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第21話 邂逅③

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】


"第21話 邂逅③"


 ――五十の黒が、動いた。


     シュ、


 音が、それしかなかった。空気を裂く音がない。飛翔するものは必ず空気を押し、押された空気は必ず鳴く。それが物理である。


 ――鳴かなかった。


 押していないからだ。密度が高すぎて、空気のほうが避けている。


 商して、五十本は散らばらなかった。


 射出された瞬間、黒は伸びた。点ではなく、線として。五十本の筋が渓谷の薄暗がりに引かれ、その全部が、たった一点へ向かって束ねられていく。


 スイの立っている、その一点へ。


 ――逃げ場が、ない。


 左右に散っていれば、隙間があった。隙間があれば、抜けられた。


 この男は、隙間を作らなかった。五十本を一箇所へ集めて、そこにあるものを消す。それだけの技だった。


           


 ――スイの膝が、抜けた。


 避けたのではない。折れた肋が悲鳴を上げて、支えが外れた。それだけだった。


   ドドドドドドドドッ


 道が、なかった。


 そこにあったはずの土と石と空気が、まとめて世界から差し引かれている。抉れたのでも、陥没したのでもない。渓谷の底より深い黒い縦穴と、そこから立ち昇る湯気だけが残った。


 ――さっきまで、そこに立っていた。


「――ッ、」


 左の脇腹が、熱い。


 落ちる途中で、束の縁が掠っていた。血が出るより先に、傷口の縁が黒く変色していく。


「――倒れたか」


 男が、そう言った。


 感心ではない。落胆でもない。計算からずれた数値を書き直す時の声だった。


「立っている人間は倒れない。倒れる人間は既に死んでいる」

「その間は、想定していなかった」


 男が、歩き出す。


           


 ――殺しに来ている。


 スイは、それを正確に理解していた。


 脅しではない。警告でもない。最初の一手で喉を狙った。二手目でグランの肋を折り、三手目でリアの刃を三つにした。四手目で、立っていた場所ごと消した。


 全部、殺す手だった。


 ――外れたのは、一度きりだ。


           


 スイは、掌を開いた。


 ――とぷん。


 三粒。それが今の全部だった。


   ぱ、


 撒いた。男の踏み出す先へ、正確に置いた。膝の内側。踏み込んだ足の下。伸ばしてくるであろう腕の、肘の外側。


 置き場所は、合っていた。


 男は、その三粒の場所を一度も通らなかった。


 ――避けたのではない。


 避けるという行為には、必ず元の軌道がある。元があるから、逸れたことが分かる。


 元が、なかった。


 最初から、そこを通る予定がない。


           


 ――動いていない。


 正確には、動きが足りていない。


 人が歩けば肩が揺れる。腕が振れる。頭が上下する。体重が右へ左へ移り、その全部が空気を押す。歩くという行為には、歩く以外の動作が大量に混ざっている。


 ――混ざっていない。


 肩が揺れない。腕が振れない。頭が一定の高さから一度も動かない。歩幅と、足の運び。それだけ。余計なものを、全部削ってある。


 だから、掴めない。


 スイが3ヶ月かけて磨いたのは、動きが空気を押した、その形を拾う技術だった。押していない相手からは、何も届かない。


 薄い。輪郭が薄い。そこにいるのに、そこにいるという情報が来ない。


           


 ――獣王とは、逆だ。


 あの化け物は大きかった。歩けば地面が沈み、腕を振れば天幕が三つ潰れた。


 あの時、スイは怖くなかった。見えていたからだ。


 どれだけ大きくても、どれだけ速くても、あれは動いていた。動けば空気が動く。動いた空気は、この肌に届く。


 だから拳が届いた。だから水無月が入った。


 ――この男には、届かない。


 獣王が山なら、この男は霧だ。殴れる山と、殴れない霧。そういう差だった。


           


 男が、スイの前に立った。三粒は、地面に落ちた。


「いい置き方だった」

「普通の人間なら、三つとも当たっている」


 右手が上がる。指が揃っている。反りが浅い。角度が、喉の窪みへ真横から入る形で固定されている。


 ――最初と、同じ手だ。


 スイの体は、もう動かなかった。


     かちり。


           


 ――渓谷が、止まった。


 風は吹いている。木の葉は揺れている。止まったのは、この場にいる全員の呼吸だった。


 男の指が、喉の手前で止まっている。


「――おう」


 道の後ろから、声がした。のんびりした声だった。畑の話をするのと同じ調子だった。


「悪いな坊主。芋、まだ余っててな」


 剣王ゼイル・ルヴァンが、そこに立っていた。いつもの作業着で、いつもの直剣を提げて。


 男が、振り返る。初めて、スイから視線を外した。


「――剣王か」

「9日、早い」


「なんの話だ」

「お前がここへ来るのは9日後だ。この場所でもない」


「気味の悪いこと言うな、あんた」


 男の右手が、スイの喉から離れた。離れて、ゼイルのほうへ向く。


 構えていない。自分に向けていた手と、何ひとつ変わらない。


「あー、そうだ。うちの娘、そこで寝てるんだが」

「あれ、俺が起こすまで起きねえんだよ」


 声の調子は、何ひとつ変わっていなかった。変わっていないことのほうが、恐ろしかった。


     かちり。


 ――渓谷が、裂けた。


 抜いていない。鞘の中で完結した斬撃が、外へ出た。


 スイの目には、過程が映らなかった。ただ、空間に白が走った。


 白い。鋼ではない。光でもない。


 ――形を与えられた、力そのもの。


 あの盆地で、この男が掌に出してみせたものと同じ色だった。あの時は刃一本だった。今は、谷ひとつぶんの幅がある。


 それが、男に届いた。


           


 ――届かなかった。


           


 男は、左手を上げただけだった。掌を、前へ。


 水は湧いていない。とぷん、と鳴らない。


 ――そこに、何もなかった。


 スイの肌が、真っ先にそれを拾った。


 空気に混じった湿り。土から立つ気。人の体温が押し出す薄い水蒸気。この3ヶ月、この体が拾い続けてきたものの全部が、その掌の輪郭のところでぷつりと切れている。


 乾いているのではない。乾きとは、水が少ないという状態だ。


 ――少ないのですらない。


 掌の前に、握り拳ほどの穴が開いている。目には何も見えない。渓谷の岩壁が、その向こうに普通に見えている。


 だが肌は、そこを「無い」と報告していた。


      ジ、


 白が、そこへ到達した。


 谷ひとつぶんの幅を持つ斬撃が、掌に触れた縁から順に、短くなっていく。


 削られているのではない。押し返されているのでもない。


 ――先端から、無かったことになっていく。


    シュ、シュ、ジ、


 布を巻き取るように。糸を吸い込むように。斬撃は、その長さを一寸ずつ失いながら、掌へ向かって縮み続けた。


 斬られたなら、断面が残る。焼かれたなら、灰が残る。潰されたなら、破片が残る。


 この世で何かが失われる時、必ず何かが残る。それが物理だ。


        プ、


 最後の一寸が、消えた。


 ――残らなかった。


     ゴ、ヒュゥゥッ


 掌の穴が閉じた瞬間、その周囲へ空気が殺到した。


 抜けていた場所を、周りの空気が埋めに来る音だった。埋めに来るということは、そこに何も無かったということだ。


 男の外套の裾が、初めて揺れた。この場で、この男が動いた証拠は、それだけだった。


     かちり。


 ゼイルが、鯉口を戻した。


 その顔から、笑いが消えていた。目尻の皺が、伸びている。スイは、この男のそんな顔を見たことがなかった。


「……おいおい」


 声が、低い。


「そりゃ、あるはずのねえもんだぞ」


 男は答えなかった。自分の左の掌を見ている。開いて、閉じて、また開く。


「――使わせたか」


           


 剣王が、一歩前へ出た。


 踏み込んだのでもない。ただ、スイと男の間に立った。


「坊主。聞け。一回しか言わん」


 振り返りもせずに、そう言った。


「――禁忌だ」


「この世に三つだけ、触っちゃならん根源がある」

「持って生まれた奴は、生まれた日に処分される。8000年、そういう決まりだ」


 男は、自分の鞘を見た。


「そのうちの一つが、今のだ」


「――いるはずがねえんだよ、あんなもん」


           


「だから、俺は勝てん」


 あっさりと、そう言った。


「斬った端から無くなるんじゃ、どれだけ斬っても同じだ」

「勝てん相手に勝とうとするのは、若い奴のやることでな」


 鯉口に、親指がかかる。


「俺はもう歳だ。今日は、時間を稼ぐだけにする」


           


     かちり。


           


 ――白が、走った。


 男に向かってではない。


 スイの、真横へ。


     ゴォォォォッ


 渓谷の右の岩壁が、上から下まで断ち割られた。


 落ちる。数十年ぶんの落石ごと、壁の一枚が丸ごと外側へ倒れていく。


   ドドドドド、ゴォン


           


 ――光が、入ってきた。


 薄暗かった谷底に、横から夕日が差し込んだ。


 崩れた壁の向こうに、空があった。


 そして、その下に。


 ――森が、あった。


 谷の外側は、切り立った崖だった。崖の下に、木々の海が広がっている。


 高い。まともに落ちれば、まず助からない高さだった。


「行け」

「――そこ、崖じゃねえか!」

「知ってる。だから開けた」


     かちり。


「道は一本しかねえって言ったろ。俺が二本目を作ってやった」


           


 ――その時。


 スイの背後で、岩の擦れる音がした。


    ずり、


 伏せていた巨体が、動いた。


「……坊主、」


 白目は剥いていない。剥いていないだけだ。指の一本も動かないはずの体が、地面に肘をついていた。


「……よけ、たか。今の」

「グラン! あんた」

「うるせえ、黙れ」


 男は、這った。這って、リアの体を引き寄せた。


           


「一回だけだ」


           


 ――スイの視界から、自分の腕が消えた。


 次に、リアが消えた。


 最後に、グランが消えた。


           


「息、止めろ。汗も止めろ」

「今すぐだ」


           


 ――肋が折れている。肺が潰れかけている。それでも、この男はやりきっていた。


 三人ぶん。


 自分一人ぶんの透明を、七年かけて覚えた男が。


「――嬢ちゃんの分は、頭だけ隠す。悪ィ」


           


「無駄だ」


 男の声がした。


「透明は、見えるかどうかの問題ではない」


           


「知ってらァッ!」


           


 巨漢が、走った。


 見えない体が、見えない二人を抱えて、崩れた壁の切れ目へ。


    ドッ、ド、ドドッ


 肋が鳴っている。呼吸を止めたまま、走っている。


           


「――おい、あんた」


 背後で、剣王が言った。


     かちり。


「あんた、さっき言ったな。俺が来るのは9日後だ、と」


     かちり。


「――で、なんで今日来たか分かるか」


           


 崖の縁を、グラン・ボルクが蹴った。


           


「うちの娘が、外に出たからだよ」


           


       ――ヒュゥゥッ


           


 落ちる。


 夕日が、真横から目を焼いた。


 風が耳を殴る。折れた肋が擦れる。腕の中で、赤い尾が揺れている。


 ――森が、下から迫ってくる。


           


 背後で、光が膨れた。


 スイは、振り返らなかった。


 振り返れば、あの男が芋の話をした意味がなくなる。


           


    バキ、ガ、バキバキバキッ


           


 枝が体を裂いた。


 一本目で速度が落ち、二本目で回転し、三本目で腕の中身が抜けそうになった。それでも離さなかった。


     ドサ、


           


 下生えの上に、三つの体が落ちた。


           


 ――透明が、剥がれた。


 グラン・ボルクの体が、下生えの中で、ゆっくりと色を取り戻していく。


 息をしていない。


           


「――おいッ!」


 スイは這った。巨体の胸に耳を当てる。


 動いている。


 止まっていない。


           


 ――谷の上を、見上げた。


           


 夕日を背にして、渓谷の縁が黒い線になっている。


 そこから、光が漏れていた。


 一定の間隔で、白が瞬いている。


    かちり。


    かちり。


           


 ――まだ、切っている。


 四年抜いていない男が、何度も、何度も。


           


 スイは、動けなかった。


 両腕が使えない。肋が折れている。脇腹の穴の縁が、黒いままだ。


t立てば戻れる。戻れば死ぬ。死ねば、あの男が稼いだ時間が無駄になる。


           


 ――だから、見ていた。


 一秒も、目を逸らさずに。


 それが今の自分にできる唯一のことだった。


 ――何ひとつ、できないのと同じだった。

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