第12話 剣王
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
"第12話 剣王"
里は、盆地の底にあった。
石を組んだ家が、田を避けるようにして並んでいる。塀はない。門もない。物見の櫓の一つも立っていない。
――防備という概念が、この土地には存在しないように見えた。
見えただけだった。
畦が細い。曲がっている。三歩に一度、途切れている。
どこをどう通っても、必ず一度は田を渡らねばならない。膝まで浸かり、泥に足を取られ、渡り終えた頃には隊列というものが消えている。
隊列を組めぬ軍は、軍ではない。
ただの、一列に並んだ人間だ。
一列に並んだ人間は、一人ずつ斬ることができる。
――この盆地そのものが、鞘だった。
八千年かけて研がれた鞘である。
最初に畦を曲げた人間が誰であったか、もう誰も覚えていない。覚えている必要がない。曲がっているという事実だけが代々受け渡されてきた。
継承とは、そういうものだ。
理由が失われても、形だけは残る。残った形が、いつか誰かの命を助ける。
里の人間が、こちらを見ていた。
鍬を持った男。桶を提げた女。畦を走る子供。
四百と少しの目が、順にスイを撫でていく。
――見方が、全員同じだった。
足を見る。手を見る。最後に目を見る。
その順序に、ただの一人も例外がなかった。
誰も剣を持っていない。
誰も、剣を持つ必要がない顔をしていた。
「……坊主」
「分かってる」
「分かってねえよ。ここ、赤ん坊まで見てやがる」
里の中央に、木があった。
異様に太い。根が石畳を割り、割ったまま持ち上げている。
その根方で、男が芋を焼いていた。
――そこで、スイの足が止まった。
止めたのではない。止まった。
人が人を恐れる時、そこには必ず比較がある。
あれは自分より大きい。あれは自分より速い。恐怖とは比較の別名であり、比較には天秤が要る。
スイは、これまで幾度か天秤を使ってきた。
グラン・ボルクを載せた。重かった。
獣王を載せた。針が振り切れた。
リア・ルヴァンを載せた。届かなかった。
――今、皿の上に何も載っていない。
男は、そこにいる。
目の前で、灰を掻いている。息をしている。心臓が動いている。
なのに、量れない。
軽いのではなかった。
重さという項目そのものが、この男には存在していなかった。
「おう。焼けたぞ」
――そういう声だった。
スイは、返事ができなかった。
「食うか? 二つある」
男は顔を上げた。
五十がらみ。髪に白が混じり、日に焼けて、皺が深い。
どこの田にもいる農夫の顔である。目尻の皺が、笑い方で出来た形をしていた。
傍らに剣が置かれている。
鞘は古い。金具は錆びている。飾りは一つもない。武具屋の隅に転がっていそうな、ただの直剣だった。
「父上。試験の者だ」
「知っとる。田を空にした奴だろ」
男は芋を割った。
ほくり、と湯気が上がった。
「うちの田を空にしたのは、ここ四十年でお前が初めてだ」
「――で。戻したか?」
「え?」
「水だよ。戻したか」
スイは背後を振り返った。
昨日引いた場所の水位が、周囲より低いままだった。
空を映す鏡に、一箇所だけ歪みがある。
「……戻してねえ」
「だろうな」
男は芋を齧った。
「じゃ、戻してこい。話はその後だ」
「今からか」
「今からだ。芋は残しといてやる」
丸一日、かかった。
桶で運んだ。
根源力で戻そうとして、リアに止められた。
「一度に返せば畦が崩れる」
「田は、少しずつしか受け取らん」
――引くのは一息だった。
あの時、掌を沈めて息を吸っただけで、盆地の水は沖へ引いた。
拍にすれば三つか四つ。それだけで、この土地は空になった。
返すのに一日かかった。
日が落ちる頃、スイは畦に倒れ込んだ。腕が上がらなかった。
二十日歩いた疲れより、こちらのほうが深く沈んだ。
芋は、本当に残っていた。
冷めきって、硬くなっていた。
「食えよ」
「まずい」
「残しといてくれたんだろうが」
「まずいもんはまずい」
スイは全部食った。
夜、焚き火の脇でグランが言った。
「なあ坊主。あのおっさん、なんも感じなかっただろ」
「感じなかった」
「そうだよ」
男は木のほうを見た。
闇の中で、まだ灰を掻いている影がある。
「俺はな。強え奴の前に立つと、体のどっかが警報を鳴らす」
「王様の時も鳴った。お前と最初にやった時も鳴った」
「――あれ、鳴らねえんだよ」
「怖えぞ。鳴らねえのが一番怖え」
翌朝、水が戻っていた。
盆地は元通りの鏡になり、空を映し、風で割れて、また戻った。
その上を、ゼイル・ルヴァンが歩いてきた。
沈んではいない。畦を歩いている。
ただ、畦がどこにあるのかスイには見えなかった。
「おう、戻ってる戻ってる」
男は屈んで、水面に指を突っ込んだ。
「――少し多いな。北の三枚、明日には溢れるぞ」
「……分かるのかよ」
「四十年やってりゃな」
立ち上がり、指の水を払う。
「引くのは一息だ。戻すのは一日だ」
「それが分かるまでは、剣は教えん。ってな話をしようと思ってたんだが」
男は、自分で笑った。
「もう分かったろ。言うことがなくなっちまった」
――そして、剣を地面に置いた。
置いて、掌を開く。
何もない掌である。
その掌に、刃があった。
生まれたのではない。現れたのでもない。
最初からあったものを、今ようやく目が捉えた。出来事の順序は、そういうことになっていた。
白い。
鋼ではない。光ですらない。
――形を与えられた、力そのもの。
「アルケーってのはな、坊主」
男は、その白い刃を無造作に振った。
しゅん、と鳴った。
木の葉が二枚、切れて落ちた。
「外にあるもんじゃねえんだ」
「お前は水を集めてるだろ。田から、露から、人の汗から」
「集めるってことはな。そこに水がねえと、何もできねえってことだ」
スイの喉が、鳴った。
――燃える村。
乾いた大気。灰。空へ昇っていく、村全部の水。
あの時、拳には何ひとつ集まらなかった。
「……ああ、顔に出たな」
男の声が、少しだけ落ちた。
「一回、それで死にかけたか」
「……死にかけた」
「そうか」
それだけだった。
慰めもしなかったし、詳しく聞きもしなかった。
この男は、そういう聞き方をしない。
「まあ聞け。簡単な話だ」
白い刃を持ち上げ、光に透かす。
「根源力ってのは、体の中に詰まってる。生まれた時からな」
「それを外に出す。出したもんで、そこにある水を動かす」
「――今のお前は、それだ」
「順番が、一個多いんだよ」
風が、田を渡った。
「出した力が、そのまま水になりゃいい」
――スイの目が、開いた。
「そうなりゃ砂漠でも海だ。火ん中でも海だ」
「集める必要がなくなる。お前が、湧く」
白い刃が、消えた。
消える瞬間を、スイは見ていた。
見ていて、何も分かった。
「……どうやるんだ、それ」
「知らん」
「知らねえのかよ」
「俺は剣だ。お前は水だ」
男は屈んで、地面の剣を拾い上げた。
「剣の出し方なら教えてやれる。水の出し方は水に聞け」
「うちの田、いくらでも使っていいぞ。壊さん程度にな」
里の外れで、鶏が鳴いた。
「んで、三月やる」
「三月」
「里に置ける期限だ。それ以上は置かん」
「なんでだ」
「里の飯は里の者が食う」
男は肩をすくめた。
「四百と一人になった時点で、どっかの誰かの椀が減るんだよ」
「うちは慈善やってねえ。悪いな」
「……いや」
「気に病むな。三月ありゃ、大抵の奴は化ける」
男は剣の柄を、親指で押した。
――かちり。
盆地の水が、一斉に静止した。
風は吹いている。葉は揺れている。水面だけが、鏡のまま固まっていた。
スイの背中に、初めて汗が浮いた。
浮いて、そのまま冷えた。
「言っとくがな。俺はお前を鍛えん」
声の調子は、何ひとつ変わっていなかった。
変わっていないことのほうが、恐ろしかった。
「鍛えるのは、あれだ」
顎で示した先に、赤い尾があった。
「……は?」
「お前が試したんだろ。最後まで持て」
「父上、私は」
「三番目が一番よく育てるんだよ。一番と二番は教え方を知らん」
「それは父上が横着なだけでは」
「そうとも言う」
鯉口が戻った。
かちり。
水面が、思い出したように揺れはじめた。
「――ただし、条件がある」
男は、初めてスイの目を正面から見た。
笑っている。
目尻に皺が寄っている。
――何も見ていない目だった。
見られているという実感が、どこにも生まれなかった。
「三月経ったら、俺と一本やれ」
「勝テとは言わん。立ってろ」
「立ってたら、次に行く場所を教えてやる」
「……次」
「ラグナロクってのはな。出たいっつって出られるもんじゃねえんだ」
――スイの動きが、止まった。
「……は?」
「知らずに来たのか」
男は、呆れもしなかった。
呆れるという行為には、期待が要る。この男は初めから何も期待していない。
代わりに、少し可笑しそうにした。
「国が代表を立てるんだよ。国だ。個人じゃねえ」
「国を持ってねえ奴が出るには、別の口が要る」
「その口ってのが」
「三月保ったら教えてやる」
男は木の根方に戻り、腰を下ろした。
灰を掻き、次の芋を埋めた。
「ー、それとな」
「まだあんのか」
「そこのでかいの」
顎でグランを示す。
「肋、三本折れてんだろ。ずっと庇って歩いてる」
「……気づいてたのか」
「里の連中は全員気づいてる」
男は火に息を吹いた。
「南の婆さんとこ行け。骨は治せんが、痛みは殺してくれる」
「……いいのか」
「うちの田を空にした奴の連れだろ。四百一人目はもう数えちまった」
――里の奥に、蔵がある。
誰も入らない。
鍵はかかっていない。かける必要がないからだ。
そこに一本、鞘に納まったままの剣が置かれている。
八千年、誰にも抜かれていない。
抜けなかったのではない。
抜く資格を持つ者が、その八千年のあいだ、抜く必要のない世界に生まれ続けたというだけの話である。




