↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/72

第17話 残響

――もう一度だけ、確かめる。


 前提を疑う。順序を疑う。結論を疑う。

 疑って、疑って、疑い尽くして、同じ場所に出た。


 何度やっても、同じ場所に出た。


 誤りがあってほしかった。

 どこか一箇所でいい。計算違いが一つでもあれば、この手を下ろす理由になる。


 ――なかった。


 正しさというものは、こういう時に一切の慈悲を持たない。

 間違っていれば救われた。間違っていなかったから、やるしかない。


 男は、髪を掻き上げた。


 前へ落ちてくるのが煩わしい。それだけの理由で、後ろへ流すようになった。

 いつからそうしているのか、もう覚えていない。


 ――誰かに似ていた気がする。


 誰に、とは思い出せない。

 思い出す必要のあることでも、なかった。


----------------------------------------------

                              

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】


"第17話 残響"

 ――かちり。


 三度目の鯉口が、切れた。


 水は、もうない。

 盆地一枚ぶんの水が両側へ退き、剥き出しの黒い泥が朝日に湯気を上げている。


 スイの掌に、水がない。

 散らした十二粒は、二度目で全部落ちた。


 ――出せばいい。


 スイは掌を開いた。


 ――とぷん。


 湧いた。


 どこから来たのでもない。この体の内側にある分が、そのまま出てきている。

 水のない場所で水が出せる。三月で手に入れた、たった一つのものだった。


 掌一杯。

 それを、ぱ、と散らす。


 ――十二粒。


「おう。まだ出るのか」

「出る」

「そりゃいい」


 男は、鞘を左手に持ち替えた。


 ――そこで、スイの体が反応した。


 持ち替えた。

 三月のあいだ、リア・ルヴァンは一度も持ち替えなかった。持ち替える必要がなかったからだ。


 持ち替えるということは、今から変わるということだ。


「言っとくがな、坊主」


 男が腰を落とした。


「さっきまでのは、俺が座ったままやってたようなもんだ」


 ――ぞ、と。


 スイの背中が、粟立った。


 剥き出しの泥の底。

 その上に、男が立っている。ただの農夫の体つきで、ただの直剣を鞘ごと提げて。


 ――量れない。


 最初に見た時と、何ひとつ変わらない。

 天秤の皿に、何も載らない。


 ――違う。


 スイは、そこで気づいた。


 載らないのではない。


 ――皿のほうが、小さい。


 この三月で、スイの天秤は大きくなった。

 だから、ようやく分かった。分かったところで、まだ載らない。


 この男を量るには、まだ皿が足りない。


「――行くぞ」


 男が、消えた。


 消えたのではない。


 ――足音が、なかった。


 二度目まで、この男は泥を踏んでいた。ずぶ、と沈む音がした。

 スイはそれで安心していた。地に足のついた人間だと思っていた。


 今、音がない。


 ――どこだ。


 空気が動かない。湿りが揺れない。

 三月かけて磨いた感覚に、何ひとつ引っかからなかった。


 ――上。


 根拠はなかった。

 根拠はなかったが、体が上を選んだ。


 スイは、散らした十二粒のうち、九粒を頭上へ寄せた。


 ――ぴん。


 ――ぴん、ぴん、ぴん。


 四つ、鳴った。


 四つ鳴って、五つ目は鳴らなかった。


 ――どぉん。


 肩の付け根に、鞘が入った。


 骨が鳴る。視界が白く飛ぶ。

 体が泥に叩きつけられ、二度跳ねて、三度目で止まった。


 ――立て。


 立とうとした。

 左腕がつかなかった。右腕をついた。膝を立てた。


 ――立った。


「……おい」


 男の声が、初めて低くなった。


「四つ逸らしたな」

「……四つ」

「上だと分かったのはなぜだ」

「わかんねえ」

「分からんで当てたのか」

「当てた」


 男は、鞘を肩に担いだ。


 ――商して、しばらく黙っていた。


 畦の上で、四百人が黙っている。

 誰も声を上げない。上げ方を知らない。この里の人間は、驚いた時に黙る訓練を受けている。


「――もう、いい」


 男が言った。


「三つ立った。約束だ」


 スイは、泥の中で膝をついたまま顔を上げた。


「……まだやれる」

「やれるだろうな」

「じゃあやれよ」

「やったら死ぬんだよ、坊主」


 男は笑った。


 目尻に皺が寄る。いつもの笑い方だった。


「四つ目からは、加減の効かねえ場所に入る」

「俺はな。加減しながら剣を出す方法を、一つしか持ってねえ」


 男は、鯉口を戻した。


 かちり。


「――鞘から出さねえ。それだけだ」


 その言葉の意味を、スイが理解するまでに、たっぷり三拍かかった。


 ――抜いていない。


 三度とも、この男は剣を抜いていない。

 水を割ったあの一閃も、鞘の中で終わっていた。


 抜けば、加減ができない。


 だから抜かない。

 四年間、一度も。


 ――里の誰も、この男が神技を使うところを見たことがない。


 当たり前だった。

 見た人間は、全員死んでいる。


「……おい」


 畦の上で、巨漢が呻いた。


「あんた、今のが加減か」

「加減だな」

「……冗談じゃねえぞ」

「冗談だったら楽なんだがな」


 男は泥を踏んで歩いてきた。


 ずぶ、ずぶ、と沈む。

 今度は、ちゃんと音がした。


 スイの前で屈み込み、泥まみれの顔を覗き込む。


「よく立った」

「……ああ」

「痛えか」

「痛え」

「そうか」


 男は立ち上がった。


「約束だ。次に行く場所を教えてやる」


 ――そして、里の奥のほうを見た。


 蔵がある。

 鍵のかかっていない、誰も入らない蔵が。


「その前に、一つ持たせてやるって言ったな」


「言った」

「あれは嘘だ」


 スイの動きが、止まった。


「持たせるつもりは最初からねえ」


 男は、あっさりとそう言った。


「ただ、見せるだけだ」

「見せて、お前がどう反応するかで、次の行き先を決める」


 ――風が、吹いた。


 剥き出しの泥の底に、両側から水が戻りはじめていた。

 ゆっくりと、少しずつ。田は、少しずつしか受け取らない。


「立てるか」

「立てる」

「じゃあ、来い」


 男は歩き出した。


「――八千年ぶん、見せてやる」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。