。


 あの老人は根源を持っていた。凪だ。周囲の波と風を止めるだけの、戦えもしない根源だった。六十年、同じ丸太に座って、それを使い続けた。


 使い続けたのなら、染みているはずだ。よく染みているはずだ。


 ――上等だ、と言われるはずだ。


 あの村がこの町だったなら。あの浜で誰かがこの理屈に気づいていたなら。丘の上で最後まで凪を保った老人は、今ごろこの台の、灯りに近いほうに並んでいる。


「……あんた」


 声が掠れた。


「これ、誰の――」


 腕を、掴まれた。


 リア・ルヴァンが既に歩き出していた。掴んだまま引いていく。振り返らない。足音を立てない。


「おい、リア」

「黙れ」

「まだ聞いて」

「黙れと言った」


 娘の指が食い込んでいた。


 ――震えている。


 この娘は感情を目にしか出さない。三月見続けてスイはそう理解していたが、今は手に出ていた。


「あれ以上、あそこに立つな。お前が今、何を考えたか私には分かる」

「――同じことを、考えたからだ」


 三人は市を抜けた。


 板の台が途切れ、灯りが減り、港のほうへ出る。波の音がした。いつもと同じ音だった。寄せて、引いて、また寄せる。


 ――あの浜と、何も変わらない。


 そこで、スイの足が止まった。


 波の音に、混じっている。


    ごぼ、


 水の押され方が、人ひとりぶんだった。


 桟橋の先、船と船の隙間。闇の中で水面が乱れている。その岸壁の上に、三人ばかりの影が立っていた。


 黙って、見下ろしている。誰も声を出さない。誰も手を出さない。


 ――沈むのを、待っていた。


 スイは、既に走っていた。

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