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第16話 鞘走り

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】


"第16話 鞘走り"


 ――田の水が、割れた。


 斬られたのではない。

 斬るという行為には、刃が通る過程が要る。過程には時間が要る。時間が要るなら、そこには順序がある。


 順序が、なかった。


 水面は、割れる前と割れた後だけを持っていた。

 その間に何が挟まっていたのかを、この場の誰も見ていない。四百人が見ていて、四百人が見ていなかった。


 ――ちり。


 鞘から漏れた光は、それだけだった。


 抜いていない。

 男は今も、鯉口を親指で押さえたまま、そこに立っている。


 盆地一枚ぶんの水が、両側へ退いていた。

 剥き出しになった黒い底が、朝日を吸って湯気を上げている。


 その真ん中に、道が一本できていた。


 ――スイまで、まっすぐに。


「二つ」


 男が言った。


 声の調子は、芋を焼いていた時と何一つ変わらなかった。

 変わっていないことのほうが、恐ろしい。


 スイは、立っていた。


 立ってはいた。

 だが、膝から下の感覚がない。踏み込むための地面が、どこにあるのかも分からない。


 ――十二粒。


 散らした水は、また全部落ちていた。


 置く場所がなかったのではない。

 置こうとした瞬間に、置くべき軌道が既に終わっていた。


 ――剣とは、線である。


 振れば軌道が生まれ、軌道には必ず、力の乗る点と乗らない点がある。

 スイはそれを掴んで生きてきた。三月かけて、それだけを磨いてきた。


 線がなければ、掴む場所がない。


 この男の一閃には、線がなかった。

 始点と終点だけがあって、その間が存在していない。


 ――どうやって。


 スイの喉が鳴った。


 乾いていた。

 周囲一面が水だというのに、口の中だけが砂だった。


「顔に出てるぞ」


 男は肩に鞘を担ぎ直した。


「何をされたか分からん、って顔だ」

「……分からねえ」

「分からんうちは、まだ死なねえ。分かった気になった時が一番危ねえ」


 男は足を一歩、前へ出した。


 ――ずぶ、と。


 剥き出しの泥に、靴が沈んだ。


 その音を、スイは聞いた。

 聞こえたことに、心底ほっとした。


 ――足音がある。


 この男は、地面を踏んでいる。

 人間だ。少なくとも、地に足をつけている種類のものだ。


「なあ、おっさん」

「ゼイルだ」

「ゼイル。あんた、今のなんて技だ」


 男は、少しだけ考える顔をした。


「名前はねえよ」

「ねえのかよ」

「つけるほどのもんじゃねえ」


 男は、鞘の腹を親指で叩いた。


 こつ、こつ。


「振ってねえだけだ」

「振らねえで、なんで届くんだ」

「振るから遅えんだよ」


 ――ずぶ。


 もう一歩。


「振るってのはな、坊主。剣を運ぶ作業だ」

「柄を握って、腕を動かして、切っ先を目的地まで運ぶ」

「運んでる途中を、お前は見てる」


 男は、鞘に手をかけた。


「――運ばなきゃ、見えねえだろ」


 スイの背筋が、凍った。


 ――そういう話ではない。


 運ばずに届くなら、それはもう剣の話ではない。

 鞘の中で完結している斬撃を、どうやって外に出しているのか。


 根源力だ。それは分かる。

 剣のアルケー。剣という概念そのものを扱う力。


 ――だが。


 里の誰も、この男が神技を使うところを見たことがないと言った。

 リアですら、一度も見ていないと言った。


 なら、今のは。


 ――まだ、神技ですらないのか。


「三つ目、行くぞ」


 男が、腰を落とした。


 ――そこで、スイは動いた。


 考えていなかった。

 考える機能を、この三月で捨てさせられていた。


 ――散らす。


 ぱ。


 十二粒。今度は自分の前ではない。

 男の周囲に、円を描くように。


 置く場所がないなら、置ける場所を先に埋める。

 軌道が見えないなら、軌道が通りそうな全部に置く。


 それが、三月かけて出した答えだった。


「――ほう」


 男の目尻の皺が、わずかに動いた。


 ――かちり。


 鯉口が、切れた。


 ――ぴん。


 高い音が、一つ。


 次の瞬間、スイの左肩から先が消えた。


 消えたと錯覚しただけだった。

 鞘の腹が、肩の付け根に入っていた。骨が鳴り、体が半回転して、泥に突っ込んだ。


 ――だが。


 ぴん、と鳴った。


 確かに、一粒が仕事をした。


「おい」


 男が、初めて足を止めた。


「今、逸らしたか」


 泥の中で、スイが動いた。


 顔を上げる。

 泥だらけの顔で、笑っていた。


「……逸らした」

「どこを掴んだ」

「掴んでねえ」


 スイは、片腕で泥を押した。


「あんた、線がねえだろ」

「だから、線じゃなくて、あんたの周りに全部置いた」


 ――男の表情から、笑いが消えた。


 消えたのではない。

 顔の造作は、何一つ変わっていない。


 目の奥だけが、変わった。


「……四百人でな」


 男が言った。


「うちの里、四百人いる」

「そのうち、俺の剣に触れたことがあるのは六人だ」


 男は、鞘を肩から下ろした。


「――全員、剣を持ってた」


 風が、止まった。


 剥き出しの泥の底で、湯気だけが立ち昇っている。


「素手で触ったのは、お前が初めてだ」


 スイは立ち上がった。


 左腕が動かない。膝が笑っている。息が浅い。

 それでも、立った。


「……立ってる」

「立ってるな」

「約束、果たすぞ」


 ――男は、しばらく黙っていた。


 それから、笑った。


 目尻に皺が寄る、いつもの笑い方だった。


「まだ二つ目だぞ」

「二つ立った」

「三つ目で終わるかもしれん」

「終わってから言えよ」


 ――かちり。


 鯉口が、また切れた。


 その音を、畦の上でリア・ルヴァンが聞いていた。


 瞬きの少ない目が、大きく開いている。

 その隣で、巨漢が唸った。


「……おい」

「言うな」

「三度目だぞ、あれ」

「言うなと言っている」


 ――四年ぶりに真剣を持った剣王が。


 三度、鯉口を切っている。


 娘は、生まれてから一度も、その光景を見たことがなかった。

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