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第13話 哲学者

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】


"第13話 哲学者"


 修行は、田に立つことから始まった。


「水を集めるな」

「集めなきゃ何もできねえだろ」

「だから、集めるなと言っている」


 娘は畦に座り、膝を抱えていた。

 瞬きが、ひどく少ない。


「父上が言ったのだろう。出した力が、そのまま水になればいいと」

「言われた」

「なら、水を見るな。水があると、体がそっちに頼る」


 ――理屈は、分かる。


 分かるのと、できるのは別だった。


 スイは目を閉じた。

 胸の奥に手を伸ばす。あの熱の在り処へ。


 ――出る。


 出た。

 出て、そのまま散った。


 何にもならなかった。

 温かいものが指先から抜けて、風に溶けて、それきりだった。


「今の、何をした」

「出した」

「出しただけだな」

「そうだな」


 ――アルケーとは、根源である。


 万物を成り立たせている原理そのもの。

 それを人が体に宿し、外へ出し、狙った形へ固定する。そこまでやって、ようやく人は「使った」と言う。


 スイがこれまでやってきたのは、その手前だった。


 根源力を出す。出したもので、既にそこにある水を押す。

 押された水が、彼の代わりに働いてくれていた。


 ――代わりに働く相手がいなくなった時、この男は何も持っていない。


 燃えた村が、それを教えた。


 一月が経った。


 何も、起きなかった。


 田に立ち、目を閉じ、根源力を出しては散らす。

 それを一日に千回やって、千回とも散った。


「進んでねえな」

「うるせえ」

「進んでねえだろって聞いてんだ」

「進んでねえよ」


 男は南の婆に痛みを殺してもらってから、日に日に元気になっていた。

 里の石垣を直す仕事を勝手に引き受け、勝手に馴染んでいた。この男には、そういうところがある。


「なあ坊主。焦ってんだろ」

「焦ってる」

「そりゃ焦るわな」


 男は石を積みながら言った。


「――だがな。焦って出るもんなら、とっくに出てんだよ」


 その夜、リアが火の脇で言った。


「お前、水のアルケーの話を聞いたことがあるか」

「俺のだろ」

「そうだ。だが、お前が最初ではない」


 娘は膝を抱えたまま、火を見ていた。


「里には書物がある。八千年ぶんだ」

「大半は剣の話だ。だが、そうでない紙も混じっている」

「誰が書き写したのかも分からない、来歴の切れた紙が」


 ――そこに、名がある。


「タレス」


 火が、一度爆ぜた。


「水のアルケーを扱った者の名だ」


「どこの国のやつだ」

「書いていない」

「いつの時代だ」

「それも書いていない」


 娘は、少しだけ首を傾げた。


「――そもそも、この世界の話なのかどうかも書いていない、ただそういった御伽話にはみんな揃ってある言葉が記載されている、まるでその物語の名前のように」


 スイは口を開けたまま黙った。


「…YAMAMANI、ただそれだけが書かれている」


「里ではこれを、御伽噺の類として扱っている」

「歴史の棚ではなく、子供に聞かせる話の棚に置いてある」


 娘は火に枝をくべた。


「そのタレスという者が何を言ったか、紙には一行しか残っていない」


「――万物の根源は、水である」


 スイは、その言葉を口の中で繰り返した。


 意味は分からなかった。

 分からないのに、胸の奥が動いた。


「……どういう意味だ」

「知らん」

「知らねえのかよ」

「御伽噺だと言っただろう」


「ただ、続きがある」


 ――トウマニ。


「タレスの力を継いだ者だと書いてある」


「弟子か」

「そうは書いていない。継いだ、としか」


 風が、田を渡った。

 水面が一斉に揺れて、また戻った。


「その者は、神技に至ったそうだ」


「じんぎ」

「知らんのか」

「知らねえ」


 娘は、少し呆れた顔をした。

 呆れたことを、初めて表情に出した。


「技には段がある。誰が決めたのでもない。積み上げた者が勝手にそう呼びはじめただけだ」


 娘は指を折った。


「基本技。誰でもやる。父上が芋を焼くのもこれだ」

「秘技。四年か五年、まともに積めば届く」

「奥義。十年から三十年。人の域を離れかける」


 三本目で、指が止まった。


「――神技」


「見た者が全員、目を疑う。人がやっていい速さでも、重さでもない」


「見たことあんのか」

「ない」


 娘は即答した。


「里で一番強いのは父上だ。その父上が使っているのを、私は一度も見たことがない」

「使えるのかどうかも知らん。聞いたこともない」


 スイは、木の根方のほうを見た。

 闇の中に、灰を掻いている影がある。


「あの人は、そういう話を一切しない」


 ――それきり、その話はしなかった。


「で、そのトウマニという者は、神技を習得していたと書いてある」

「私は信じていない」


 娘は肩をすくめた。


「なにせ、その先が酷い」


 ――その者には、仲間がいた。


「一人は、銀河のアルケーを持っていたそうだ」

「ぎんが」

「空だ。星が並んでいるあれのことらしい」

「……星を、どうすんだ」

「撃つそうだ」


 スイは黙った。


「もう一人は、死のアルケーだ」

「死」

「そうだ。死そのものだそうだ」


 娘は火を掻いた。


「他にもいる。重さを操る者。全ての根源を持つ者」

「読める字だけで五つあった。残りは掠れて読めん」


「――どう思う」


「……嘘だな」

「そうだろう」


 娘は、初めて少し笑った。

 笑ったというより、口の端が動いた程度だった。


「里の誰も、この紙を真面目に扱っていない」

「星を撃つ者と、死そのものの者が、揃って一人の男の仲間だった。子供でも笑う」


 火が小さくなっていた。


「――だがな」


 娘は、初めてスイを見た。

 黄色い目が、火を吸って金に光っていた。


「八千年、誰も捨てなかった」


「里の紙は、いらんものは焼く。場所がないからだ」

「剣の記録でさえ、写しの写しになった時点で焼く」


「この紙だけが、焼かれずに残っている」


 スイは、火を見ていた。


 ――万物の根源は、水である。


 意味は分からない。

 分からないが、その一行を最初に言った人間は、たぶん、この胸の熱を知っている。


 どこの誰なのかも分からない。

 この世界の人間なのかどうかすら、分からない。


 それでも。


 ――同じものを、持っていた。


「なあリア」

「なんだ」

「その紙、読ませてくれ」

「読めんだろう」

「読めねえ」


 スイは笑った。


「けど、見る」

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