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第11話 血汐

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】


"第11話 血汐"


 ――神が死んだ時、その体は砕けて散った。


 先に生まれた神の欠片は、この世界に降り積もった。

 人がそれを体に宿し、扱い方を覚え、アルケーと呼ぶようになったものだ。


 後から生まれた神の欠片は、そうはならなかった。


 あれは終わらせるために生まれた神だ。

 その破片は地に落ちても薄まらず、混ざらず、ただ寄り集まって、勝手に形を持った。


 人はそれを魔族と呼んだ。


 肉ではない。血も通っていない。

 体そのものが根源力で出来ている。斬れば減る。減れば集める。集めれば戻る。


 殺すという行為が、あれらには通用しない。

 削り切るしかない。削り切るまでに、こちらの命が保つかどうかの話でしかない。


 ――そして、その中に一体。


 群を抜いて、終わらせる神の濃いものがいた。


 どこから来たのかは分からない。

 いつ生まれたのかも分からない。ただ、ある日そこにいた。


 国が三つ消えた。次の年に、五つ消えた。

 軍は意味を成さなかった。数を揃えるという行為が、あれの前では餌を積むことと同義だったからだ。


 殺した分だけ、厚くなった。

 こちらの死体が、そのまま向こうの体になった。


 人はそれを、魔王と呼んだ。


 名を与えたのではない。

 名を与えなければ、話をすることすらできなかったからだ。


 ――そして、一人の男が歩いていった。


 一人ではなかった、と伝わっている。

 共に行った者が幾人かいたはずだが、その名を里は語らない。語らないことにも理由があるのだが、それはまだ、この話には要らない。


 軍は連れなかった。国旗も掲げなかった。

 剣を一本だけ提げて、男は北へ消えた。


 男は帰ってきた。

 魔王は、帰ってこなかった。


 人はその男を、勇者と呼んだ。


 ガイン・ルヴァン。


 男は褒美を受け取らなかった。玉座を勧められて断り、爵位を勧められて断り、金を勧められて笑った。

 代わりに、辺境の盆地をひとつ求めた。


 ――そこに里を作った。


 剣の里。


 男の血は、そこで続いている。

 八千年近い年月を、途切れさせずに。


 なぜ途切れさせなかったのか。

 理由は、里の奥に置かれている。


 鞘に納まったまま、誰にも抜かれず、八千年。


 勇者の剣は、ルヴァンの血にしか応えない。


 ――だから、この血脈は絶やせない。


 絶やせば、次に魔王が来た時、この世界には手が一本もなくなる。


 その血の、今代の娘が。


 畦の上に薪を置いて、鞘に手をかけていた。


 リア・ルヴァン。


 赤い髪を高い位置で束ねている。動くたび、それが尾のように跳ねた。

 吊り上がった目。虹彩が、朝の光を吸って黄色く濁っている。獣の目に近い。だが獣ほど正直ではない。


 細い。

 二十日歩いてきたスイより、なお細い。


 ――その細さが、恐ろしかった。


「三本逸らせたなら、資格はある」

「――残り二本が、まだ通ってるがな」


 ずるり、と。


 スイの腹から泥が落ちた。

 浅い傷だ。血より泥のほうが多い。


「なあ」

「なんだ」

「あんた強えの」

「里で三番目だ」


「上、二人いんのか」

「一人は父だ。もう一人は歳を取りすぎて、もう試さない」


 ――三番目。


 それでいい、とスイは思った。

 一番でなくていい。一番が出てくる場所に、今日は立てていない。


「――坊主」


 泥に沈んだまま、グランが呻いた。


「やめとけ。ありゃ違う」

「知ってる」

「知っててやんのかよ」

「知ってなきゃ、やらねえよ」


 スイは、両足を田の水に沈めた。


 ちゃぷ、と音がした。


 ――薄い。


 脛までしかない。指を通せば底の泥に届く。

 海の水ではない。塩がない。重さがない。


 それでも。


 ――全部、水だ。


 盆地一面。

 空を映して、風で割れて、また戻る、その全部が。


 スイは息を吸った。


 ずずっ。


 足元の水面が、内側へ引かれた。


「――ほう」


 娘の眉が、初めて動いた。


 抜いた。


 しゃん、と鳴った。


 鞘走りの音が、田を渡って、水面を一度だけ震わせた。


 ――消えた。


 スイの視界から、赤が消えた。


 速い。速いという言葉が追いつく前に、既にそこにいない。


 ――右。


 水が教えた。

 娘の踏み込んだ田の水が、跳ねる前に押された。その圧が、スイの脛に届いた。


 スイは右腕を上げた。


 がぎん。


 骨で受けた。


 ――重い。


 細い体のどこにこれが入っている。

 膝が沈む。泥が足首を掴む。


「軽いな」


 声が、耳のすぐ横にあった。


 二撃目。

 どしゃっ、と水が爆ぜて、スイの体が横へ流れた。


 三撃目が来る前に、スイは水を蹴った。


 ばしゃっ。


 泥ごと跳ね上げる。視界を潰す。

 ――潰れなかった。


「泥は目に入る」

「――目を閉じればいい」


 どっ。


 鳩尾に入った。柄頭だ。刃ではなかった。

 スイの体が、く、の字に折れた。


 まだ、殺す気がない。


 その事実が、何よりも重かった。


「――っ、げほ」


 膝が落ちる。

 水に、顔が近づいた。


 ――近づいた。


 その瞬間。


 スイの中で、二十日ぶりに何かが繋がった。


 ――ここは、全部水だ。


 海と違う。塩がない。深さもない。

 だが、広さがある。


 この盆地に張られた水は、畦で仕切られていても、地面の下で全部繋がっている。

 染みて、通って、また上がってくる。


 ――伏流。


 スイは、水に掌をついた。


 ずぶ、と沈む。


 そして、引いた。


 ごぼり。


 音が、盆地の端から返ってきた。


 一枚の田の水が、下がった。

 次の田が下がった。その次も。


 順に。

 波打ち際が沖へ引いていく、あの引き方で。


「――なに」


 娘が、初めて足を止めた。


 止めた場所の水が、なくなっていた。


 露出した泥。剥き出しの底。

 その一瞬だけ、田は海になった。海の底になった。


 ――そして、返ってくる。


 どぉん。


 水が、戻った。


 全部の田から、一斉に。スイの掌へ。


 右腕が、色を失っていく。

 深海の色ですらない。光を返さない、ただの黒。


「――やめろ坊主ォッ!」


 泥の中から、絶叫が上がった。


「殺す気か! 試験だぞ、それァ!」


 ――そうだ。


 スイの中で、何かが冷えた。


 これは、試合だ。

 殺しに来ていない相手に、村を焼いた技を撃つのか。


 迷った。


 ――半拍。


 その半拍を、リア・ルヴァンは見逃さなかった。


「――遅い」


 しゃっ。


 肩から先が、軽くなった。


 斬られたのではない。

 黒く染まったスイの右腕、その手首の内側を、切っ先が浅くなぞっていた。


 ぱしゃん。


 集めた水が、全部落ちた。


 膝から下が濡れる。ただの泥水に戻って、田へ帰っていく。


 ――終わった。


 スイは、泥の上に膝をついた。


 両腕が上がらない。息が入らない。

 傷は浅い。浅いのに、立てなかった。


「――終わりだ」


 娘は剣を振った。


 しゃん、と鳴って、鞘に戻る。


「言っておくが、逃げたな」

「……逃げてねえ」

「逃げた。撃てるものを撃たなかった」


 リアは、スイの前にしゃがみ込んだ。


 黄色い目が、まっすぐこちらを見ている。

 瞬きが、ひどく少ない。


「あれは何だ」

「……分かんねえ」

「分からないものを、私に向けたのか」

「向けてねえ。だから止めた」


 娘は、少しだけ首を傾げた。


「――なるほど」


 立ち上がる。


 赤い尾が、ぱさりと肩を打った。


「合格だ」

「え」

「三本逸らして、二本通した。落第だ。普通ならな」


 娘は、田を見渡した。


 水が、まだ揺れている。

 どの田も、水位が元に戻りきっていなかった。


「――だが、この里の田を、外から来た男が一度に空にした」


「前例がない。前例がないものは、父が見る」


 背を向けて、歩き出す。


「ついてこい、スイ・ガレン」

「里の掟だ。前例のないものは、剣王が見る」


 ――剣王。


 スイは顔を上げた。


「……おい坊主」


 泥から這い出しながら、グランが低く言った。


「言っとくがな」


「剣王ってのは、十王の七番目だ」

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