第23話 湛える
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
"第23話 湛える"
リアが目を開けた時、視界の端に空があった。
枝と葉の隙間から見える、朝の白い空だった。渓谷では、空は帯だった。両側の岩壁が切り取って、いつも同じ幅で頭上を横切っていた。
――谷では、ない。
そこまで理解して、次に、背中が濡れていることに気づいた。
娘は、起き上がった。
起き上がって、動きを止めた。
――水の上に、寝ていた。
林の下生えが、一帯まるごと水を含んでいる。手をつけば、指が沈む。立てば足首まで来る。
沢はない。雨も降っていない。
朝日が斜めに差して、その水面が林の底で光っていた。
――一晩ぶんだった。
「……何を、した」
声が、掠れている。
少し離れた場所に、男が座っていた。
木に背を預けて、掌を開いている。
とぷん、と鳴った。
ぱ、
散る。十二粒。それぞれが朝日を弾いて、小さく光る。
とぷ、
膨れた。
とぷ、
もう一度、膨れた。
――リアの瞬きが、止まった。
「……増えている」
「増えてねえよ」
振り返らずに、そう答えた。
「一回に出る量は、掌一杯のままだ。昨日と一緒」
男は、膨れた粒を見上げている。
「置く場所を、増やしただけだ」
娘は、水を踏んで近づいた。
足音がしない。水の上でも、この娘は足音を立てない。
「説明しろ」
「掌の上には、掌一杯しか置けねえ」
「そうだな」
「けど、指から離した粒は、もう掌の上じゃねえ」
スイは、掌を開いた。とぷん、と湧く。
それを、ぱ、と散らす。
「離した瞬間に、こいつら一個ずつが器になる」
とぷ、
膨れる。
「だから、注げる」
リアは、しばらく黙っていた。
黙って、その十二粒を見ていた。
「……誰に教わった」
「教わってねえ」
「なら、どこで見た」
スイの手が、止まった。
「昨日」
娘の顔から、表情が抜けた。
「――あの男か」
「あの男だ」
「あいつが最初に掌を開いた時、とぷん、って鳴った」
「俺と同じ音だった」
スイは、自分の掌を見た。
「量が違えば、音も違う。掌一杯と、あの量とじゃな」
「けど、同じ音だった」
「だから、一回に出た量は同じなんだ」
「――回数が、違っただけだ」
リアは、答えなかった。
この娘は8000年ぶんの剣を継いでいる。里には四百人の剣士がいて、その全員が同じ人間に同じことを教わっている。
教える、という行為の意味を、この一族は誰よりも知っていた。
――教わらずに、盗る。
しかも、殺されかけた相手から。指が喉に届いた、あの一瞬の記憶から。
「……お前は」
娘は、そこで言葉を切った。
切って、別のことを言った。
「グランは」
「生きてる。息も脈もある」
「起きないのか」
「まだだ」
巨体は、少し離れた場所に転がっていた。
水の中に半分沈んでいる。スイが引き上げようとして、動かせなかったのだろう。頭だけが、木の根に乗せてあった。
「頭を上げたのは、お前か」
「他に誰がいる」
「……一人で、あれを動かしたのか」
「頭だけだ。あとは無理だった」
リアは、その巨体の傍に膝をついた。
肋に手を当てる。指で軽く押して、位置を数える。
「四本」
「昨日は三本だった」
「増えている」
「……そうか」
「肺は、たぶん無事だ。血の泡が出ていない」
「里の婆に見せれば、三月で歩く」
娘は、そこで手を止めた。
「――だが、この男はもう、無理だな」
「あ?」
「透けるほうだ」
娘は、グランの掌を持ち上げて見せた。
指が、震えている。
握ろうとして、握れていない。眠ったまま、この手は、まだ何かを掴もうとしていた。
「根源力を出す道が、焼けている」
「一人分の器で三人分を通した。そういうことだ」
「治るかもしれん。治らんかもしれん」
スイは、答えなかった。
掌の上で、十二粒が浮いている。
朝日を弾いて、小さく光っている。
――昨日、この手は動かなかった。
半日で治る体を持っていて、必要な時に一度も動かなかった。
その夜のうちに、置き方を一つ覚えた。
――遅い。
覚えるのが遅かったのではない。
覚えた場所が、遅い。
あの渓谷で覚えていれば、何かが変わったかもしれない。変わらなかったかもしれない。
どちらにせよ、この手は林の中で覚えた。
「――スイ」
娘が、こちらを見ていた。
黄色い目が、朝日を吸って金に光っている。
「顔がひどいぞ」
「そりゃ落ちたからな」
「そういう意味ではない」
娘は、立ち上がった。
水を踏んで、正面に立つ。
「私は、抜けなかった」
――それが、最初の言葉だった。
「抜いた。抜いたつもりだった」
「気づいたら、柄しか握っていなかった」
「里で一度も、そんなことはない」
「父上の前でも、私は抜ける」
娘は、腰を見た。
鞘がある。中身がない。三つになった刃は、渓谷の道に転がったままだ。
「8000年ぶんを継いだ手が、一度で終わった」
――スイは、その顔を見ていた。
表情が、動いていない。
この娘は、感情を目にしか出さない。三月見続けたスイは、それを知っている。
――瞳孔が、開いていない。
開いていないということは、この娘は今、何にも興味を持っていない。
「なあ、スイ」
「なんだ」
「お前は、あれを見て何を覚えた」
スイは、掌の十二粒を見た。
「置き方」
「そうか」
「私は、何も覚えなかった」
――娘は、そこで立ち上がった。
水を踏んで、正面に立つ。
朝日が斜めに差して、赤い髪の輪郭だけが白く光っていた。
「――スイ」
「あ?」
「お前が最初に、前へ出たな」
――スイの手が、止まった。
「あの男が道の先に立った時だ」
「グランが震えて、私が柄を握って動けなくなって」
「――お前だけが、一歩前に出た」
「……そうだったか」
「そうだ」
「私は、その背中を見ていた」
娘の指が、腰の鞘に触れた。
中身のない鞘だった。
「里で四百人が私を見ている。私は三番目だ」
「三番目というのは、上に二人しかいないということだ」
「――だから、私は前に出る側の人間だと思っていた」
「昨日、後ろにいた」
――スイは、何と言えばいいのか分からなかった。
前に出た。それは事実だ。
出て、何もできなかった。喉に指が届いて、水を三粒撒いて、置き場所は合っていて、それでも届かなかった。
――誇れることが、一つもない。
「……出ただけだぞ、俺」
「知っている」
「何もできてねえ」
「それも知っている」
娘は、少しだけ首を傾げた。
「私は、出てすらいない」
――そして、頭を下げた。
深く下げて、そのまま数拍、動かなかった。
――スイは、その形を知っていた。
里の朝、この娘が父にした別れの形だった。
言葉を尽くさない一族の、たった一つの、尽くし方だった。
「ありがとう」
「――やめろよ」
声が、掠れた。
「頭下げられるようなこと、何もしてねえって」
「それは、私が決める」
顔を上げた時には、いつもの顔に戻っていた。
瞬きの少ない、吊り上がった目。
――ただ、少しだけ赤かった。
「言っておくが、二度は言わん」
「知ってる」
「なら、いい」
娘は、背を向けた。
「――水を止めろ。グランが溺れる」
「あ」
――そこで、水が鳴った。
ばしゃ、
「……うるせえな、朝から」
巨体が、動いていた。
目は開いていない。閉じたまま、口だけが動いている。
「……坊主。水、なんとかしろ。俺ぁ溺れかけてんだよ」
「グラン!」
「!」
「でけえ声出すな。頭に響く」
――水が、跳ねた。
リア・ルヴァンが、走っていた。
この娘は足音を立てない。8000年ぶんの歩き方が、そのまま出ている。
――今、盛大に水を蹴散らしていた。
巨体の傍に膝をつく。
沈むのも構わずに、両膝を水につけた。
「動くな」
「動けねえよ」
「黙れ。今、数える」
娘の手が、肋を這った。
――震えている。
スイは、それを見ていた。
三月見続けた手だ。薪を担いでも音を立てず、剣を振っても揺れなかった手だ。
その手が、今、数を数え損ねていた。
「……四本」
「いや、三本か」
「――数えられん」
「嬢ちゃん」
「黙れと言った」
「顔、近えよ」
娘の動きが、止まった。
――そして、額を、その胸に落とした。
「……生きているな」
声が、掠れていた。
「生きてるよ」
「息をしているな」
「してるだろ。喋ってんだから」
「……そうか」
しばらく、誰も何も言わなかった。
林の中で、水の落ちる音だけがしていた。
やがて、娘が顔を上げた。
――目が、赤い。
この娘は、瞬きが極端に少ない。三月見続けて、スイは一度も見たことがなかった。
「――すまなかった」
娘は、そう言った。
「あの時、お前は最初に前へ出た」
「私は、抜けなかった」
「柄しか握っていない私を、お前が抱えて跳んだ」
「……あー」
巨漢は、片目だけ開けた。
「あのな、嬢ちゃん」
「リアだ」
「リア」
男は、そこで少し笑った。
肋に響いたらしく、途中で咳になった。
「俺ぁ十年、獣王様の下で人を殺してきた男だ」
「そういう男が、人を担いで跳んだんだよ」
「――初めてだ」
「謝られる筋合いはねえ」
娘は、答えなかった。
答えずに、もう一度、深く頭を下げた。
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深く下げたまま、数拍動かなかった。
――里で、この娘が父にした別れの形だった。
「――ありがとう」
顔を上げた時には、いつもの顔に戻っていた。
目だけが、まだ赤かった。
「……おい坊主」
「なんだよ」
「今の、聞いたか」
「聞いた」
「二度は言わねえぞ、この子」
「言わん」
「ほらな」
スイは、笑った。
――笑えた。
昨日から、初めてだった。
男は、片目で空を見ていた。
「親父さん、来たか」
「来た」
「そうか」
「――で、あの人は」
――三人が、黙った。
林の中は、静かだった。
水の落ちる音がする。それだけだ。
昨日、崖の上で白が瞬いていた。一定の間隔で、何度も、何度も。
あれが止まった時刻を、スイは覚えている。
――日が完全に落ちる、少し前だった。
止まったのが、終わったからなのか。
終わらせられたからなのか。
――分からない。
「戻る」
娘が、そう言った。
「谷へ戻る」
「待てよ」
「待たん」
娘は、既に歩き出していた。
水を踏んで、足音を立てずに。
「嬢ちゃん」
巨体が、動かない体で言った。
「あの親父さん、なんて言ってた」
――リアの足が、止まった。
スイは、それを覚えている。
崖の縁を蹴る、その直前に聞いた言葉だ。
「……娘が外に出たから、来たって」
林の中で、水が落ちる音がした。
リア・ルヴァンは、しばらく動かなかった。
やがて、振り返った。
――目が、赤かった。
この娘は、瞬きが極端に少ない。
三月見続けて、スイは一度も見たことがなかった。
「……戻る」
声は、いつもと同じだった。
「あの人は、私が起こすまで起きない」




