第二話「厄病少年」
夏の訪れが足音を忍ばせていた頃、ひときわ涼しい風が町を撫でた。その心地よい風に誘われ、少年は眠りから目を覚ます。
まだ幼児と呼ぶ年齢ではあるが、整った容姿は、大人さえも思わず目を留めるほどだ。眉まで伸びた柔らかな黒髪と、蒼い瞳を持つ少年。ラクア・シャーデットは、ベッドから降りると、先ほどから唸っていた腹の虫をなだめるため、居間へ向かった。
居間に入ると、白髪の美女――メリダが椅子に座って編み物をしていた。メリダはラクアが近づくと振り返り、微笑みかける。
「おはよう、ラクア」
「おはよ、母さん。朝ご飯はもう出来てる?お腹ペコペコなんだ」
小さな見た目に反して、発せられたのは流暢な言葉だ。
「先に顔を洗ってらっしゃい、スープを温めておくから」
穏やかに笑うメリダに言われるまま、ラクアは洗面台に向かった。
この世界の洗面台は、魔法器具でできている。魔法器具とは、レバーやボタンによる信号や少ないエネルギーで道具が魔法を使うという画期的なものだ。
蛇口から水が流れ出し、それで顔をすすぐ。眼前にある鏡には、ついこのあいだ三歳になったラクアが写っている。
顔を洗い終わり居間へと戻ると、メリダはキッチンに立っていた。胸の前に水の玉が浮かんでおり、その中に白い皿がすっぽりと収まっている。魔法による洗浄だ。
そんないつも通りの光景を横目に、ラクアはテーブルについた。目の前には見慣れた朝食が並んでいる。
ふわふわのバケットに野苺のジャム、熱々のオニオンスープといったところだ。
あくびをしながら、それらをゆっくり口に運ぶ。
食べ慣れたものばかりだったが、幸せを感じながら噛みしめた。ふとテーブルの端を見ると、一月から十二月までの月日が書かれたカレンダーが置かれてあり、この世界も地球と同様に暦があることを示している。
そのまた横には、新聞が畳まれて置いてあった。
ラクアは新聞を手に取り、目を通す。そこには、大量発生した害虫への注意喚起や、つまらなさそうな政治の話題まで載っている。中でも一番大きな見出しにラクアは目を止めた。
『クルドア城から龍が脱走』
「何か面白い記事でもあったの?」
魔法に皿洗いを任せていたメリダが、外に干してあったであろう洗濯物をもって居間に入ってきた。
「いや、なんでも……」
そう言いながら、新聞をパタンと閉じる。
「もう夏ね。外は暖かくなってきているわ。ネフタリアのほうはまだ寒いみたいだけど……やっぱり、ヘルバに住んで正解だったわね」
そう言いながら、メリダは洗濯籠から衣服を取り出し、畳み始めた。
ラクアたちが住むガーランド大陸はネフタリア王国、ヘルバ王国、ブロンズ王国、シルヴァ王国という四つの王国と、その中心に位置する都市アランベールで構成されている。
記事にあったクルドア城も、アランベールにある王統城だ。そして、ラクアが暮らしているのはヘルバ王国。四王国の中で最も治安が良く、人口の少ない国だ。
朝食を食べ終えると、ラクアはすぐに自室へ籠った。密かに文字の勉強を始めてから、もう二年ほど経つ。そして今日、その最後の総復習を終えようとしていた。
(今日一日、勉強に費やせば終わりそうだな)
ラクアはこの頃、一日中自室に籠って勉強に打ち込む日々を送っていた。いつもと同じように机に本と羊皮紙を広げ、羽ペンを手に一心不乱に書き込み始めた。
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次に気づいたときには、日が暮れ、外は暗くなり始めていた。羊皮紙には、地球人には読めないであろう文字がびっしりと書かれている。ラクアはそれを達成感に満ちた気持ちで眺めた。
(やっと、終わった……)
小踊りしたくなる衝動を抑えつつ、次に挑戦すべきことを考え始める。メリダの夕飯に呼ぶ声が聞こえる頃には、考えはまとまっていた。居間へ行くと、茶髪の男――ジークが帰宅し、メリダに「お帰り」のキスをされているところだった。
メリダとジークの夫婦が、世界一のおしどり夫婦であることはラクアの中で周知の事実だ。きっと何処を探しても、ここまで相思相愛な夫婦は居ないだろう。とはいっても、ラクアは一度も家の外に出たことがなかったため、両親以外の大人と接する機会はほとんどなかった。
そのため、実際に見たことがあるのは、家に上がってきた役所の人や工事業者といった限られた人々だけだ。いつも見ている親バカ二人とは違い、仕事を淡々とこなす大人を見て、自分の両親はどこか子供のみたいだと思ったこともあった。
なかでも呆れたのが、ラクアの髪が黒かったことに関する話題をジークが出した時だ。どちらの髪色も受け継いでいないというのに、ジークはメリダが浮気をしたなんていう事を一言も言わず、逆にメリダも浮気をしていないと言う釈明を一言も口にしなかった。
二人の信頼関係は絶対的なものであり、結局ラクアの髪は突然変異によるものとして二人は納得したのだった。
数分後、シャーデット一家は家族そろって夕食の席についた。食卓が整うのを前に、ラクアはメリダとジークに口を開く。
「母さん、父さん。お願いがあるんだ」
「どうしたんだ?急に。お前が父さんたちに頼み事なんて珍しいじゃないか」
ジークは優しく微笑みながらも、どこか怪訝そうに問い返した。
「ラクアは一人でなんでもできちゃうものね」
対するメリダは、誇らしげに笑った。
「――俺に、魔法を教えてほしいんだ」
間髪入れずに言い放つ。その一言に、ジークは目を見開き、メリダはますます嬉しそうに口角を上げた。
「ずっと夢だったんだ。母さんみたいに魔法を使っていろんなことに挑戦したいんだよ」
それぞれの反応を見せる二人を見ながら、ラクアは続けた。ジークはしばらく黙り込み、思案するように目を閉じた。
最初から即座に首を縦に振ってもらえるとは考えていない。この世界には「魔童園」という保育園に近い教育機関がある。英才教育を望む家庭の多くは、その魔童園に入園する四〜五歳頃に、魔法の基礎を叩き込む。
たとえ言葉の習得が早かったとしても、三歳児に魔法を教えるのは事故の危険が大きい。そんなことはわかっていながら、ラクアは半ば諦めつつ、両親に願いを伝えた。
「ねえ、いいでしょ?あなた。ラクアなら偉大な魔法使いになれるわ!」
メリダはジークとは裏腹に、興奮を隠せない様子だ。
(これは、いけるかもしれない!)
メリダの反応に、鼓動が高鳴った。ジークはメリダの意見にはめっぽう弱い。だが、メリダの説得にもかかわらずジークは沈黙を貫いた。ラクアはもう一押しするべく、言葉を放つ。
「頼むよ、父さん。一人では絶対、魔法を使ったりしないからさ」
「別に父さんは、お前が問題を起こすかもしれないなんて思っていない。お前が父さんの子とは思えないくらい優秀だってことは、よく知っている」
ジークはゆっくりとした口調で、一言ずつ並べた。
「じゃあなんで……」
「お前が魔法を学ぶということは、家の外に出る必要がある。この家は、魔法の基礎を学ぶには少し狭いからな」
さらに一呼吸置いて、ジークは語りだす。
「外の世界っていうものは、家の中とは違う。お前を守ってくれる人も少なく、絶対的な居場所も存在しない。選択肢に正解なんてないし、正しいと信じた己の行動に疑問を持つこともある」
ジークの目は、真っ直ぐラクアを射抜く。ラクアは一瞬たじろいだ。
「理不尽が練り固められて出来た世界。そんな場所に、お前は足を踏み入れようとしているんだよ」
ラクアは生前の記憶もあったため、社会の仕組みは理解しているつもりだった。だが、ジークのこれまでにない神妙な様子から、自分が知っている社会とは違うのだと想像できた。
「だから、その世界で自分を見失わず、お前がお前でいられるように努力し、生きていく覚悟があるのなら、父さんは魔法を学ぶことを許可しよう」
それは、三年間見てきた軟弱そうな父からは決して発せられないと思っていた、責任を背負わせるほどの厳格な言葉。ラクアは、その瞬間初めてジークに“貫禄”というものを感じた。
だが、それも束の間。次の瞬間にはいつもの頼りなさげな空気が戻り、ジークは気恥ずかしそうに付け加える。
「とはいえ、俺は魔法を使えない。だから最終的に、教えるのは母さんだがな」
ジークは照れ隠しのように笑った。
これまでジークから、メリダほどの愛情を感じたことは少なかった。しかし、今こうして真剣に向き合おうとしてくれている姿に、胸の奥が心地よい熱で塗りつぶされていくのを感じた。
「父さん、約束するよ。俺は絶対に逃げたりしない。
ちゃんと外の世界に向き合って、俺がやりたいこと、やらなきゃいけないことを見つけてみせる」
茶色に光るジークの瞳をまっすぐに見据え、一語一語を確かめるように言い放った。その言葉を聞いたジークは、満足そうに深く頷く。
「そうと決まれば……明日は家族全員で、朝から平原へ行こう。今日はゆっくり寝て、明日に備えるように」
その後、ラクアははやる気持ちを抑えて夕食を口に運んだ。食べ終わるとすぐにベッドに入り、胸の奥で膨らむ期待を必死に抑え込み、いつもより早く眠りについた。
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翌朝、いつになくはっきりと目が覚めたラクアは、胸の高鳴りを抑えつつ、できる限りの最速で朝の支度を済ませた。洗顔をざっと終え、朝食をスープで流し込むと、いつもより少しだけおしゃれな服を身に纏う。
支度を終え、玄関で五分ほど待ってみたが、メリダとジークはのんびりと準備しているらしく、なかなか姿を見せない。視線がふと、目の前の扉に向く。これまで一度も開けたことのない扉、開けようと考えたことすらなかった扉だ。
その前に立つと、言葉にし難い緊張が胸に満ちた。
しかし、その緊張を上回るほどの好奇心が、ラクアの背を押す。ついに痺れを切らし、ラクアはその重厚で頑丈な扉を押し開けた。
扉の向こうは、想像していた以上に幻想的だった。煉瓦造りの家々が立ち並ぶ街並みは、中世ヨーロッパを思わせる華やかさに満ちている。行き交う人々の装いも様々だ。魔法使いのようなローブをまとった者もいれば、腰に剣を帯びた者もいる。ラクアより少し年上と思われる子供たちが、笑いながら駆けていく姿も確認できた。
だが、一際目を引いたのは、街並みでも道ゆく人々でもない。何十枚という洋形封筒が、人々の頭上を自由に飛び交っている光景だ。
ラクアは最初、誰かの手紙が風に吹き飛ばされたのだと思った。しかし、封筒が角を曲がるのを見て、その考えはすぐに覆される。
「“空郵便”を見るのは初めてか?」
振り返ると、いつもと変わらない格好のジークと、紺色のローブに身を包んだメリダが立っていた。
「特別な封筒に手紙を入れて宛名を書けば、勝手に宛先まで飛んでいって届けてくれるんだ」
ジークはラクアに説明を施しながら、家の戸締りをきちんと終える。こうしてシャーデット一家は、初めて三人そろって街へと踏み出した。
歩いているうちに、ラクアはすれ違う人々の視線が、妙に自分へ向いていることに気がついた。それだけではない。周囲の人々は、明らかにシャーデット一家を避けるようにして道を開けている。
居心地の悪さをごまかすように、ラクアは街並みへ視線を移し、建物や通行人の観察に精を出した。しかし、世間話に花を咲かせている主婦たちのそばを通りかかった時、嫌でもその会話は耳に飛び込んできた。
「ねぇ、あれ……噂のシャーデットさんの子供じゃやい?」
「しーっ、聞こえるわよ」
「本当に髪が黒いなんて、不吉だわ。不景気の原因に決まってるわよ」
「まるで悪魔みたい」
腑に落ちた。ラクアは両親が自分を外に出したがらなかった理由を、はっきりと理解した。息がつまり、悪意がこもった視線に、足が微かに震える。視界の端で、メリダの顔が怒りで歪む。その隣で、ジークは静かに前を見据えていた。
(……俺は、守られてたのか)
思い返せば、ラクアの外の世界との隔離は徹底していた。家の窓はすべてすりガラスで、予防接種も、わざわざ医者を家に呼んで済ませていたほどだ。
「あの人たち……うちのラクアになんてひどいことを……」
「メリダ、ラクアには悪いが今は抑えるんだ。みんな、不景気で気が立っているんだよ」
ジークは静かにメリダを諭した。ラクアはメリダの顔を見て、安心させるように微笑む。
「母さん、俺は大丈夫だよ。何があっても逃げないって、約束しただろ?」
「ごめんなさい……そうだったわね」
メリダはラクアに向き直り、頭を優しく撫でた。
「ラクアは強いのね。私なんかより、ずっと」
力無く笑う彼女を、ジークはそっと抱き寄せた。
「メリダは弱くなんてないさ、誰よりもラクアを愛している君は、世界で一番の母親だよ」
その言葉に、メリダは顔を少し赤らめ、照れ臭そうに笑った。
「もうっ、ジークったら。あなたも私にとって最高の夫だわ」
そこから数分間、ラクアは、いつもの夫婦のいちゃつきを外でも健在なまま見せつけられることになった。家の中で見慣れているとはいえ、さすがに外でやられると気まずさは倍増だ。
居心地は、さらに悪くなった。
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