第19話 邂逅①
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
"第19話 邂逅①"
出立の朝、木の根方に男が座っていた。いつもどおり灰を掻き、いつもどおり芋が焼けている。
剣王が4年ぶりに真剣を持ち、三度その鯉口を切った翌々日である。里は何ひとつ変わっていなかった。田に水が入り、鶏が鳴き、子供が畦を走り、老人が石垣を直している。継承とはそういうものだ。大事件が起きても、翌朝には米を炊く。炊き続けた者だけが8000年を渡れる。
「おう。持ってけ」
「芋か」
「三つある」
「二人だぞ」
「三人だ」
男が顎で背後を示した。畦の上に赤い尾があった。旅装をしている。背に袋を一つ。腰に二本。
「行く」
それだけだった。説明もない。前置きもない。この娘は、決めたことを報告する時にだけ口を開く。
「……は?」
「行くと言った」
「いや、聞こえてるけど」
「なら、なぜ聞き返す」
「おい坊主、口閉じろ。虫が入る」
「入んねえよ」
なぜだ、とスイは思った。この娘には理由がない。里がある。血がある。8000年ぶんの棚がある。守るべきものが、この盆地の中に全部揃っている。外に出る理由が一つもない。
「なんでだよ」
「言わん」
「言えよ」
「言わんと言った」
取りつく島がなかった。娘は畦を降りてくる。旅装でも足音がしない。8000年ぶんの歩き方が、そのまま出ている。
「まあ、そういうことだ」
男が芋を割った。ほくり、と湯気が上がる。
「うちは代々、当主が二十になるまでに一度は外に出す決まりでな」
「そんな決まりはない」
「今作った」
「父上」
「作った理由は、お前が言わんと言ってるからだ」
男は芋を齧った。
「言いたくねえことは言わなくていい。だが外に出る理由は要る。ねえならこっちで用意してやる。それだけだ」
リアは答えなかった。答えずに、視線が斜めに落ちた。呆れた時の顔である。その顔をスイはこの3ヶ月でよく見た。呆れているのではないことを、もう知っていた。
「……なあ、いいのか親父さん。跡取りだろ」
「跡取りだな」
「俺たち、そこそこ危ねえとこに行くぞ」
「知ってる」
男は芋の皮を放り、立ち上がった。立ち上がると意外に背が低い。グランの胸あたりまでしかない。それが盆地一枚を割った男の背丈だった。
「うちの里は8000年、途切れさせねえことだけをやってきた。それは正しい。正しいから続いてる」
「――ただ、正しさってのは、そればっかりやってると腐る」
男は蔵のほうを見た。
「あの棚な。3000年より前は、誰も読めん。なんでだと思う」
「字が変わったからだろ」
「違う。外に出る奴が減ったからだ」
風が田を渡った。
「言葉は擦れて変わってく。外の連中と喋ってりゃ、擦れ方が揃う。里の中だけで喋ってると、里の中だけで変わってく。気づいた時にゃ、外と通じなくなってる」
「うちは、そうやって一度死にかけてる。2000年ほど前だ。誰も出ず、誰も入れず、田を耕して剣を振って、それで完結してた。その時期の紙が一番読めん」
スイは蔵を振り返った。最上段の、届かない段。一番古い紙が、そこにある。
「血を残すってのは、閉じ込めることじゃねえ。――出して、帰ってこさせることだ」
娘は何も言わなかった。言わずに頭を下げ、深く下げたまま数拍動かなかった。顔を上げた時にはいつもの顔に戻っていた。
「行ってくる」
「おう」
それだけだった。この一族の別れは、それで足りるらしかった。
「あー、そうだ坊主。西へ行け」
「西のどこだ」
「行きゃ分かる。道は一本しかねえ」
男はもう芋に戻っていた。それが、この男の見送り方だった。
発進
里を出て、4日歩いた。街道を西へ。山を一つ越え、川を二つ渡り、宿場を三つ通り過ぎた。
道中、リアはほとんど喋らなかった。喋らないが、よく見ていた。スイが水を出す練習をしていれば見ていたし、グランが石を運んで日銭を稼いでいれば見ていた。瞬きの少ない目で、ただ見ている。3ヶ月見られ続けたスイは、もう慣れていた。
3日目の夜、焚き火の脇でグランが掌を開いた。
――とぷん。
湧いた。粒が三つ。指で弾くと、火の中へ落ちて、じゅ、と鳴った。
「……あんた、それできんのかよ」
「そりゃできるだろ」
「いや、水のアルケーじゃねえだろあんた」
「水じゃねえよ。俺のは俺のだ」
男は、もう一度掌を開いた。今度は何も見えない。ただ、掌の輪郭がわずかに歪んで、そこだけ景色がずれた。
「根源力を外に出すだろ。出したもんが、そのまま自分の色になる。俺なら透ける。坊主なら水だ」
「――俺ぁそれを覚えるのに7年かかった」
スイは掌を見た。3ヶ月で出せるようになった。7年かかった男が、隣で笑っている。
「……私は出せないな」
娘が言った。柄だけの鞘に手をかけて、すっと引く。
――それはなんの変哲もない刀だった。
「剣のアルケーは、無から何かを生成するなんてことよりかは、技量をある程度保証してくれる補助のような物でしかない。この刀の切れ味も刀身に根源力を纏わせてさらに鋭くしているだけだしな」
「父のあれとは、量も質も何もかもが違いすぎる」
――そうか、とスイは思った。
自分は特別なことができるようになったわけではない。誰でも、積めばそこに来る。3ヶ月で来たのが早いだけだ。
早いことに、意味があるのか。
その答えを、スイはまだ持っていなかった。
発進
5日目、道が渓谷に入った。
両側が高い。切り立った岩壁が空を細く切り取っていて、日はもう底まで届かない。昼過ぎだというのに、足元は薄暗かった。道幅はそれなりに広い。荷車が二台すれ違える程度はある。だが、脇道がない。分かれ道がない。
――一本道だ。
どこの国のものでもない土地である。国境と国境の隙間に落ちた谷。管理する者がいないので、道も直されない。落石が転がったまま、何年も放置されている。
風が、抜けていた。谷の形に沿って、細く速い風が。
「陰気なとこだな」
「隠れる場所がない」
「そこだよ。嬢ちゃん、分かってるじゃねえか」
巨漢は歩きながら岩壁を見上げていた。
「こういう道はな、待ち伏せに向かねえんだ。上から落とすなら別だがな」
スイは、掌を開いた。とぷん、と湧かせて、また消す。癖になっていた。歩きながら、無意識にやっている。
――掌一杯。
3ヶ月かけて、そこまで来た。リアは繋ぎの刃を出せると言った。グランは7年かかったと言った。自分は3ヶ月だ。
だから、どうした。
風首は十王4位である。
――足りるのか。
考えていた。ずっと考えていた。だから、気づかなかった。いや、多分ずっと前を見ていても変わらなかっただろう。
発進
道の先に、人影があった。
いつからそこにいたのか、分からない。
この渓谷は一本道だ。曲がりはあるが、直線が長い。二十歩先まで見通せていた。誰もいなかった。断言できる。
いなかったものが、そこにいる。
黒い外套。細身。スイより頭一つぶん高い。何も持っていない。
薄暗い谷底で、その顔は影になっていた。輪郭だけが、はっきりと見える。
こちらへ向かって歩いてくる。急いでもいない。ただ、歩いている。
――スイの印象としては、それだけだった。
背の高い男が、道の向こうから歩いてくる。それだけの光景だった。
だから、気づくのが遅れた。
隣で、リアが止まっていた。柄だけの鞘に手をかけている。指が白い。呼吸が、浅い。
そして、グラン・ボルクの顔から、血の気が引いていた。
この男は10年、殺し合いで食ってきた。獣王の前でも笑っていた。剣王の前で、鳴らない警報に震えていた。
その男が、震えている。
この道には、分かれ道がない。
逃げ場所もない




