第18話 八千年
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
"第18話 八千年"
蔵は、里の北の端にあった。
石を積んだだけの、粗末な建物である。屋根は葺き替えたばかりの藁で、壁の隙間からは向こうの田が見えた。
鍵はない。掛け金すらない。戸は建て付けが悪く、開けるのに肩を入れねばならなかった。
――守るという発想が、ここにはなかった。
守る必要がないからである。
この中にあるものは、盗んでも意味がない。売っても値がつかない。持ち出したところで、持ち出した者にはただの鉄でしかない。
八千年、そうであり続けた。
そうであり続けたという事実だけが、この蔵の錠前だった。
「入れ。埃っぽいぞ」
男は先に入った。
肩から入って、身を捻って、慣れた動きで戸をくぐる。
スイも続いた。
続こうとして、左肩が戸枠に当たった。動かない腕が、そのまま鈍い音を立てた。
「……いてえ」
「折れてはねえよ。外れかけてるだけだ」
「同じだろ」
「全然違う。折れたら三月、外れただけなら十日だ」
中は、暗かった。
窓がない。光は壁の隙間から筋になって差し込むだけで、その筋の中を埃が舞っている。
空気が古い。人の入らない場所の匂いがした。
――紙が、あった。
壁一面が棚である。
棚という棚に、巻いた紙が詰まっている。ぎっしりと、隙間なく。
「八千年ぶんだ」
男は棚を撫でた。
「うちの一族が、初代からずっと書いてきた」
「誰が誰と斬り合って、どう勝って、どう負けたか。それだけをな」
「……全部か」
「全部だ」
男は棚から一巻を抜いた。
抜いて、開いて、すぐに戻した。
「読めん」
「あんたもかよ」
「字が古すぎるんだ。三千年より前のは、誰も読めん」
男は肩をすくめた。
「読めんもんを、なんで残してるかって顔してるな」
「してる」
「俺もそう思ってた。二十歳くらいまではな」
――男は棚に背を預けた。
「今は、こう思ってる」
「読めなくなった時点で、あれは記録じゃねえ。積み上げた高さそのものだ」
「一巻ずつは意味を失っても、束になった厚みは残る」
「うちの里の連中はな、この棚の厚みを見て育つ」
「――八千年、誰も途切れさせなかった」
「それだけが伝わりゃいい。中身は、正直どうでもいい」
スイは、棚を見上げた。
天井まである。
最上段は梯子がなければ届かない。届かない段の紙が、一番古い。
――継承とは、そういうものだ。
理由が失われても、形だけは残る。
残った形が、いつか誰かの背中を押す。
その残り方を、この一族は八千年やってきた。
――八十人の村には、一巻もなかった。
誰も何も書かなかった。
書く必要がなかった。書き残さなくても、そこにいる全員が全員を知っていたからだ。
全員が死んだ日に、それは全部消えた。
――消えた、のではない。
スイは、自分の胸に手を当てた。
熱がある。
村を出てから、一度も冷めていない。
ここにある、と思うことにしている。
根拠はない。根拠はないが、そう思っていないと歩けない。
「――で、本題だ」
男は、蔵の奥へ歩いた。
棚の切れた先に、台がある。
木を組んだだけの、これも粗末な台だった。
その上に、一本。
鞘に納まった剣が、置かれていた。
――スイの足が、止まった。
止めたのではない。止まった。
――なんだ、これは。
剣である。それは分かる。
長さは、ゼイルの提げているものとほぼ同じ。鞘は黒く、装飾はない。
――何も、感じない。
根源力がない。
熱もない。気配もない。空気が張ってもいない。
置いてある。
ただ、それだけだ。台の上に、鉄が一本。
――なのに。
――目が、離れない。
「勇者の剣だ」
男が言った。
その言い方は、あまりに軽かった。
畑の話をするのと同じ調子だった。
「ガイン・ルヴァン。うちの初代だ」
「魔王を殺して帰ってきた男が、その時に提げてた剣だ」
「……これが」
「これがだ」
男は台に手を伸ばし――伸ばして、途中で止めた。
「言っとくがな。この剣は、抜けん」
「錆びてんのか」
「錆びてはねえ。抜けんのだ」
男は指を引いた。
「ルヴァンの血しか受け付けん」
「他の人間が握っても、鞘から出ねえ。俺は一度、うちの里で一番力の強い男に引かせてみたことがある」
「――両手で、全身で、根源力まで乗せてな」
「一寸も動かなかった」
――スイは、その剣を見ていた。
依然として、何も感じない。
感じないのに、視線が剥がれない。
水の気配がない。熱の気配もない。
なのに、この鉄の周りだけ、空気の質が違う気がした。
――気がした、だけかもしれない。
「それとな」
男が続けた。
「抜いた奴には、代々の剣技が全部入る」
「……入る?」
「そうだ。魂に刻まれる、って言い方をする」
「俺は一度だけ抜いた。十七の時だ」
「抜いた瞬間に、八千年ぶんの型が全部、頭じゃなくて体に入った」
「それまで俺は、里で二十番目くらいの腕だった」
「抜いた翌日から、一番になった」
――スイは、口を開けたまま黙った。
「……それ、ずるくねえか」
「ずるいな」
「認めんのかよ」
「認めるさ」
男は笑った。
「だが、ずるくねえと困るんだ」
――そこで、男の声が変わった。
変わったというほどではない。
目尻の皺は寄ったままだった。ただ、笑いの中身が抜けた。
「坊主。魔族って知ってるか」
「……名前は聞いた」
「どう聞いた」
「終わらせるほうの神サマの、破片がまとまったもんだって」
「そうだ。よく覚えてるな」
男は台に腰を預けた。
「肉じゃねえ。血も通ってねえ。体そのものが根源力でできてる」
「斬れば減る。減れば集める。集めれば戻る」
「――殺すって行為が、成立しねえんだよ」
「削り切るしかねえ。削り切るまでに、こっちの命が保つかどうか。それだけの話だ」
男は指で台を叩いた。
こつ、こつ。
「で、その中に一体、群を抜いて濃いのがいた」
「国を三つ潰して、次の年に五つ潰した」
「軍を出しても意味がねえ。数を揃えるってのは、あれの前じゃ餌を積むのと同じだ」
「殺した分だけ厚くなる。こっちの死体が、そのまま向こうの体になる」
――魔王。
「名前じゃねえぞ。人がつけた呼び名だ」
「呼び名をつけねえと、話をすることもできなかったからな」
蔵の中は、暗かった。
壁の隙間から差す光の筋の中で、埃だけが動いている。
「それを、うちの初代が殺した」
「一人でだ。軍も連れず、旗も掲げず」
男は、剣を見た。
「――この剣一本でな」
スイは、しばらく黙っていた。
「……勝ったのか」
「帰ってきたからな。少なくとも、負けてはねえ」
「殺したのか」
「そこだ」
――男は、そこで初めて姿勢を正した。
「殺したかどうかは、書いてねえ」
スイの背中を、冷たいものが走った。
「帰ってきた男は、何も語らなかった。褒美も断った」
「玉座を勧められて断って、爵位を勧められて断って、金を勧められて笑った」
「代わりに、こんな辺境の盆地を一つくれと言った」
「――なぜだと思う」
スイは、答えられなかった。
「うちの一族は、こう解釈してる」
男は台から離れ、蔵の戸のほうへ歩いた。
「あれは、消えただけかもしれん」
「削り切ったんじゃなくて、削られすぎて、一旦散っただけかもしれん」
「散ったなら、また集まる」
「集まるのに何年かかるか、誰も知らん」
男は戸に手をかけた。
「だから初代は、里を作った」
「血を残した。剣を残した。抜けば八千年ぶんの型が入るようにした」
「――次に来た時、こっちに手が一本もねえと困るからだ」
戸が開いた。
光が入ってきた。
埃が、一斉に舞い上がった。
「うちの里が四百人いるのはな、坊主」
「畑を守るためでも、剣を売るためでもねえ」
「――ルヴァンの血を、絶やさねえためだ」
その光の中に、赤い尾が立っていた。
いつからそこにいたのか、スイには分からなかった。
リア「父上。話しすぎだ」
「そうか?」
リア「里の外の者に聞かせる話ではない」
「そうかもしれんな」
男は肩をすくめた。
「――だが、こいつは見ちまったからな」
娘は、蔵の中を見た。
台の上の剣を見て、それからスイを見た。
黄色い目が、細くなった。
リア「……何もなかったか」
「え?」
リア「その剣だ。何か、感じたか」
スイは、もう一度剣を見た。
何も感じない。
依然として、ただの鉄が置いてあるだけだった。
「……何も」
リア「そうか」
娘は、少しだけ息を吐いた。
安堵したようにも、落胆したようにも見えた。
どちらなのかは、本人にも分からなかったのかもしれない。
「まあ、そうだろうな」
男は蔵を出た。
「――で、次の行き先だ」
スイが振り返る。
「お前は国を持ってねえ。だからラグナロクには出られん」
「出るには、別の口が要る」
男は、西を指した。
「十王のうち、誰か一人に認めさせろ」
――風が、田を渡った。
「十王ってのはな。一人が国と同じ重さで数えられてる」
「だから、十王が一人推せば、国が一つ推したのと同じ扱いになる」
「……あんたも十王だろ」
「そうだな」
「じゃあ」
「やらん」
即答だった。
「なんでだよ」
「三月で立てた程度の奴を、俺が推すわけねえだろ」
男は笑った。
「俺が推せば、お前は明日にでも出場できる。出場して、初日に死ぬ」
「それは推すって言わねえ。殺すって言うんだ」
――スイは、黙った。
黙って、それから頷いた。
「……分かった」
「物分かりがいいな」
「悔しいけどな」
「悔しがれ。それでいい」
男は西を見た。
「ここから西に、風の吹かねえ谷がある」
「そこに、風のアルケーを使う連中の集まりがある」
「頭の名前は――風首」
男は、少しだけ間を置いた。
「十王の、四番目だ」
スイの目が、開いた。
「……七番目のあんたより上か」
「上だな」
「なんで、そんなとこ紹介すんだよ」
――男は、初めて、少しだけ意地の悪い顔をした。
「あそこはな。誰でも試してくれる」
「身元も、国も、金も要らねえ。行って、名乗って、負ければ帰される」
「――ただし」
男は指を一本立てた。
「あそこの試験に、俺は落ちてる」
風が、止まった。
「十七の時だ。剣を抜いた翌年だな」
「八千年ぶんの型を全部入れた状態で行って、指一本触れずに落とされた」
男は、その指を下ろした。
「――行ってこい。俺の分もな」




