第20話 邂逅②
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
"第20話 邂逅②"
――喉に、指があった。
二十歩が、ない。歩いてくる過程が、ない。まばたき一つぶんの間に、この男は距離という概念を省略していた。
指が揃っている。反りが浅い。角度が、喉の窪みへ真横から入る形で固定されている。突く手だ。落とす手ではない。壊す手でもない。
――貫く手だ。
スイの体は、まだ一歩も動いていない。脳が状況を受け取り、危険と判定し、命令を出す。その手順に必要な時間が、この一手には足りていなかった。
ガッ
――止まった。
スイの睫毛が、風圧で押される。
止めたのは、丸太のような腕だった。
「――らァッ!」
この男は、二十歩先の相手が誰を狙うかを既に読んでいた。自分の言葉が言い終わらないことも、たぶん読んでいた。だから、間に合わせた。
「坊主ォッ! 下がれェッ!」
――そこからの5秒を、スイは生涯忘れない。
グラン・ボルクが、消えた。
同時に、道の砂が跳ねる。踏み込みの音だけが残った。姿を消し、呼吸を殺し、汗を殺し、その状態で最速の一歩を出す。10年、獣王の下で殺し合って生き延びた男の全部が、そこにあった。
ドッ
男が、半歩下がった。
――下がらせた。
スイの喉が鳴る。あの男が動いた。二十歩を省略した男が、半歩とはいえ、退いた。
ドッ、ドドッ
見えない拳が二つ、三つと空を叩く。当たっていない。当たっていないが、外れてもいない。この巨漢は殴りに行っていなかった。相手の足を止めるためだけに、当たらない拳を撒いている。
いや、そう見えているだけなのかもしれない、
あの男は、動いていないように見える。
拳が届く場所に立っていて、届いた形跡がない。
初めてグランと戦った時、彼は力を出せていなかったのだろう、あの時とはまるで違う
ただ、全力をかけて尚、彼は倒すのではなく
――時間を、作っている。
「走れェッ! 振り向くなァッ!」
スイは、動けなかった。
動けなかったのではない。動かなかった。この5秒を目に焼き付けなければならないと、体のどこかが判断していた。
「消えていない」
男が、そう言った。
――スイの背筋が、凍る。
消えている。確かに消えている。スイにすら輪郭が拾えない。その透明を、この男は「消えていない」と言った。
「呼吸を止めた。汗も止めた。そこまでは正しい」
「――だが、7年前に覚えた止め方だ」
ドゴォッ
「――ぐ、ォッ……!」
空中で、透明が剥がれた。
巨体が宙に浮き、そのまま渓谷の岩壁へ叩きつけられる。ゴ、と鳴った。今度は岩が割れた。上から拳大の礫がばらばらと降る。
落ちた。
道に伏せたまま、動かない。白目は剥いていない。剥いていないのに、指の一本も動かなかった。
――正確だ。
殺していない。壊してもいない。二度と立てない量だけを、寸分違わず入れた。
5秒。この男が10年かけて積んだ全部が、5秒だった。
「――ッ」
抜いた。
しゃん、と鳴る。8000年ぶんの抜刀だった。スイの目にすら、その動きは追えていない。
シャアッ
――柄から先が、なかった。
握っている。柄は掌の中にある。その先だけが、消えていた。
カラン、カラ、と三つに分かれた金属が道を跳ねる。斬られたのではない。刃の内側、金属の目の一番弱い場所へ、水を三つ。それだけのことだった。
「――ぁ、」
「刃に根源力を纏わせる。理屈は正しい」
男が言った。
「纏わせた場所は、纏わせていない場所より硬い。硬い場所と柔らかい場所の境目が、必ず生まれる」
ドッ
「――ッ……!」
赤い尾が跳ねた。壁にぶつかり、落ちて、動かなくなった。
二人。三秒か、四秒。
男は、一歩も動いていない。最初にスイの喉へ指を伸ばした、その位置に立っている。外套の裾すら揺れていなかった。
――スイは、それを全部見ていた。
見えなかったのではない。目は開いていた。グランが岩に埋まる瞬間も、リアの刃が三つになる瞬間も、全部この目に入っていた。
入っていて、一つも止められなかった。
スイは、掌を開いた。
――とぷん。
湧く。掌一杯。ぱ、と散らす。12粒。
男の目が、初めて動いた。
「――ああ。そこまでは、行ったか」
「知るかァッ!」
踏み込んだ。3ヶ月ぶんの全部を乗せた一歩だった。
12粒が男の周囲へ散る。軌道が見えないなら、通りそうな場所を全部埋める。それが、あの盆地で出した答えだった。
その答えは、正しかった。
――正しさが、間に合わなかった。
ドッ
スイの視界から、地面が消えた。
「――ッ、」
声が出ない。息が出ない。鳩尾に何が入ったのか分からない。分かる前に、既に入り終えていた。ヅ、と肺の中身が逆流し、喉を焼いて、口の端から糸を引いて――
ゴォッ
背中が、岩壁に埋まった。バギ、と石が内側から割れる。自分の背骨の音と、区別がつかない。
12粒が、ぱらぱらと道に落ちた。一粒も、触れていない。
――スイの指が、動いた。
岩を掻き、ずり、と剥がれ落ちて、膝が地面につく。
膝が笑っている。肩が上がらない。息を吸うたび、折れた場所が擦れる音がする。
――胸の奥が、熱い。
村を出てから、一度も冷めていない。
あの浜で二度、これを撃った。二度とも届かなかった。届かないまま、村は焼けた。
――今度も、届かないのかもしれない。
それでも、右手を握った。
掌の中で水が渦を巻き、圧し潰され、また圧し潰される。手首から先だけが、色を失っていく。深海の色ですらない。光を返さない、ただの黒。
男の顔から、表情が抜けた。
抜けたのではない。もともと何もなかった。ただ、その目が、初めてスイの右手に固定された。
「――みなづきィッ!」
ドッ
打った。
――音が、なかった。
衝撃も、風圧も、爆発もなかった。
黒い拳が、男の掌に触れている。
――片手だった。
男は、それを片手で受けていた。指を広げてもいない。ただ、掌を前に出しただけの形で。
パ、
乾いた音が一つ鳴って、黒が散った。
スイの拳から、色が抜けていく。圧し固めた水が、ただの飛沫になって、道の砂に落ちて、消えた。
――止まった。
スイの膝が、崩れた。
全部だった。今のが、全部だった。3ヶ月と、あの浜と、燃えた村と、それでも残っていたもの。その全部を握って打って、片手で受けられた。
「――重い」
男が、そう言った。
自分の掌を見ている。開いて、閉じて、また開く。何かを確かめる手つきだった。
「そこまでは、届いたか」
――そして、男は足先を上げた。
上げて、下ろした。
トン
――谷が、鳴った。
最初に、音が変わった。
乾いていた渓谷の空気が、一瞬で厚くなる。岩壁の色が変わっていく。上から下へ、染みが広がるように。
道の砂が、黒く濡れた。
落石の陰から。岩の割れ目から。何年も雨の降っていないはずの土から。水が、湧いている。
――違う。
スイは、その全部を肌で拾っていた。
湧いてはいない。どこからも来ていない。
この谷そのものが、今この瞬間に、水で満たされていた。
――そして、浮いた。
男の周囲に、球が並んでいく。
一つ。三つ。十。
数えるのをやめた頃には、五十を超えていた。
どれも、拳ほどの大きさしかない。小さい。あまりにも小さい。
――だが。
スイの喉から、音が漏れた。
黒い。
どれも、黒かった。光を返さない、深海の色ですらない、あの黒。
――さっき自分が握ったものと、同じ黒。
同じ黒が、五十。
しかも、密度が違う。掌一杯を圧し固めて、圧し固めて、それでもまだ足りず、何十回も畳み直した黒だった。
――一つで、村が消える。
スイは、そう理解した。理解して、その先を計算するのをやめた。
――なぜ。
なぜ、この男が、これを持っている。
水無月は、あの浜で自分が生み出した技だ。誰にも教わっていない。名前をつけたのも自分だ。
海の民の技術。それは分かる。海の底に伝わるものなのかもしれない。
――なら、この男は。
スイの中で、繋がってはいけないものが繋がりかけた。
自分は、親の顔を知らない。
バルドは何も言わなかった。誰も、何も言わなかった。
この男は、自分の行き先を知っていた。何日で来るかも知っていた。
――胸を、見た。
この胸の熱を、この男は知っている。
若い。二十をいくつか過ぎた程度に見える。だがアルケーを極めた人間が老いないという話を、スイは里で聞いていた。
――嘘だろ。
「……あんた、」
声が、出た。
喉が潰れているはずなのに、その一言だけは出た。
「あんた、まさか――」
男は、答えなかった。
五十の黒が、静かに向きを変える。切っ先を揃えるように。全部が、スイの一点へ。
男が、口を開いた。
感情のない、乾いた声だった。
「――それは、こうやる」




