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第22話 夜凪

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】


"第22話 夜凪"


 ――目が覚めた時、空が黒かった。


 最初に理解したのは、そこに空があるということだった。


 渓谷では、空は細い帯でしかなかった。両側の岩壁が切り取って、いつも同じ幅で頭上を横切っていた。


 今、その帯がない。


 枝と葉の隙間から、真っ黒な空が広く見えている。星が出ていた。海の上で見るのと、同じ数だけ。


_落ちたのか。


 思い出すまでに、数拍かかった。


 崖。壁を斬った男。透明になった腕。夕日。それから枝。


 そこで途切れている。


           


 体を起こそうとして、起きた。


           


 ――起きた。


 スイは、自分の上体を見た。


 肋が折れている。それは分かる。息を吸うたび、内側で擦れる音がする。


 だが、動く。


 左の脇腹に手をやった。穴の縁は、まだ黒い。ただ、血は止まっていた。乾いて、固まって、瘡蓋になりかけている。


 ――半日か。


 落ちたのは夕方だ。今は夜だ。


 その間に、この体は勝手に治っていた。


           


 海の民の肉である。


 同じ体積に、人よりも多くのものが詰まっている。骨も、肉も、水も。海の底の圧に耐えるために積み上げられた密度が、そのまま治りの速さになる。


 この体は、丈夫にできている。


           


 ――だから、何だ。


           


 スイは、下生えの上に座り込んだまま、自分の両手を見た。


           


 動く手だった。


 半日で、もう動く手だった。


           


 ――あの時は、動かなかった。


           


 喉に指が来た時、動かなかった。


 グランが吹き飛んだ時、動かなかった。


 リアの刃が三つになった時、動かなかった。


 剣王が背中を向けて立った時も、動かなかった。


           


 丈夫な体だ。半日で治る体だ。


 その体が、必要な時に一度も動かなかった。


           


 ――握った。


 爪が掌に食い込む。血が滲む。それでも緩めなかった。


           


 悔しい、という言葉は出てこなかった。


 悔しいというのは、届きかけた人間が使う言葉だ。


 スイは届いていない。届きかけてもいない。ただ、そこにいただけだった。


 立っていて、見ていて、それだけだった。


           


 ――バルドの時…村のみんなの時と、同じだ。


           


 あの丘の上でも、そうだった。


 岩陰から一秒も目を逸らさずに、グランが潰されるのを見ていた。それが精一杯だと思っていた。


 精一杯やって、何もしていないのと同じだった。


 あれから、何ヶ月経った。


 精一杯やって、何もしていないのと同じだった。


 あれから、何ヶ月経った。


「……世界の形を引き直すなんて言っといて」

「仲間ひとり助けられねえのかよ……ッ」


   スイは、立ち上がった。


 膝が笑った。それでも立った。


           


 二人は、近くにいた。


 リアは、木の根元に横たわっている。腕に枝の裂傷が三本。呼吸は深い。折れているところはなさそうだった。


 ――グランが、守った。


 自分の体で庇いながら落ちたのだ。透明のまま、二人分の重さを抱えて。


 その巨体が、少し離れた場所に転がっていた。


           


 胸に耳を当てる。動いている。ゆっくりだが、止まっていない。


 背中に手を回して、思わず引いた。


 ――熱い。


 折れた肋が、内側で暴れている。この男は、その状態で走り、跳び、三人ぶんの透明を維持した。


「……馬鹿かよ」


 声が、掠れた。


 この男は言っていた。自分一人を透けさせるのに七年かかった、と。

 その七年ぶんを、昨日、三人に伸ばした。肋の折れた肺で。


「…バカは俺か……足りてねえだろ、そんなもん、ありがとな」



 答える者は、いなかった。


           


 ――スイは、水を探した。


           


 二人に飲ませるものが要る。それに、傷を洗わなければならない。


 林の中である。夜である。沢の音は聞こえない。


 ――ならば。


 スイは、掌を開いた。


           


 ――とぷん。


           


 湧いた。


 掌一杯。3ヶ月かけて、そこまで来た。


      


 ――足りない。


           


 二人ぶんの傷を洗うには、まるで足りない。


 スイは、もう一度湧かせた。掌一杯。もう一度。掌一杯。


 器の大きさが、そのまま天井になる。体の中に詰まっている分で決まる。増えるものではない。


 ――そう、教わった。


           


 ――そうか。


           


 スイは、そこで手を止めた。


           


 あの男は、五十撃った。


 しかも、圧し固めた黒を五十だ。掌一杯を何十回も畳み直した密度で、五十。


 ――器が、違いすぎる。


 だが、それだけだったか。


           


 スイは、目を閉じた。


           


 ――思い出せ。


           


 あの男が、最初に掌を開いた時。


 とぷん、と鳴った。


 ――同じ音だった。


 自分と、まったく同じ音だった。


 量が違えば、音も違うはずだ。掌一杯と、あの量とで。


           


 ――違わなかった。


           


 スイの背中を、何かが走った。


           


 あの男は、一度に五十を出したのではない。


 ――一粒ずつ、五十回出した。


           


 そんなはずはない。あれは一瞬だった。指を弾いた、その一動作で五十が並んだ。


 だが、音が同じだった。


 音が同じなら、一回に出た量は同じだ。


 ――なら、回数が違う。


           


 スイは、掌を開いた。


           


 ――とぷん。


           


 掌一杯。


 消さずに、そのまま置いた。


           


 そして、もう一度湧かせた。


           


 ――とぷん。


           


 同じ掌の上に。既に一杯ある、その上に。


           


      ぱしゃ。


           


 零れた。


 二杯目が入る場所がなく、掌から溢れて、下生えに落ちた。


           


 ――当たり前だ。


           


 掌の上に置くから、掌一杯までしか入らない。


 器の大きさが天井になるというのは、そういう意味だった。


 体の中に詰まっている根源力の量ではない。


 ――一度に置ける場所の広さだ。


           


 スイは、掌を閉じた。


           


 ――なら、置く場所を増やせばいい。


           


 右手を開く。とぷん。


 左手を開く。とぷん。


           


 二杯。


          


 ――そういうことじゃ、ない。


           


 手は二本しかない。あの男は五十置いた。掌が五十あるわけがない。


           


 スイは、そこで、あの光景をもう一度なぞった。


           


 男は掌を開いた。とぷん、と鳴った。掌の上に、一杯あった。


 そして、指で弾いた。


 ――ぱ、と散った。


 散った瞬間に、五十になった。


           


 ――違う。


           


 スイは、息を呑んだ。


           


 散らしたのではない。


 散らせば、一杯が五十に分かれるだけだ。総量は変わらない。あの密度にはならない。


 ――散らした先で、それぞれが器になった。


           


 掌の上に置ける量は、掌一杯。


 だが、掌から離した水は、もう掌の上にない。


 空中に浮いている一粒は、それ自体が独立した器だ。


           


 ――そこへ、注げる。


       


 スイは、掌を開いた。


           


 とぷん、と湧く。掌一杯。


     ぱ、


 散らした。十二粒。3ヶ月で、そこまで来た。


           


 ――そして、注いだ。


           


 空中に浮いた十二粒へ、体の中の熱を、もう一度。


           


      とぷ、


           


 ――粒が、膨れた。


           


 十二粒が、それぞれ二回りほど大きくなった。


           


 スイの喉が、鳴った。


           


 ――入る。


           


 もう一度注いだ。膨れる。もう一度。膨れる。


 掌の上では零れたものが、離した先では零れなかった。


           


 ――そうか。


           


 あの男は、掌一杯を五十に散らして、その五十全部に注ぎ直したのだ。


 注いで、注いで、注ぎ切って、それを今度は圧し潰した。


 だからあの密度になる。だから黒くなる。


         


 ――一度に出せる量は、変わらない。


           


 変えたのは、置き方だった。


 器の大きさは天井ではない。天井だと思っていたのは、掌の上にしか置けなかったからだ。


           


 リアは言った。増えんものは増えん、と。


 ゼイルは言った、出した力がそのまま水になればいい、と。


 ――どちらも、正しかった。


           


 誰も、次のことを言わなかった。


 言われなかったから、気づかなかった。


           


 ――教わっていない。


           


 スイは、十二粒を見ていた。


 膨れた粒が、星の光を弾いている。


           


 ――見ただけだ。


           


 あの男の掌を、一度見た。音を、一度聞いた。


 それだけで、ここまで来た。


           


 人の技を見る癖がある、と村の連中に笑われた。何度でも見せてくれと頼む子供だった。


 ――役に、立った。


           


 スイは、粒を落とした。


 下生えの上に、大人の頭ほどの水溜まりができた。


           


 布を裂いて、浸した。


 リアの腕の傷を洗い、グランの口の端の血を拭った。


           


 それから、木に背を預けて座り込んだ。


           


 ――足りない。


           


 分かっていた。


 置き方に気づいた。それで何ができる。


 注ぎ直すには時間が要る。十二粒に一度ずつ注いで、二回りだ。あの男は一動作で五十を最大まで満たしていた。


 ――速度が、違う。


           


 それに、密度が違う。


 あの黒は、圧し固めた回数が違う。何十回どころではない。


           


 ――届かない。


           


 今日、一歩進んだ。


 進んだから、距離が測れるようになった。


 測れたから、遠さが分かった。


           


 ――それでも。


           


 スイは、掌を開いた。


 とぷん、と湧かせて、散らして、注いだ。


           


 膨れる。


           


 もう一度。


           


 膨れる。


          mo


 ――一晩ある。


           


 二人は、まだ起きない。


 剣王が、まだ谷にいる。


 自分は、動く体を持っている。


           


 だから、やる。


           


           


 ――夜が明けるまで、スイは一度も休まなかった。


           


 林の中で、水が湧いては膨れ、膨れては落ちた。


 落ちた分だけ、下生えが濡れていく。


 朝、リアが目を覚ました時。


 リアは、水の上に寝ていた。


 林の下生えが、一帯まるごと水を含んでいる。踏めば足首まで沈む。

 沢はない。雨も降っていない。


 一晩ぶんだった。

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