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第10話 水鏡

【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】


"第10話 水鏡"


 谷を抜けたのは、村を出てから二十日目の朝だった。


 降りきった先に、盆地があった。


 ――スイは、そこで足を止めた。


 水があった。


 海ではない。川でもない。

 平らな水が、盆地の底一面に敷かれていた。


「田んぼだ」

「たんぼ」

「米作んだよ。知らねえのか」

「魚しか獲ったことねえ」


 朝の光が、水面に張りついていた。


 風が渡ると、盆地全部が一斉に揺れた。空が割れて、また戻る。

 水を張った土地というものを、スイは初めて見た。


 ――胸の奥が、動いた。


 深く潜った時と同じ熱が、上へ持ち上がってくる。

 二十日ぶりだった。


「グラン。あそこ、全部水だ」

「見りゃ分かる」

「いや、そうじゃなくて」


 スイは掌を前に出した。


「――届く」


 二人は畦道を歩いた。


 塀がなかった。門もなかった。

 道の脇に石が一つ据えてあったが、苔と泥で文字が潰れていた。


「なんて書いてある」

「読めねえよ」

「俺もだ」


 そのまま通り過ぎた。


 ――それが、間違いだった。


 畦を三本渡ったあたりで、田の水が変わった。


 スイの足が止まる。


 波紋ではない。風でもない。

 水面の下で、何かが動いていた。


「グラン」

「あ?」

「下がれ」


 ――遅い。


 水が、割れた。


 泥の中から立ち上がったものを、スイは人だと認識するのに一拍かかった。

 伏せていたのだ。腰まで水に沈んで、朝からずっと。


 ――何人いる。


 二人。三人。

 いや、五人。


 全員が同じ動きで、同じ角度で抜いた。


 剣だった。


 スイは考えなかった。

 考える前に、足元の水が跳ねていた。


 ――薄い。


 田の水は、脛までしかない。掌に集めても膜にしかならない。

 それでも、五本のうち三本の軌道を逸라した。


 残り二本。


 一本は肩で受けた。

 もう一本が、腹に入った。


 浅い。

 斬られたのではない。斬られる寸前で、刃が止まっていた。


「動くな」

「……動いてねえよ」

「今から動くなという意味だ」


 背後で、鈍い音がした。


 振り返らずとも分かった。グランだ。

 巨体が泥に沈む音がした。抵抗しなかった音だった。


「――おい坊主。手ぇ出すな」

「あ?」

「ここは俺らが悪い」


 スイの視界の端で、男たちが動いた。


 全員が同じ型で構えている。全員が同じ間合いを保っている。

 ――刺客の動きではない。訓練された兵の動きでもない。


 もっと古い。


 この五人は、生まれた時から同じ人間に同じことを教わっている。


「――手を止めろ」


 畦の上から、声が降ってきた。


 娘が立っていた。


 背丈はスイと変わらない。細い。ずいぶん細い。

 肩に薪を担いでいる。その量が、この体格の人間が担ぐ量ではなかった。


「そいつら、石を読めてない」

「読まずに入った時点で――」

「読めないんだ。読まなかったんじゃない」


 娘は薪を下ろした。


 ――その動作を、スイは目で追った。


 膝が沈まない。肩が上がらない。重さが、どこにも出ていない。

 二十日歩いて、この動きをする人間を初めて見た。


「石を洗え、と何度言った」

「……順番で」

「その順番のせいで、今年これで四人目だ」


 剣が引かれた。


 スイの腹から刃が離れ、泥の上に落ちた血が一滴、水に溶けて消えた。


 娘は畦を降りてきた。


「私はリア・ルヴァン」


「ここの者だ。悪かった。あの石には、名乗ってから入れと書いてある」

「……読めねえよ、あんなの」

「そうだな。私もそう思う」


 娘は、それきり謝らなかった。

 一度言えば足りると思っている顔だった。


「で、用件は」

「強くなりに来た」


 ――即答だった。


 リアが、初めてスイの顔をまともに見た。


「なぜ」

「ラグナロク出るからだ」


 風が、田を渡った。


 水面が一斉に揺れて、また戻る。


 男たちの気配が、そこで変わった。

 五人が、五人とも一歩下がった。


「――今、なんと言った」

「ラグナロクに出る」

「出て、どうする」

「勝つ」


 リアは、しばらく黙っていた。


 やがて、泥に落ちた血の跡を見た。

 それから、スイの腹を見た。


「今、五人に囲まれて三本しか逸らせなかった男が」

「そうだ」

「勝つ、と」

「そうだ」


 娘は、鞘に手をかけた。


 構えてはいない。抜いてもいない。


 ――それだけで、スイの背中の水が張った。


 二十日歩いてきた道中で、一度もなかった感覚だった。

 言葉より先に、体が理解していた。


 ――届かない。


「見せてみろ」

「今からか」

「今からだ」


 娘は薪を、畦の上に置いた。


「三本逸らせたなら、里に入れる資格はある」

「――残り二本が、まだ通ってるがな」

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