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第25話 汐路

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】


“第25話 汐路”


 剣王は、三日で歩けるようになった。


 肋が二本と、右の脇腹。左腕は動く。ただ、肘から先の感覚が半分ほど戻っていない。娘が診て、そう言った。


「3ヶ月かかる」

「1ヶ月だな」

「3ヶ月だ」

「1ヶ月半」

「値切るところではない」

「そう言われると思った」


 窪地になった谷の隅で、三人と一人が火を囲んでいた。


 風が真横に抜ける。壁がないからだ。渓谷だった頃は、夜でもここまで冷えなかった。


           


 ――スイは、掌を開いていた。


 とぷん、と湧く。ぱ、と散らす。十二粒。それぞれに注ぎ直す。膨れる。


 この三日、起きている間はずっとやっていた。


           


 量は増えた。掌一杯を散らして、注いで、また注いで。今は元の三倍ほどまで膨らませられる。


 ――時間が、かかる。


 一粒に注ぐたびに、一拍。十二粒で十二拍。あの男は、指を弾いた一動作で五十を満たしていた。


 拍が、違う。


           


「坊主。それ、何日でそこまで来た」

「三日」

「そうか」


 男は火に枝をくべた。


「――で、あと何日で追いつくと思う」


           


 スイは、答えなかった。


 答えられなかった。


 三日で三倍になった。この調子でいけばいずれ届く、というのは、算術としては正しい。


 ――正しくない。


 あの男は、既にそこにいる。こちらが三倍になる間、向こうが止まって待っている理由がない。


「顔に出たな」

「出たか」

「出た」


 男は、少し笑った。


「安心しろ。俺も四十年、その顔をしてる」


           


 ――夜が更けた。


 リアは、折れた刃の破片を三つとも拾って、布に包んでいた。


 捨てない。捨てられないのだろう。8000年ぶんの何かが、その三つに入っている。


 その隣で、グランが仰向けに転がっていた。


 肋が四本。歩けるが、走れない。担げるが、跳べない。


 ――そして、透けない。


 三日のあいだ、この男は一度も試さなかった。試して駄目だった時の顔を、誰にも見せたくないのだと、スイは思っている。


           


「なあ、親父さん」

「あ?」

「あんた、俺の手、どう見る」


           


 男は、しばらくその掌を見ていた。


           


「――道が焼けてる」

「戻るか」

「戻るかもしれん。戻らんかもしれん」


「ただな。焼けた道ってのは、放っときゃ塞がる」


           


「じゃあ、どうすりゃいい」

「石だ」


           


 男は、火を見たまま言った。


「回復のアルケーが入った石を、外から通す」

「塞がる前に、道を開けたままにしとくんだよ」


「……間に合うのか」

「半月が目安だな」


           


 ――スイの手が、止まった。


           


 半月。


 あの石を、この男は一度持っていた。持っていて、全部使った。半分を自分に、残りをスイに注いだ。


 ――あの時、俺に注がなければ。


「グラン」

「言うな」

「まだ何も言ってねえ」

「顔が言ってんだよ」


           


 男は、片目だけ開けてこちらを見た。


「あん時、俺が全部自分に使ってたらどうなってたと思う」

「あんたが治った」

「で、お前が死んでる」


「――で、俺は今ここで、一人で肋押さえてるわけだ」


 男は、それきり目を閉じた。


「割に合わねえよ、そっちのが」


           


           


 ――翌朝、金の話になった。


           


 三人の全財産を、火の跡に並べた。


 銅貨が十七枚と、銀貨が二枚。宿場で荷を運いだ分と、里を出る時に押しつけられた分の残りだった。


「足りんな」

「何がいくらだ」

「回復の石が、安物で金貨一枚」


           


 ――スイは、その並びを見た。


 銅貨十枚で銀貨。銀貨十枚で金貨。


 今ここにあるのは、銀貨三枚と少しだ。


           


「……七倍か」

「安物でだ」


「グランの道を通すなら、安物では届かん。まともなものが要る」


           


 娘は、布に包んだ刃の破片を見た。


「私の刀も要る。里の打ちが手に入るなら一番いいが、あれは外に出ない」

「外で買うなら、それなりのものを探すしかない」


           


「荷運びで稼ぐか」

「何日かかる」

「……四十日」

「半月だ」

「知ってるよ」


           


           


 ――そこで、剣王が口を開いた。


           


「あー、そういやな」


 男は、変わらぬ調子で言った。


「西に、市が立つ町がある」


           


「市?」

「港町だ。名前は、確かソルグっつったかな」


 男は、記憶を掘り返す顔をした。


「四十年前に一度だけ行った。まだ十七だった頃だ」

「風首んとこで落とされた帰りにな、寄ったんだよ」


           


「あそこはな、なんでも置いてる」


           


「剣も、石も、鎧も。うちの里の打ちより古いのが平気で棚に転がってた」

「値も安かった。だから覚えてる」


           


「なぜ安い」

「知らん」


 男は、あっさりと言った。


「安いなら安いでいいだろ。俺は買わなかったがな」

「なぜ買わなかった」

「金がなかった」


           


 男は笑った。


「十七の小僧が、風首に落とされて、すっからかんで帰る途中だぞ」

「棚を見て回って、腹減って、帰った。それだけだ」


           


           


 ――それだけだった。


           


 この男が知っているのは、そこまでだった。


 棚があった。安かった。買わずに帰った。


 四十年前の、腹を空かせた十七の記憶。


           


 ――だから、何も言わなかった。


           


 言えることが、なかったからである。


           


           


「ここから西へ五日だ。海沿いに出る」


「――海」


           


 スイの声が、少し変わった。


           


「おう。港町だからな」


           


           


 ――海だ。


           


 村が焼けてから、一度も見ていない。


 あの日、丘の稜線に立って、朝日を正面から浴びて、目を細めて、開いた。


 海が見えた。村が見えなかった。


           


 それきりだった。


           


           


「――スイ」

「行く」


           


 即答だった。


           


「顔がひどいぞ」

「そりゃそうだろ」

「そういう意味ではない」


           


           


 ――出立は、その日の昼だった。


           


 ゼイルは、里へ戻る。西へは来ない。


 娘が留めようとして、留まらなかった。


「四百人が待ってんだよ」

「腕が」

「腕は動く。田は水が要る」


           


 男は、折れた鞘を腰に差した。


 中身は入っている。鞘だけが折れて、真ん中で二つになったまま、紐で縛ってあった。


           


「坊主」

「なんだ」

「一つ、聞いとけ」


           


 男は、窪地を見渡した。


 壁のない谷。黒い縦穴。何も残っていない場所。


           


「あいつは、また来る」


           


「来るまでに、お前が何をやったかで結果が変わる」

「――何もやらなけりゃ、同じことが起きる」


           


「分かってる」

「分かってねえよ」


           


 男は、そこで笑った。


 目尻に皺が寄る、いつもの笑い方だった。


           


「分かってる奴は、そんな顔で返事しねえ」


           


           


 ――そして、娘のほうを向いた。


           


「リア」

「はい」

「刀な」


           


「安いのを買うな」


           


           


 それだけ言って、男は歩き出した。


           


 東へ。窪地を出て、山のほうへ。


 振り返らなかった。この一族は、そういう別れ方をする。


           


           


 ――五日、西へ歩いた。


           


 山を降りると、風が変わった。


           


 四日目の夕方、スイが足を止めた。


           


「どうした」

「……匂う」


           


 まだ、何も見えない。丘が二つある。その向こうだ。


           


 だが、風に混じっていた。


           


 ――塩の匂いがした。


           


           


 五日目の昼、丘を越えた。


           


 ――海が、あった。


           


 スイは、そこで立ち止まった。


 立ち止まって、しばらく動かなかった。


           


 グランも、リアも、何も言わなかった。


           


           


 ――同じ色だった。


           


 あの浜と、同じ色をしていた。


           


 寄せて、引いて、また寄せる。


 波の音が、丘の上まで届いてくる。


           


           


 その海際に、町があった。


           


 斜面にへばりつくように、家が積み上がっている。石ではない。板と、拾い集めた木と、船の残骸だった。


 道が細い。曲がっている。上から見ると、蜘蛛の巣のように入り組んでいた。


           


「……曲がっているな」


 娘が、そう言った。


「里と同じだ」


           


 ――違う、とスイは思った。


           


 里の畦は、曲げてあった。八千年かけて、誰かが意図して曲げた。


 この町の道は、曲がっている。


 ――曲げたのではない。


 平らな場所がなかったから、あるところに家を建てた。建てた隙間が道になった。


 誰も設計していない。生きた跡が、そのまま形になっている。


           


           


 港には、船が並んでいた。


           


 網が干してある。魚を捌く音がする。子供が走っている。


           


 ――普通の、港町だった。


           


「なんだ、まともじゃねえか」

「そう見えるな」

「見えるって言い方すんな。怖えだろ」


           


           


 三人は、丘を降りた。


           


           


 ――日が落ちるまで、何も起きなかった。


           


 宿を取った。銅貨四枚。安かった。


 飯を食った。魚が旨かった。


 女将は愛想がよかった。旅の話を聞きたがっていた


           


 ――そして、日が落ちた。


           


           


 宿の外で、音がした。


           


 板を打つ音だった。とん、とん、と。一定の間隔で。


           


 スイが窓を開けると、町の家々から、人が出てきていた。


           


 全員が、荷を担いでいる。


           


           


 ――女将が、階段を上がってきた。


           


「あら。起きてらしたのね」


           


 昼と、同じ顔だった。


           


「あのね、お客さん。夜はね」


           


           


「――外に出ないでね」

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