第24話 溢れる
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
“第24話 溢れる”
――谷が、なかった。
林を抜けて、崖を回り込んで、半日かけて渓谷の入口へ戻った。
戻って、三人とも足を止めた。
スイは、そこが自分の通ってきた道だと認識するのに、しばらくかかった。
両側の岩壁が、ない。
右は、剣王が斬った。あれは覚えている。壁の一枚が丸ごと外側へ倒れて、崖と森が見えた。
――左も、なかった。
道幅が、荷車二台ぶんだったはずの場所が、村ひとつ入る広さになっている。
地面には、黒い縦穴がいくつも開いていた。
あの男の水の跡だ。数えるのをやめた。数えたところで、意味のある数字にならない。
そして、その全部の底が、同じ黒だった。
――残っていない。
斬られた岩には断面がある。焼けた土には灰が残る。潰れた石には破片が落ちる。
この谷には、それがなかった。
消えた場所の周りに、消えたものの痕跡が一つもない。
「……坊主」
背中の上で、巨漢が言った。
「これ、二人でやったのか」
「二人だ」
「――嘘だろ」
スイは、答えなかった。
答える代わりに、その一帯を見渡していた。
「……多分、これでも抑えてた」
そう思い周りを見渡す
――ここに、俺は立っていた。
あの時、道は狭かった。逃げ場がないと思った。一本道だと思った。
今は、逃げ場だらけだ。壁がないのだから、どこへでも走れる。
――走れる場所が増えたのは、二人がここで殴り合ったからだ。
スイは、掌を握った。
昨日の夜、置き方を一つ覚えた。それで喜んでいた。少しは進んだと思っていた。
この景色の前では、掌一杯という言葉が、ただ間抜けに響いた。
「――スイ」
娘の声が、いつもと違った。
スイが顔を上げた時、リア・ルヴァンは既に走り出していた。
――谷の、中央だった。
崩れ残った岩壁が一枚だけ立っている。その根元に、影があった。
人だった。
座っている。というより、もたれている。
壁に背中を預けて、足を投げ出して、首が前に落ちていた。
――動かない。
作業着が、原型を留めていなかった。
左の袖が、肘から先ごとない。腕はある。布だけがない。断面が黒く変色している。
右の脇腹から腰にかけて、布が焼けたように無くなっていた。皮膚が見えている。その皮膚の縁も、黒い。
顔が、血で汚れていた。
傍らに、直剣が転がっている。
鞘が、真ん中から折れていた。
「――父上」
娘が、膝をついた。
――スイは、走れなかった。
背中にグランがいる。それもある。
それだけではなかった。
――足が、動かなかった。
この距離から見ても、分かることがある。
胸が上下していない。
「父上」
娘の手が、その肩に触れた。
「――父上」
声が、震えている。
この娘は、感情を目にしか出さない。
三月見続けて、スイはそう理解していた。
――今、声に出ていた。
スイは、林で見た顔を思い出した。
“あの人は、私が起こすまで起きない”
あれは、そういう意味だったのか。
――違う。
あれは、そう言うしかなかっただけだ。
この娘は、里を出る朝に父へ頭を下げた。8000年、この一族はそうやって別れてきた。
言葉を尽くさない。尽くさないから、尽くす機会が来た時に、何を言えばいいのか分からない。
「……起きろ」
「起きてくれ」
――ふぁ。
「……あー」
――誰も、動かなかった。
「よく寝た」
男は、大きく欠伸をした。
欠伸をしながら、首を回した。ごき、と鳴った。
それから、目を開けて、正面の娘を見た。
「おう。リアか」
「早かったな。もう朝か?」
「――は?」
スイの膝から、力が抜けた。
背中のグランごと、その場に座り込んだ。
「……お、おい坊主。落とすな」
「無理」
「無理じゃねえよ」
「腰が抜けた」
「俺もだよ」
――リア・ルヴァンは、動かなかった。
膝をついたまま、父の顔を見ている。
「……なんだ、その顔は」
「人が気持ちよく寝てんのに」
パ ァン
いい音がした。
「痛ェ!?」
剣王ゼイル・ルヴァンが、頬を押さえて跳ね起きた。
跳ね起きて、傷に響いたらしく、そのまま呻いて壁にもたれ直した。
「なにしやがる!」
「息をしろ」
「してるわ!」
「していなかった」
「寝てただけだろうが!」
「――胸が、動いていなかった」
男は、そこで一度、口を閉じた。
自分の胸に手を当てて、しばらく黙っていた。
「……あー」
「そりゃ、悪かった」
「息が浅くなるんだよ。ああいうことした後はな」
――リアは、答えなかった。
答えずに、父の肩に額を落とした。
しばらく、そうしていた。
「……おい」
「黙れ」
「わしの言うことは聞かんのかお前は」
「黙れと言った」
男は、それきり黙った。
黙って、動かないほうの左手で、娘の頭を一度だけ叩いた。
――風が、通った。
壁のなくなった谷を、風が真横に抜けていく。
この場所は、もう渓谷ではない。ただの、広い窪地だった。
しばらくして、ゼイルが顔を上げた。
「坊主」
「……はい」
「なんで敬語だ」
「なんとなく」
「三人とも生きてるな」
「生きてる」
「そうか」
男は、それだけ確認した。
そして、傍らに転がった剣を見た。
鞘が、真ん中から折れている。
「――こいつが、折れた」
「四十年、一度も折れたことがねえんだがな」
「……あんた、何回切ったんだ」
ゼイル・ルヴァンは、少し考える顔をした。
「数えてねえ」
「――ただな」
男は、壁のなくなった谷を見渡した。
「この景色の半分は、俺だ」
「俺が、あいつに一度も届かなかった分だ」
――風が、鳴った。
「あー、それとな。坊主」
男は、あくび混じりに言った。
「あいつ、最後に一つだけ喋った」
「――『こんなはずじゃなかった』ってな」




