第四話「七転び七病み」
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気づいたのは日課のランニングから帰宅したときだった。玄関の不自然な静けさに胸騒ぎを覚えながら、ラクアは手を洗うため、洗面所へ向かう。
扉を開け、その向こうにあるものを目にした瞬間、息を忘れた。メリダが苦悶の表情を浮かべ、ぐったりと床に横たわっていた。
「母さん!!」
ラクアは駆け寄り、首元に指を当てる。脈を確かめようとしたその時――
キィーン!!
頭の中をつんざくような、甲高い音が鳴り響いた。
(これは、あの時の……)
断片的な記憶が脳裏に浮かび、素早く切り替わる。
血に濡れたナイフ。青白い手。震える息。
誰のものか分からない叫び声……。
大きく吐き出される息が現実の体と重なる。
直後、ラクアは我に帰った。
「はあっ、はあっ……。なんで、今………?」
小刻みに震える手を見つめるラクアだったが、すぐに今の状況を思い出し、倒れているメリダの首筋に、そっと手を当てた。
暖かい。小さな鼓動がラクアの手を僅かに小気味よく押し返す。
(大丈夫……まだ生きてる)
すぐにメリダを仰向けにし、片手で額を押さえる。そしてもう一方の手で顎先を持ち上げ、気道を確保した。誰に教えられた訳でもない。それでも何故か体が、その一連の流れを覚えていた。
ラクアは震える手で空郵便を二通、走り書きした。
一通は病院へ。もう一通はジークへ。封筒が宙へ飛び立つのを見届けてから、ラクアは再びメリダの傍に戻る。
数分後、静まり返った家に、呼び鈴の音が鋭く鳴り響いた。扉を開けると、メガネをかけた男が一人と、白装束の女が四人。五人は皆、緊迫した面持ちだ。彼らが医師と看護師であることを確認すると、ラクアはすぐに家へ招き入れた。
適切に処置されたメリダの姿を見て、医師たちは一瞬驚いたようだったが、すぐに表情を引き締め、手慣れた様子で処置と搬送の準備に取りかかる。作業は迅速で、ものの数分で支度は整い、メリダは、そのまま病院へと搬送された。ラクアも後を追おうとしたが、その足は一通の返書によって止められる。
それはジークからの空郵便だった。
―――
ラクアへ
まずは、迅速な対処をありがとう。お前がいてくれたおかげで、父さんもなんとか冷静でいられている。父さんはこのまま病院へ向かうが、お前には家を任せたい。ただ、お前も一人では心細いだろう。だから、母さんの次に父さんが最も信頼している人に連絡を取った。もうすぐそちらへ訪ねて来るはずだ。その人を頼るといい。
母さんのことは任せてくれ。
ジーク・シャーデット
―――
ジークの言葉どおり、メリダが搬送されてから数十分後、再び呼び鈴が鳴った。ラクアはわずかに警戒しながらも、ジークを信じて扉を開ける。
そこに立っていたのは、ジークとそう変わらない年頃に見える男だ。鍛えられた体に口元には無精髭が生え、茶色の長い髪を後ろで一つに束ねている。無造作に分けられた前髪の隙間からのぞく眼光は鋭く、穏やかな印象のジークとは対照的に、どこか人を圧するような雰囲気を漂わせていた。
「お前が、ジークのガキか」
男はラクアを見るなり、低い声を響かせる。親以外の大人に話しかけられたことがほとんどなかったラクアは、自分の手をぎゅっと握り、真っ直ぐ男を見据えた。
「初めまして。ラクア・シャーデットと申します。父とは、どういうご関係で――」
「ガキなんだから、敬語なんて使わなくていい」
言葉を遮るように、男は仏頂面のままぶっきらぼうに言った。
「俺の名はファウロ・グローバー。お前の親父とは腐れ縁でな……まあ、仲良くしようや」
そう言うと、ファウロは腰に下げていた剣を椅子に立てかけ、そのままどっかと腰を下ろした。
「……剣士なんですか?」
「だから敬語はやめろっての」
ファウロは眉をひそめ、剣を眺める。
「剣はガキの頃からずっと振ってきた。中途半端にかじった程度のやつには負けねぇよ。ま、本物の天才には敵わねぇがな」
そんなやり取りをした後、しばらくぎこちない空気が流れ続けた。ジークからの追加の空郵便で膠着状態が破られた時には、すでに昼を過ぎていた。内容は、"今日中には、二人とも戻れる"というもの。
ラクアは心底、安堵した。メリダの容体が気がかりだったのはもちろんだが、それだけではない。正直に言えば、ラクアはファウロと絶望的に馬が合わなかったのだ。会話は弾まず、執拗に敬語を嫌うファウロの態度に終始気を遣い続け、居心地の悪さは、時間が経つほどに募るばかりだった。
しかしそれ以上に、ファウロが人として優秀であることは明白だ。メリダがやり残した家事を手際よく片付け、昼頃には氷室の食糧を断りもなく使い、ナポリタンまで作ってしまう始末だ。加えてその味はラクアの知る冷凍食品より何百倍も美味く、ジークの人選に深く納得せざるを得なかった。
---
日が沈み、二人で静かに洗濯物を畳んでいた頃。
ようやく玄関の呼び鈴が鳴った。扉を開けるとそこには、いつものように頼りなさげな笑みを浮かべるジークと、少し顔色は悪いものの、今朝倒れていたとは思えないほど元気そうなメリダが立っていた。
メリダはラクアの姿を認めると、すぐさま駆け寄り、強く抱きしめる。
「ごめんなさい、ラクア……心配かけたわよね」
ラクアは顔を微かに赤らめ、目を逸らす。
「問題なかったよ……それより、大丈夫なの?」
「見ての通りよ。ただの低血圧……と言われたけど、少し魔源子の乱れもあったみたいでね。あなたがいなかったらどうなっていたことか……」
そう言って一息つくと、メリダはジークに目配せをし、ぱっと表情を明るくした。
「でもそんなことより、あなたに言いたいことがあるの」
嬉しそうに、そして少し誇らしげに告げる。
「あなたに、兄弟ができるわよ!」
ラクアの思考が止まった。遅れて、身体の芯を焼く熱が胸いっぱいに広がる。
「本当に!? 弟? 妹?」
「まだそこまではわからないが、最新の医療に頼めば、四ヶ月後には生まれるそうだ」
(嘘だろ? そんなに早いのかよ!!)
地球とは桁違いのスピードに、ラクアは内心で盛大に驚いていた。
「よお、バカ夫婦」
言葉を失っていると、背後から間の抜けた声が飛んでくる。振り返ると、そこには先ほどまでよりもずっと柔和な表情をしたファウロが立っていた。
「助かったよ、ファウロ。急に呼び出してすまなかった」
「まったくだ。久しぶりに連絡を寄こしたかと思えば、ガキの子守りとはな」
その後もしばらく楽しげに会話を続けていた二人だったが、メリダの一声で全員が家の中へ入り、食卓についた。テーブルの上には、ファウロが用意した豪勢な料理がずらりと並んでいる。
やがて、賑やかな夕食が始まった。
酒も入り、さらに饒舌になった成人男性二人の会話は、先ほどよりも数段盛り上がっていく。話題は最初こそ、これからの予定や仕事の話といった無難なものだった。しかし酔いが回るにつれ、メリダが美しすぎるだの、お前のガキは敬語が達者すぎて気味が悪いだのと、聞いていて居心地の悪い内容へと変わっていった。
メリダは終始楽しそうにその様子を眺めていたが、
ファウロがラクアのことを「気味が悪い」と評した瞬間だけは違い、頬をぷくりと膨らませて思いきりファウロの耳を引っ張って懲らしめていた。
テーブルに並んでいた皿がすべて綺麗になった頃、ファウロはすっかり酔いつぶれて眠ってしまっていた。メリダはジークに覚醒魔法を使って酔いを醒まさせると、「私は先に休むわね」と言い残し、ひと足先に寝室へと姿を消した。
ラクアはジークと共に食卓を一通り片付け、その後居間のソファに腰掛けて日課の指南書を読み始めた。
しばらくして、ファウロを客間へ運び終えたジークが、ラクアの隣に座る。
「一つ、お前に言っておかなければならないことがある」
その声に、ラクアは静かに指南書を閉じた。
「何?」
「母さんは元気になったとはいえ、お腹の子のためにも、生まれるまでは極力体力を使いすぎさせないようにしたいと思っている」
そこまで聞けば、次に続く言葉は予想できる。無意識に視線が地面へと落ちていく。
「悪いが、しばらくは魔法の訓練に付き合ってやることはできない。生まれるまではファウロが家のことを手伝ってくれるが、俺も仕事がある」
予想通りの言葉だ。だが、メリダが子を身ごもったと聞いた時から、ラクアの中ではすでに覚悟ができていた。
「ただな」
ジークは一拍置いて続ける。
「今回のお前の行動を見て、父さんはもう、お前を“ただの三歳児”として扱う必要はないと判断した」
その言葉に、ラクアは顔を上げる。柔らかな笑みを浮かべるジークと目が合った。
「だから、これからは一人で平原へ行き、訓練することを許可しようと思う」
「ホントに!?」
願ってもない言葉だった。ガッツポーズをして、寝ているファウロを起こさないように喜びを噛み締める。
「父さん、俺頑張るよ!」
ついにラクアは、一人で外を歩くことを許されたのだ。
---
それからラクアは、毎日一人で平原へ向かい、指南書を頼りに魔法の練習に打ち込んだ。道中、人々の冷たい視線に晒されるのは、正直なところ少し堪えた。だが、それさえ目をつぶれば、充実した日々だったと言える。
しかしそれも長くは続かなかった。
最初の数日は、確かに手応えがあった。手のひらに集めた魔源子が、以前よりも明確に“流れている”と感じられたのだ。
「『強風』!」
吹き出した風は相変わらず微弱。それでも、草の先がわずかに揺れた気がした。
(……今のは、少し強かった)
胸の奥に、小さな期待が灯る。
――いける。
そう思ってしまった。繰り返せば、きっと届く。そう信じて、ラクアは何度も同じ動作をなぞった。
だが――、
次に放った風は、先ほどよりも弱かった。さらにその次は、ほとんど感じられないほどの微風。さっきの感覚が、再現できない。ラクアは眉をひそめ、もう一度だけ集中する。心臓から腕へ、腕から手先へ――魔源子の流れを、意識の中でなぞる。
「……『強風』」
風は、起こらなかった。ただ空気が、静かにそこにあるだけだった。
(違う……さっきのは、なんだった?)
もう一度。もう一度だけ。
何度繰り返しても、結果は同じだった。草は揺れない。空気は動かない。あの“手応え”は、どこにもなかった。
やがてラクアは、ある可能性に思い至る。
――あれは、ただの風だったのではないか。
自分が起こしたものではなく、たまたま、そこに吹いただけの。その結論は、あまりにも簡単で、そして残酷だった。それでもラクアは、手を止めなかった。
否定するように、何度も呪文を唱える。
だが現実は、変わらない。石も同じだった。浮たた、と思った瞬間があったが、それもただ地面を滑っただけ。わずかな凹凸に弾かれ、跳ねただけ。宙に浮いたわけではない。
理解した瞬間、胸の奥が冷たく沈んだ。
(……違う)
違うはずだと、思いたかった。だが、何度やっても結果は変わらない。変わらない現実だけが、積み重なっていく。
それでも、ラクアが訓練をやめることはなかった。何度も、何度も、同じ失敗を繰り返した。自分に期待していたわけではない。どれほど練習しても、胸の奥から湧き上がってくるのは自己嫌悪ばかりで、悔しいという感情は湧いてこなかった。
自分にはできない。そう思い始めてさえいた。それでも、練習をやめる日は一日たりともなかった。メリダが腹の子の小さな動きを、嬉しそうに語ってきた時も。ファウロの作る温かい食事を黙々と口に運んでいる時も。ジークが「いつかは出来るさ」と、不器用に励ましてきた時も……。
ラクアの頭の中にあるのは、いつも魔法のことだけだった。
雨が降り、体の芯まで冷える日でも。冷たい風が吹きつけ、視界を奪われるような中でも。ラクアは、ただひたすらに、訓練を続けた。
何故努力を続けるのか、分からなくなっても。
何も変わらないと分かっていても、それでも――。




